18 / 23
第4章 終わりと始まり 3
髪を撫でる心地良い感覚に、うっすらと目を開ける。
「おはよう、ニコ」
アシュレイの僅かに口角を上げた顔が視界に飛び込んできて、はっと息を呑んだ。
「……おはよう、アシュ。ずっとこうしてたの?」
「ああ。お前の寝顔を見て過ごしているだけで、幸福な夜はあっという間に朝だ」
髪を束にして手に取り、口付ける。会って間もない頃に、綺麗な髪だと言われたことを思い出して、あの時彼は僕に好意を抱いて言っていたのかどうか考える。
「髪が伸びたな」
「君が戻って来るまで、切らないって決めていたんだ」
「……私がもし永遠に現れなかったら、どうするつもりだったのだ」
身体を起こしてアシュレイの顔を覗き込む。
「君が早く来てくれたお陰で、髪の毛を引き摺って生活しないで済んで良かった」
くすくすと笑いながら言うと、アシュレイは眩しいものを見るように目を細め、僕の顔に手を伸ばした。
「切ってくれる? 前みたいに」
「私を理髪師か何かと勘違いしていないか? 変な髪型になっても知らんぞ」
そう言いながら笑むアシュレイの顔に見惚れながら、頬に添えられた手に自分の手を重ねる。
と、その時ノックの音がしてドアの方を見た。
「ニコデムス様、御起床でしょうか」
「うん、イェルク、今起きたところ」
いつものように返事をするとドアが開いて、着替えの服を手に持ったイェルクが立っていた。そしてそのまま固まって動かなくなる。
「ニコ、流石にこれは不味い」
「え?」
イェルクの視線が僕とアシュレイを交互に何往復も移動した後、部屋に一歩も入らずにばたんとドアを閉めてしまった。
「せめて服を着てからにすべきだった」
そう言われてやっと自分とアシュレイが裸でベッドの上にいることとイェルクの思考停止したまま動かなくなったことの意味を理解して、顔から火が出そうなほど熱くなる。
ゆっくりと少しだけドアが開くと、視線を逸らしたままイェルクの顔が半分だけ覗いた。眉根を寄せ、表情は険しい。
「……メイドに湯を張らせます。寝間着のままで構いませんので、お着替えになって浴室までいらして下さい。……アシュレイ、お前もだ」
再びドアが閉まる。静寂の中アシュレイが深い溜息とともに額に手を当てて頭を抱える。
「……あれは完全に怒っていたな。私を睨んでいたぞ」
「そう? ちょっと嬉しそうだったけど」
脱ぎ捨ててあった下着と寝間着を集めながら着る。そして床に落ちているアシュレイの服を渡すと、「喜びの欠片も感じられなかったが」と訝しげな表情で僕を見詰めた。
「イェルクはアシュが帰ってくるってずっと信じて望んでいたんだ。眉間に皺を寄せていたのは照れ隠しだよ」
シャツに腕を通しながら、「そうか」と呟いてドアの方に視線を移した。
イェルクは僕のことを想うあまり、アシュレイに食って掛かることがあるが、決して言葉にしないけれど、僕を支えるために共に協力し合い頼れる仲間として、アシュレイのことを認め慕っている。だから、アシュレイが戻ってきたことをきっと僕の次に喜んでいるはずだ。
寝間着に着替え、部屋を出て一階にある浴室に向かうと、途中で擦れ違った使用人達がアシュレイの姿を見て嬉しそうに「お帰りなさいませ」と声を掛ける。彼の帰還を城中の人間が望んでいたのだ。
浴室の前にはイェルク、メイドのマリタとその娘のアイリが待っていた。
「王様、アシュレイ様、どうぞこちらへ」
腕まくりをしたマリタが浴室に案内する。中について行こうとすると、アシュレイが僕の肩を掴んで止めた。
「待て。私も彼女達に洗われるのか」
「私がニコデムス様の御身体を洗う。二人が担当するのはお前だ」
そう言われて、マリタとアイリの顔を見た後深い溜息を吐く。
「結構だ。自分でできる。申し訳ないが、下がってくれるか」
もしかしたら最初からそうなることを予想していたのか、マリタとアイリは顔を見合わせて笑うと頭を下げて去っていった。最近はマリタとアイリに洗ってもらうことが多かったので、さっきのは恐らくイェルクの嫌がらせだったのだろう。
「さっさと服を脱げ。もたもたしていると朝食を取り損ねるぞ」
僕の服を脱がして、湯気の立ち昇る浴室に滑らないように僕の手を取って誘導した。
「イェルクもせっかくだから入ったら? 誰も見ていないから大丈夫だよ」
水も貴重だしこれほどの湯を用意するのも大変なので、週に一度しか風呂に入らない。イェルクは綺麗好きだから、人の居ない時にここで水を浴びているようだが、湯船に浸かることは滅多にないだろう。
「それでは、御言葉に甘えて」
ノエの言葉があったからだろうか。素直に服を脱いで絹布を手に戻ってくる。その後ろから、居心地が悪そうに渋い顔をしたアシュレイが入ってきた、
石鹸で良く泡立った湯船に浸かると、イェルクも入って絹でごしごしと僕の身体を洗い始める。まだずっと小さい頃、イェルクにやってもらっていたことを思い出した。
「アシュも早く入りなよ。気持ち良いよ」
裸で突っ立ったままのアシュレイは、僕とイェルクの対面に少し離れて入った。
「何を考えていたか知らないが、ニコデムス様と二人で風呂に入れるわけがないだろう」
僕の身体を洗い終わって、自分の身体を布で擦りながら言う。アシュレイはただ不満そうな顔で溜息を吐きながら身体を洗っていた。
「ニコデムス様、具合の悪いところはございませんか」
「無いけど、どうして?」
「いいえ、それならば構いません。何かあったら、アシュレイに一刻ほど説教しなければと思っていただけです」
目を細めて何となく不自然さを感じる笑い方で言うと、横目でアシュレイを一瞥した。今腰が少し痛いと言ったら、アシュレイが酷い目に遭わされそうな予感がしたので黙っておくことにする。
「……ニコデムス様がどれほど心を痛めておられたか分かるまい。どれほど心細く孤独で、過ごされておられたか分かるまい」
顔を苦しそうに歪ませ、アシュレイは僕をじっと見つめた。
「だから、アシュレイ……お前がもう一度この方の傍を離れようものなら、地の果てまで追い掛けてでも必ず連れ戻す。覚悟をしておけ」
立ち上がり僕の手を取ると、浴槽から出るように促す。後ろでアシュレイが鼻に掛かるように息を吐く音が聞こえ、振り返ると心なしか笑っているように見えた。
風呂から出て身体を拭いてもらい、今日の服に着替える。イェルクはアシュレイの分も用意してくれていて、むしろ大柄な彼の服をいつの間にか仕立てていたのではというほどぴったりなサイズで上から下まで揃えられていた。いつも古ぼけた旧時代の貴族の格好をしていた彼が、現代の服を着ているのは不思議な気分だ。
浴室を後にして、そのまま朝食を取りに広間に向かうと、ノエが待っていた。少し眠たげに欠伸をかいている。
「え、何であんたが……!」
アシュレイの顔を見るやいなや、すっかり眠気も吹っ飛んでしまったようで、物凄い勢いで駆け寄ってきた。そして僕の方を見ると、「良かったじゃねえか!」と満面の笑みを浮かべて肩を叩いて自分のことのように喜んでくれる。
「これで王様の寂しい一人寝も解消されるってわけか」
ノエの言葉に、ふっと昨夜のことが思い浮かんで顔が熱くなった。
「あれ、これはまさか……もう昨夜から一人寝じゃなかったんじゃ――」
にやにやと笑いながら僕の顔を覗き込んで来るので、堪らず視線を逸らす。そこでイェルクが咳払いをしてノエを睨み付けたので、それ以上の詮索はされずに済んだ。
広間に入り、それぞれが長テーブルの上に食器が用意されている席に座る。今日はノエも一緒だと分かっていたからか、イェルクは報告があるし辞退したようで僕の後ろに立っている。アシュレイのことは報告済みのようで、彼の席には使い古しの擦れた手拭きとテーブルクロスがあった。
「あ、ちなみに俺も一人寝じゃなかったぜ」
そう言った後、思い出し笑いなのかにやにやと顔を緩ませた。ノエもヴァルテリとああいうことをしたんだろうか、と思ってまた恥ずかしくなる。
「良かったね。これでオルジとモーリスにお説教されるのも怖くない」
「王様も意地悪いなあ。人がせっかく幸せに浸ってるとこに嫌な事思い出させるなよぉ……怒るとマジで怖いんだぞ、あの二人!」
長い溜息を吐きながら項垂れるノエの姿に、つい笑ってしまう。
しかし、綺麗な色彩でまとめられた野菜と川魚を使った前菜が運ばれてくると、一変笑顔になって大口でぱくぱくと一気に食べてしまった。ノエは身体は大きくなっても、そういうところはまだ子供っぽいところが抜けていないようだ。
「ヴァルテリはどうしたの? 一緒じゃないとしたら、他の騎士たちのところ?」
「さあ……日が昇る頃には起きたんだけどさ、もう居なくて。早朝に自主練でもしてるのか?」
スープを一気飲みして溜息を吐く。ヴァルテリは訓練を熱心にしているイメージがあるが、早朝訓練をしているという姿は見たことが無かった。もしかしたら、色々と思うところがあって日も明けないうちに外に出たのだろうか。彼は僕や他の誰も知らない大きな問題を抱えているようだったから。
僕が首を横に振ると、ノエがテーブルに肘をついてまた大きな溜息を吐いたので、イェルクが「ノエ」と叱責するように呼ぶ。
「あんた大事に想ってきた王様を他の男に盗られたからってイラつくなよなぁ」
「なっ……!」
「それに、余程こっちの方が行儀悪いだろ」
山盛りのフルーツを皮付きのままかぶり付いているアシュレイを顎で示した。相変わらず、物凄い食欲と食べ方に声を出して笑ってしまう。
「あはは、アシュ口の周り凄いよ」
給仕が食べ終わった皿を持っていくタイミングでテーブルから身を乗り出してナプキンでアシュレイの口の周りを拭ってやると、ノエがひゅうと茶化すように口笛を吹く。
「すっかり恋人同士って感じで良いねえ」
途端顔が熱くなって、慌てて席に座り直して運ばれてきたスープに口を付けた。
「まあ、最初会った時から良い雰囲気なのに恋仲じゃないのが可笑しいくらいだったけど」
初めから互いを想っていたことが分かった今、周りからしたら、そう見えていたとしても不思議ではないことだろう。僕が自分の気持ちに気付いていなかっただけなのだから。
「しかし、アシュレイさんもよくこんな綺麗で健気な王様を捨てられたもんだと思ったぜ。必死に戦後処理に当たる王様の姿は痛々しくて見てられなかった。皆に心配かけないように相当無理してさ、笑って見せたりして。本当ヴァルテリのことが無かったら、俺が慰めてやりたいくらいだったぜ」
果物を頬張っていたアシュレイの手が止まる。そして自分の右手を睨み付けるようにじっと見詰めた。暴走していた時の記憶は彼にあるのだろうか。あの時、アシュレイは右翼で――。
「そのことはいいんだ。アシュは国と僕のためを想ってくれた。彼もあの戦いで辛い思いをしたんだ。僕はただ、帰ってきてくれただけで嬉しいよ」
顔を上げたアシュレイの金の瞳が僕の瞳を覗き込む。問うような視線に、ただ微笑むと硬くなっていた彼の表情が和らいだ。
「……何があっても、もう二度と離れぬと誓った。ニコと共に在れぬ世界など、ただの地獄だ」
彼の熱の籠った視線に、鼓動が早くなる。ノエが僕とアシュレイを交互に見てはっきりと聞こえるほどの息を吐き、メインディッシュを頬張り出す。
「あーあ。俺だって一年振りの再会なんだから、甘い愛の囁き合いとかしたかったなあ」
ヴァルテリに対する恨み言を言い、僕の顔をちらっと見る。
「ヴァルテリは、恥ずかしがってるだけだよ。彼の誠実さを考えたら、君への愛が無いわけじゃないだろうし」
「知ってる。あいつ俺のことすげえ好きだもん」
真顔でそう言うと、ぱくぱくと煮込んだミートボールと千切ったパンを口に放り込んでいく。昨日自信無さ気に想いを打ち明けていた人物とは思えない言葉に、目を丸くする。昨夜のうちに彼の心の内を知るようなことがあったのだろうか。
「一つ疑問なのだが……ヴァルテリのことをどうするつもりだ」
今まで黙って聞いていたイェルクが口を挟む。振り返ると、少し険しい顔をしていた。
「どうするって、そりゃあ恋人として真摯に――」
「ヴァルテリは我が国の騎士団長だ。お前は『紅獅子団』の隊長だが、一介の傭兵だ。一生を戦場で終える運命にある。お前達が結ばれることなどない」
その言い方は些か厳しいものだった。まるで彼自身が経験したものがそう言わせているようだった。
「お前が我が国の騎士として召し抱えられることになれば話は別だが」
はっとしてノエの顔を見る。僕がノエに爵位を与えさえすれば、二人は共に生きられるのだ。発言しようとした瞬間、ノエが鼻で笑い飛ばす。
「そんなの御免だな。俺は命を削り合うような戦場が好きで傭兵やってんだ。こんな平和な国で毎日剣を振るうような生き方性に合わねえよ。オルジに義理立てもあるし」
メインディッシュを平らげて、皿が下げられる。昨日も思ったが、食事のスピードが異常に早い。ちゃんと噛んで食べているのかと心配になるほどだ。
ノエがこの国に留まらないとなれば、残る道は――。
「……ヴァルテリを連れて行くつもりはある?」
スープを食べ終え匙を置き、真剣な眼差しをノエに向ける。目が合うと、驚いたように目を見開いた後、声を出して笑った。
「あいつが承知するかよ。騎士としての誇りを糧に生きてるような男だ。それを捨てるくらいなら、迷わず俺を捨てるさ」
自分のことを好きだという自信はある。でも、彼の騎士という肩書きを奪えるほどではない、ということなのだろうか。
いや、ノエが戦場を愛するように、騎士道を貫く生き方を尊重したいと思っているのだ。愛するが故に、互いの道を歪ませてまで、寄り添って生きる生き方を望んではいないだけだ。
「別に離れていたってさ、俺が会いに来ればいい話だろ。次に会えるのが何か月後か何年後か分からねえけど、俺は命の潰えるその日まで、何度だって会いたいと思う。そういう奴に出会えたことが、俺の人生にとって大きな糧なんだ。きっと、ヴァルテリにとってもそうだ」
戦うこと、剣を振るうこと。ただそれだけではない人生を得られたことが、二人にとっての幸いなのだろう。
ノエのところには最後のコーヒーとデザートが運ばれてくる。僕はまだメインディッシュだ。
「さあて、愛しの騎士団長さんを探しに行かないとなあ!」
そう言ってせっかく丁寧に焼き上げられたパイを一口で食べてしまうと、コーヒーを流し込んで席を立った。
「じゃあ、世話になったな! 後は上手く仲間と合流するからさ」
「うん、お祭りには顔を出すつもりだから、また!」
手を挙げて走り出すノエを見送る。後ろからイェルクの溜息と「全く慌ただしい」という呆れたような、しかし心底嫌だという訳でもなさそうな声が聞こえてきた。
「申し訳ありませんが、本日のご報告をさせて頂いても宜しいでしょうか」
「ごめん、おしゃべりが過ぎたね。頼むよ」
ふと見ると、アシュレイは果物を全て食べきっていて、ナプキンで汚れた口の周りと手を拭っているところだった。相変わらずのアシュレイの食欲に驚かされる。
イェルクが今日の仕事を一通り説明する。いつもに比べて少ない気がするのは、紅獅子団歓迎の祝祭に参加できるようにとのイェルクの配慮だろう。
今日は午後から多くの城内の者が祝祭に参加するために休暇を取ることになっているのもあって、食事は屋台を食べてみたいからとキャンセルした。城の料理人は試行を凝らしてバリエーション豊かな料理を出してくれるが、それでも庶民の料理というものに直に触れたことは無い。
自分で好きな物を選んで、お金で買って食べるという城の外に出なければ味わえない楽しみを体験してみたかった。
「昨日ヴァルテリに護衛の話をしたけど、一緒に来るかな。個人的にはノエと居た方がいいんじゃないかと思うんだけど」
食事を終えて執務室に向かう道中、イェルクに尋ねる。昨日彼を祭りに連れ出すために護衛を頼んだが、こうなった今ノエと共に行動した方が彼のためなのではないだろうか。
「それでは、私がヴァルテリに聞いておきます。護衛ならばアシュレイが居りますから問題ないですから」
アシュレイをイェルクがちらと見る。アシュレイは祝祭の事も何も知らない。「何の話だ」と問うようにイェルクと僕の顔を見た。
「今日は城下でお祭りがあるんだ。久しぶりに『紅獅子団』が我が国にやってくるからね。皆英雄である彼等を祝いたいんだって」
「それに、王であるお前が参加するのか」
「そう。庶民の格好をして、こっそりね。アシュも一緒に行こうよ」
想像するだけで心が躍り、笑顔が零れる。アシュレイは僕の様子を見て「それは良い」と言って、目を細めて口元を緩めた。
「では、私は食事と諸々の雑事を済ませて参りますので、失礼致します」
「分かった。僕は昼食の時間までアシュレイと執務室に居るよ」
イェルクと別れて執務室に入る。アシュレイは机の上に山積みになっている資料を見て目を見張った。
「今我が国は忙しいんだ。公共事業に、各地の要望を取り入れる新たな施策、外交もある。アシュが帰ってきてくれて本当に助かるよ」
机の前に座りながら、ドアの前に呆然と立っているアシュレイを見ると、鼻に掛かるように息を吐いて微かに笑むと、僕の隣に歩み寄った。
「仕事熱心な王の側に仕えられて光栄だ」
そう言って資料を一束手に取る。彼の言い草が面白くてつい笑ってしまった。
今日分の仕事を終えたところで昼になり、イェルクと合流して昼食を取った。その時にヴァルテリの護衛の件の話が出た。
イェルクがノエと何やら話しているヴァルテリに会って話をしたところ、どうやらノエが言うには紅獅子団の面々が街をパレードするらしいのだが、その後は自由だからとヴァルテリを連れ回す約束を取り付けたらしい。本当に申し訳ないと何度も謝られたが、アシュレイの帰還を伝えると「自分はむしろ邪魔ですね」と笑ったという。ヴァルテリにまで僕とアシュレイの関係はそういう風に見えていたのかと驚きを隠せない。
昼食の後、仕事の終えた使用人達や衛兵らが続々と城を抜けて街に向かう姿が見られた。城内の衛兵の数も最低限にして、祭りの最中は交代して警備に当たるのだという。
食事を終え広間を出た後、自室に戻るとイェルクに頼んでいた服に着替えた。
全体的に締め付けの無い、ゆったりとした、太腿の辺りまである丈の長い白のブラウス――袖口が搾られてフリルのようになっている――を着て、それに緑のタイツ、膝丈のブーツを履き、腹部にシャツの上からベルトを巻いた。
アシュレイとイェルクは詰襟のシャツにベストを着て、茶のズボンに膝丈のブーツを履いた。
「ニコデムス様はどのような服でもよくお似合いになります」
「ありがとう。イェルクもアシュも似合ってるよ」
互いに見合いながら笑う。三人とも普段見ることのない格好で面白い。
「そうだ。出掛ける前に一つやっておきたいことがあったんだ」
思い出してベッドからシーツを引き抜き、引き出しから鋏を取り出す。椅子を持ってきてアシュレイの前に座り、鋏を渡した。
「約束したでしょう」
シーツを身体に巻き付けながらアシュレイを見上げると、困惑した様子で僕を見下ろしていたが、決心したのか僕の髪を手に取る。イェルクは僕がずっと髪を伸ばしていた意味を理解したのか、黙って様子を見ていた。
「どうなっても知らんぞ」
「ふふ、楽しみだよ」
前回僕の前髪を切った時の思いきりの良さは何処へいったのか、アシュレイはまるで壊れ物を扱うように軽く髪を掴んで慎重に肩の少し上の辺りで髪を切り揃え始めた。
「……終わりだ」
アシュレイが大きな溜息を吐いて鋏を棚の上に置き、イェルクが切った後の髪をシーツに包んで部屋の隅に寄せる。
立ち上がって鏡と向き合うと後日理髪師を呼ばなくても良いほど前髪も綺麗に真っ直ぐに切られていた。右の紅い瞳がはっきりと映っている。
「ありがとう、アシュ」
振り返って彼の懐に飛び込んだ。驚いたのか固まっていたが、笑顔で顔を見上げると、微笑んで僕の髪を撫でた。
「それでは、行きましょう。そろそろ紅獅子団が到着する頃です」
ローブを羽織りアシュレイと僕はフードを目深に被って部屋を出た。すっかり人の居なくなった城内を出て門兵に挨拶をし、周りに誰も見ていないタイミングを計って、門を潜った。
門の外は想像以上の熱気で溢れていた。歓迎のために大通りに面した家々の窓には色とりどりの花が飾られていて、刺繍の綺麗な布がドアに飾られていた。
通りの両脇には朝市の時にしか見られないはずの露店が所狭しと並び、美味しそうな食べ物やガラス細工、アクセサリー、異国の置物など様々なものが売られている。
「すごい……」
思わず声が出るほど活気溢れる街の様子に感動していると、アシュレイが僕の袖を引っ張って広場の方を指差した。
「広場の方で何かやっているようだ」
「ああ、そういえば、城下で有名な大道芸人たちが集まって出し物をするという話を聞きましたよ」
イェルクがそう言って笑顔で僕の顔を覗き込む。
「行ってみよう! 大道芸なんて、昔城に父上が呼んでくれた一度きりしか見たことが無いよ」
アシュレイとイェルクの手を掴んで、広場の方に走った。楽しげな音楽が聞こえてくる。
着くと何やら始まっているようで、多くの人が既に集まっていた。人の間を掻き分けて一番前までようやく出る。と、目の前では屈強な肉体の男性が身体の柔らかい逆さで開脚した状態の女性を片手で持ち上げているところだった。その女性が片手だけを支えにしてポーズを取ると拍手が巻き起こり、僕も思わず手を叩いていた。
ふと両隣を見ると、アシュレイとイェルクが背が高いため後ろの人に配慮したのだろう、中腰になっている。二人とも柔らかな表情を浮かべて僕を見詰めていて、そんな二人を見て幸せを感じた。
剣を飲み込む男や火を噴く男、華やかな女性達のダンスなど様々な演目が終わったところで、門の方から大きな鐘の音が鳴り響いた。
「紅獅子団だー! 皆中央通りに集まれー!」
町役人の男が声を張り上げる。皆嬉しそうに通りに走っていくので、僕達もその後に続いた。
楽隊の音楽が鳴り響く。遠くから金色の毛に紅い鬣の獅子が描かれた旗が見え、段々と近付いてくる。と、建物の二階から女性や子供たちが次々と花弁を通りに向かって散らし始めた。華やかな道の真ん中を馬に跨った金色の甲冑に赤いマントを纏った剣士の姿が見えて、皆彼女の名を叫んだ。
「オルジー!」
目の前を通る時に声を上げて手を振ると、彼女は僕の方を向いて快活に笑うと手を挙げて答えてくれた。その後ろでモーリス、ソニャが手を振っている。その後に一人苦笑いを浮かべて周囲に両手を振っているノエの姿が見えて、どうやら彼の思惑通りこっそり合流は出来なかったようだ。オルジシュカやモーリスにどのように怒られたのか分からないが、この歓迎ムードにも笑顔になれない程度には堪えたようだった。
「皆街を回ったらどうするんだろう?」
「先程の中央広場で歓迎の宴が催されて、沢山の御馳走が並び演劇、ダンスなどが披露されるようです」
ふと隣を見ると先程まで居たアシュレイの姿が見えなくなっていた。慌てて周囲を見渡すと、人混みの中で一際背の高い男の後ろ姿が見えて安堵する。どうやら、露店で何かを買ったようだった。
「アシュ、何処かに行ってしまったのかと心配したよ」
戻ってきた彼は、僕の手を取ると先程買った品を掌に載せる。それは、ガラスでできた満月を模した美しいブローチだった。月の欠片が融けてガラス球になったような、美しい金色のそれは、アシュレイの瞳のようにも思えて、あの夜の情景を思い起こさせる。
「ニコに、それを持っていて欲しいと思ったのだ」
慈しむように優しげに細められた金の瞳を見詰め、胸の奥が温かくなるのを感じ、微笑んだ。
「良かったですね、ニコデムス様」
イェルクが本当に心からそう思っているのが伝わってくる優しい笑みを浮かべて言った。するとアシュレイがもう一つ何かを持っていて、それをイェルクに差し出した。
思いも寄らないことだったのか一瞬躊躇った後、それを受け取った。彼の手には、小さな剣を模したペンダントが握られていた。
「前に言っただろう。お前は王の懐刀だと。お前がこの一年魔障から王を守ってくれたことへの礼を言いたい」
アシュレイが深くイェルクに頭を下げる。高慢で気高い吸血鬼の彼が、王の従者とは言え、貴族階級でもない家臣である彼になど考えられないことだった。
「……ありがとう、アシュレイ。これからは共に、王を支えてくれ」
イェルクが手を差し出す。アシュレイは微笑む彼の手を、僅かに笑んで握った。
イェルクがアシュレイの帰還を信じて疑わなかったように、アシュレイもまたイェルクの一年の表に出ることの無い功績を知っていた。二人にしか見えない固い絆で結ばれていたのだ。
歓声が遠くから聞こえた。紅獅子団が中央広場に着いたのだろうか。
「何か、露店で食べようか」
二人の服の袖を引っ張って、豚が丸焼きになってぐるぐると回っている屋台を指差した。
「私は向こうのカーロの果物を売っている店に行ってこよう」
そうか、アシュレイは食べれないのだ。アシュレイが果物の屋台に向かっていくのを見て、イェルクと薄い生地に焼き豚とキャベツやトマト、野菜ベースのソースを挟んだ食べ物を買った。戻ってきたアシュレイは、既に何個か口に入れた後なのか、頬を膨らまし口を動かしながら見た事の無い真っ赤な果実を両手に抱えていた。
様々な露店を回って、食べたり見たりしながら歩いているうちにすっかり日が暮れてしまった。それでも、まだまだ祭りは終わりそうにない。
「そろそろ帰りましょうか」
イェルクが種の入った袋を抱えて振り返る。その種はアシュレイの住んでいた島にあったものに似ているというので、庭師に植えてもらうことになったものだった。夏に大きな花が咲くらしい。
「うん、そうだね」
門の前に行くと、不審者だと思われたのか若い門兵が槍を構えたのでローブを脱いでみせると、慌てて槍を下げて綺麗な敬礼をする。
門兵が内側に居た兵に号令を掛けると、ゆっくりと門が開いた。
「警備、お疲れ様。君も後で交代したら楽しんでおいで」
「はい、王様! 恐縮です!」
門を潜ると背後で門が大きな音を立てて閉まった。目の前には見慣れた城の扉へ続く白い石の階段が続いている。
「次にこの外に出るのは、きっとカーロへ行く時だね」
「さあ、どうでしょう。前にもアシュレイと朝の空中散歩に出掛けられたこともありましたしね」
感傷的になりそうだったところに、イェルクがそんなことを言うのでつい笑ってしまった。
アシュレイのことを考えない時間を作ろうとして、仕事に没頭していたが、それが必要無くなった今、アシュレイとそうやって過ごすことも許されるのだろうかと思う。
「お前が早く国民に私のことを伝えてくれさえすれば、私は自由に国を歩けて助かるのだが。勿論、ニコと空のデートを楽しみたいというのが一番の理由だぞ」
アシュレイの本音が丸分かりの言い方に声を出して笑った。
「分かった。早急に国中に伝わるよう手配するよ。僕も君と二人きりでデートがしたいからね」
城の中央扉を開き、階段を上ってそのまま自室に向かった。
「それでは、私はこれで。楽しい日でした」
「うん、僕もだ。おやすみ」
部屋の前でイェルクと別れ、アシュレイと一緒に部屋に入る。と、どっと疲れが襲ってきた。こんなに歩き回ったのは初めてのことで、流石にはしゃぎ過ぎたのだろう。
ローブをポールハンガーに掛け服を脱ぐと、後ろでアシュレイの溜息が聞こえた。
「お前は本当に誰に裸を見られても恥ずかしくないのだな」
下着姿で振り返ると、目の前にアシュレイが立っていてびくっと肩を震わせる。
「昨夜のことを忘れたわけではあるまい」
そう言ってアシュレイが僕の顎を掴んで上向かせて口付けをする。舌が唇を割って入って来ようとしたので、慌てて身体を両手で押し返した。
アシュレイの顔を見上げると、傷付いたような表情で固まっている。
「ち、違うんだ。今日は疲れてて、それで……君が嫌だとかじゃなくて、その……」
心臓の鼓動が煩く高鳴っている。顔も火が出そうなほど熱い。昨夜のことが、思い起こされる。
「あの後結局朝方近くまで……起きていることになったから、だから……明日に影響があったら困るし……」
気を失うように眠ったので最後の方はどうだったか細部まで思い出せないが、覚えている限りだとあの後三回はしたはずだ。アシュレイのやり方が良かったのかよく分からないが、余り腰に痛みが来なかったのは幸いだった。
「……それは確かに、私が悪かった」
そう言うと下着姿のままの僕を簡単に持ち上げてしまった。そしてそのままベッドに横に寝かせられる。何かされるのかと思って構えていると、僕の隣に横になって、毛布を掛けてくれた。
「隣で眠るだけだ。それならば構わんだろう」
だったら寝間着を着させてくれてもいいのに、と思うけれど、アシュレイに抱き寄せられてしまったから、もう何も言えなくなった。
「おやすみ、ニコ。良い夢を」
優しく頭を撫でる掌の温かさに、瞼が重くなってきて目を閉じた。まるで暖かい陽だまりの中にいるようで心地良い。
「おやすみ、アシュ」
彼の長い夜が、少しでも短く感じられますようにと願いながら、温もりに包まれながら眠りに落ちていった。
ともだちにシェアしよう!