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第二話

母さんは何時も溜息しかつけない女だった。 音楽番組でふと流れた切ないラブソングを聴いて、涙を流して、ティッシュで拭いながらはぁ、と溜め息を漏らす。 理由なんか聞かなくても分かっていた。 だから俺はいつも見ないフリをして自室に篭った。 そしてある日、帰宅したら母さんが居なかった。 机には家の鍵。 遅くに帰ってきた父さんに聞いたら、母さんとは離婚したらしかった。その時オレは初めてそういう話を父さんと母さんが前々からしていたことを知った。 母さんが使っていたタンスの引き出しを開けるとそこには母さんの服は無かった。家を見渡せば、母さんが愛用していたドレッサーもタオルも鏡も無くなっていた。 今ごろ気付いたのか?二週間も前から少しずつ無くなってたのに。 父さんは苦笑いして、俺の頭を撫でた。 親子二人でダメ男だな。 父さんはそう言って、紙を俺に差し出した。 四つ折りにしてあったそれを開けば、鉛筆で知らない住所が記してあった。 父さんの文字じゃない。 知らない小奇麗な字だった。 なにこれ 父さんは平然とした顔で、俺のカノジョ、と言った。 お前の兄弟が腹の中に居る。 そうとも言った。 なに、父さん。俺はそこに行かなくちゃいけないの? そりゃそうだ。お前の親権は俺が握ってる。 当時俺は小学生だったから、よく分からなかった。子供ができる条件とか、こういう残酷な現実とか。 お前がその子の面倒を見るんだぞ。血は繋がってるんだ。れっきとしたお前の兄弟だからな。 父さんは微笑んでいた。何が嬉しいのかは俺には分からなかったが、父さんは母さんと暮らしていた今までよりずっといい顔をしていた。 これが父さんにとっての正解なんだ。 俺は拙い表現でこの当時の状況を言語化した。 しかし、大人の言葉を鵜呑みにしてはいけなかった。 今となっては手遅れなことであるが、あの時確かに父さんは話さなかった。 後ろめたい気持ちがあるからなのか、それとも単に忘れていたのか。 兄弟は腹の中にいるヤツだけじゃなかった。 [newpage] 「初めまして、私は間宮あかねです。あなたは鱗くんよね。透さんから聞いてるわ。」 「・・・。」 「あら?緊張してるのかしら」 「いや違うよ。コイツはこういうガキなんだ。あんまり社交的じゃない。」 「あなたに似てるのね。可愛いわ。」 「よく言われるよ。鱗、お前の部屋は二階だ。ついて来い。」 あかねさんは母さんとは随分違う雰囲気の女の人だった。化粧が濃い母さんとは対象的で、柔らかで、たんぽぽみたいな人だ。 腹はぷくりと膨れ、石鹸のさっぱりした匂いが漂っていた。 「新しい母さんは可愛いだろ?」 父さんは俺に背中を向けたまま、そう言った。 「分からない。」 「お前もしかして、母さんが恋しいのか?」 「別に。」 「お前は賢いから分かっていると思うが、母さんのことはあかねには言うなよ。傷付きやすい人なんだ。」 二階へと上がる階段は段差がかなりきつかった。妊婦のあかねさんには負担になりそうな階段だ。背中に背負ったランドセルの金属部分がシャリシャリと音を立てる。 他人の匂いが充満した家の雰囲気に俺はなんだか酔いそうだった。 「ここだ。」 ガチャリと父さんがドアノブを捻る。二階の中でも奥の部屋だった。 隔離か。 俺は何となく理解した。 「今日からここで寝てくれ。予め時計とベッドと勉強机とカーペットは買っておいた。落ち着いたら買い足そう。」 「分かった。」 「どうする?一階に降りるか?それともここに居るか?」 なんだか脅迫されてる。 俺の中で答えが一つ消えた。 「ここに居る。」 「ふーん。何もないのに?」 「宿題する。」 ランドセルを揺らせば、父さんははぁ、とため息を吐いた。 「こんな状況でも宿題するのか?普通、ダイニングでわいわいするだろ。」 「俺は宿題を先にする。どうせ夜ご飯のときに話すだろう?」 「可愛くねぇ。お前はほんとうに小学生か?」 俺は膝上のハーフパンツを履いているし、黒いランドセルを背負っているのにどうしてそんなことを言うのだろう? 「どう見ても小学生じゃないか。」 「お前のその生気のない顔のことを言ってるんだよ。さっさと宿題を片せよ。」 ぱたん。 前の家の俺の部屋は和室だったから、ドアが閉まるのは何だか新鮮だった。カーペットを捲っても、茣蓙じゃないし、青いイグサの臭いはしない。 ランドセルを床に放り投げると、フカフカした真新しいカーペットが衝撃を吸収して、ぼふんと音を立てた。 新築の独特の臭いが気持ち悪い。 俺は窓を全開にした。 体を前に押し出せば、びゅうびゅうと春の生暖かい風が勢い良く吹き付けてくる。 気持ちが良くて、目を閉じた。ずっと求めていた、待ち焦がれていた、美味しい風だ。 花粉の甘い香りをすうっと吹いこんで── 「飛び降りんの?」 背後から声がした。 子供っぽい、澄んだ高い声。 振り向くと、ドアの前に俺よりちっさい子供が居た。そいつはうねうねした栗色の髪の毛を顎の下まで伸ばして、つり上がった大きな目が特徴で真っ青な顔色の性別が分からない容姿をしていた。 背負ったランドセルが男だと伝えていたけれど。 その少年が、にやりと笑った。 「お前、ここから飛び降りたいんだろ?飛び降りれば?」 俺より幼いはずなのに、そいつは随分尖った性格をしているようだった。 まるで、猫に威嚇されているようだ。爪を出し、毛を逆立てて、歯を剥き出しにしている。 「なんだよ、飛び降りる勇気が無いってか?俺が助けてやらんこともない。」 何か企んでいるのか、少年はゆっくりと長袖を捲っていく。 こいつは──偉そうにこの部屋にいるこいつは誰なんだ? まさか、遊び半分にこの部屋に侵入してきたクソガキか!? 「お前、不法侵入だぞ。」 「は?」 少年は惚けた声を上げた。 「どうやって入ってきたかは知らんが、幼い子どもとはいえ、犯罪行為に走ったのは紛れの無い事実だ。」 「は、はんざい!?」 「ああ、犯罪だ。お前の母親の顔など知ったこっちゃないが、教えてもらわなかったのか。」 「なにを?」 「他人の家に無断で侵入するのは犯罪だって。」 不法侵入ヤロウは返す言葉もないのか、負けを認めたのか、わなわなと唇を震わせていた。恐怖か、それとも家族への申し訳無さからか、体も同様に震えて、背負ったランドセルの金具がガチガチと鳴っている。 「アホっ!ここは俺の家だ、バーカ!!」 「え?」 「お前こそ不法侵入みたいなもんだ!ここは俺の家だ。ふざけんじゃねーぞ!このうんこ!」 「俺はうんこじゃない!」 「うるせー!うんこだバーカ!早く流されろ!」 目の前の家の主を名乗る少年が急に下劣な言葉を叫び散らし始める。どんな教育を受けたらこんな言葉を白昼堂々大声で言えるんだ。 俺が一歩そいつから離れるように後退りすると、勢い良くドアが開く音がした。 「こら!下まで響いてるわよっ!近所迷惑でしょう、ソーマ。」 「うわ、かーちゃん!」 「かーちゃん?」 いつの間にあんな段差の激しい階段を上がって来たのだろうか、あかねさんが俺の部屋に来ていた。そして、嫌な顔をして項垂れる子供の横に立ち、ぽんと頭を叩いた。 ぽん、と言う効果音じゃ足りないくらいの威力に見えたが。 「いってぇーー!!」 「まだ紹介していなかったわね、この子は私の前の人との子供の間宮聡真よ。ま、といってもそろそろ籍を入れて名字を”水谷”に変えるのだけどね。」 「──あかねさんの、子供?」 あかねさんは今日から俺の母親。 つまり、事実上目の前のうんこ野郎は俺の兄弟になるってことじゃないか。 「こいつ、俺のこと不法なんちゃら扱いしてきたんだけど!」 「あら?この子のこと話してなかったのかしら。私にはお腹の中の子供ともう一人子供が居るって。」 さらっと、あかねさんは信じ難い衝撃の事実を確かなものにさせた。 「・・・父さんはしてませんでした。」 「あら、うっかりさんね。この子丁度あなたと同じくらいの年なの。あなたの方が多分年上でしょうけど。ソーマは今年何年生だっけ?」 小柄な少年──聡真は細っちょろい眉根を嫌そうに寄せ、はぁ、と重たげな溜息を吐いた。 「えー、言わせるスタイルなのぉ?勘違いしてたうんこ野郎に自己紹介なんかしなくてもいいだろ・・・」 「そーま」 「・・・間宮そーま、小学三年生。」 話が飲み込めない。 目の前の親子は何のほほんと話しているのだろう。 唇が乾いてパリパリしてるのは痛い程分かっているが、舐める程の心の余裕がない。 春風が窓から吹き付け、俺の背中を押している。空は目が痛くなるほどさっぱりした濃い青で、雲一つない、絵画にありそうな、ありきたりな天気だった。 「なんだよ。お前も自己紹介しろよ。」 聡真が不公平だろ、と不機嫌そうに催促する。 「水谷鱗、今年小三。」 「は?」  春の暖かい陽射しが差し込む和やかな場の空気が、一瞬で凍ったのを俺は確かに感じた。

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