3 / 11

第3話「赤い実はじけた」

窓から見えた空は、すでに白み始めていた。 今朝……いや、昨日の朝出勤するために家を出てから、もうすぐ二十四時間が過ぎる。 頭ははっきりしないし、瞼は鉛でもぶら下げられたかのように重い。 いつもなら軽快に上れるはずの階段も、今は果てしなく続く獣道のように険しい。 それでも谷村(たにむら)は、最後まで上りきり屋上へと続く重い扉を押し開けた。 「なんだ、帰らなかったのか」 金属が軋む音に反応して、花戸(はなど)が振り返る。 見開かれた目は赤く充血し、着崩れたスーツが疲労感を滲ませていた。 「帰れるわけありませんよ。俺のミスなのに……」 「気にするなって言っただろ?お前の進捗を管理できてなかった俺が悪いんだ」 「だとしたら、ちゃんとマメに報告してなかった俺のせいです」 「それなら、話しかけやすい雰囲気を作れなかった俺の責任だな」 「花戸さんは話しやすいですよ!」 「っ」 「あ……すいません」 花戸は、ただ目を細めた。 「ちゃんと親御さんに連絡したか?」 「……しました」 「後日菓子折り持って謝りに……」 「そういうの要りませんから」 「そうか?」 「子供じゃあるまいし……」 そう言って唇を尖らせる谷村の姿は、あまりに説得力がない。 ふ、と花戸が笑った。 「お前は頑張ってるよ、谷村。一年目なんて失敗してなんぼだ。そのために俺がいるんだから、気にせず明日からもどんどん頑張れ……って、ああ、もう今日か」 ぽんぽん、と花戸の手が頭の上で優しく跳ねる。 慰められている。 励まされている。 それなのに、谷村は苛立ちを隠せなかった。 たった五年。 されど五年。 これじゃまるで、大人と子供だ。 やがてゆっくりと花戸の手が離れていき、暁の湿った空気を静寂が覆う。 谷村は、白い棒を咥えてもごもごと動く薄い唇に視線を落とした。 「花戸さん、煙草吸うんですね」 「いや?」 「じゃあそれはなんスか」 「飴ちゃん」 花戸が棒を引っ張ると、ビー玉のような赤い飴が飛び出してきた。 それを追いかける色移りした真っ赤な舌先が視界に入った瞬間、 パチン……! 目の奥で、なにかが弾けた。 「掃除のおばちゃんがくれたんだ」 端正な顔が、くしゃりと崩れる。 谷村は、ただその淡い笑みに見惚れた。 「あ、月が眠るな」 「え?」 「ほら、あそこ。月がほとんど透けてる」 花戸の視線の先を追いかけると、輪郭をほとんど失った反透明の月にたどり着いた。 どんどん明るさを増していく曙の空が、夜の住人を侵略していく。 「さて、腹が減った。コンビニ行くけど、谷村は?」 控えめな伸びをして、花戸は歩き始めた。 下界へと続く扉を引いて、だが潜らずに後ろを振り返る。 「谷村?」 「あ……俺も行きます」 並んで階段を下りながら、谷村は花戸の足元を盗み見た。 尖った茶色のつま先が、磨き上げられてピカピカと光っている。 対して自分は、就職活動の時に準備した黒いリクルートシューズのままだ。 ……だめだ。 今はまだ言えない。 でも、いずれ必ず。 だから―― 「母さん、俺、ひとり暮らしする」 fin

ともだちにシェアしよう!