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第5話「谷村渉の日常」

 火曜日、午前10時。  谷村(たにむら)のスマートフォンが、ブブブ、と鈍い音を立てながらデスクの上を少しだけ移動した。パソコンのディスプレイから視線を移し、明るくなったロック画面を見る。そこに表示されていたのは、愛して止まない彼からのLIMEメッセージ。 『もう別れよう』  続けざまに新しいメッセージが表示される。 『今までありがとう』  谷村は肺の底から息を吐き出し、無機質なオフィスの天井を見上げた。  ***  同日、午後0時5分。  谷村は、階段を駆け上がっていた。少しだけ切れた息を深呼吸で取り戻し、自分のフロアとは若干間取りの異なるオフィスを見渡す。すると、一周しないうちにひとりの女性が近づいてきた。 「谷村君!」 「お疲れ様です」 「お疲れさま。久しぶりだね、こっち来るの。忙しい?」 「まあ、それなりに」  適当に答え、探し人がいるはずのデスクを見やる……が、そこには誰もいなかった。 「あ、花戸(はなど)主任ならチャイム鳴るなり出て行ったよ」  やられた。このメールだけ送ってしまおう、と欲張ったばかりに、5分出遅れた。 たかが5分、されど5分。 「めんどくせえ……」  午後0時15分、屋上。 「花戸さん」  勢いよく振り返り、花戸は目を見開いた。 「お昼まだっスよね?はい」 「ありが……」  差し出された白い袋を受け取ろうとした手が、宙で止まる。形の良い爪で飾られた長い指が小刻みに震えているのがわかり、谷村は苦笑した。 「別れた恋人からは受け取れない……って?」 「……う」 「涙ぐむくらいなら、言わなきゃいいのに」 「だって……」 「いったい、なにがあったんスか」 「実は――」  月曜日、午前8時。  ピピピッ、ピピッ……。 「ん……」  聞きなれない高い電子音が意識に混じり、谷村はゆっくりと覚醒した。身動きを取ろうとした上半身が生暖かいなにかに羽交い締めにされていて、昨夜、花戸のアパートに泊まったことを思い出す。  一緒にラーメンを食べに行って、帰る途中でDVDをレンタルして、思いがけず濃厚だったラブシーンに誘われるように激しく愛し合い、なんとかシャワーを浴びてベッドに入り、泥のように眠った。おやすみを言ったのかどうかも覚えていない。  谷村は、自分に引っ付いてすやすやと寝息を立てる花戸を見下ろした。  昨夜は無理をさせてしまったかもしれない。数分後には起こさなければいけないが、もう少しだけ夢を見させてあげよう。  谷村は、愛する人とともに朝を迎えられる幸せを噛み締めて―― 「ちょ、えっ!?」  甘い余韻に浸っている場合ではなかった。枕元のデジタル時計には、8がひとつと0がふたつ並んでいる。花戸が学生時代から愛用しているらしい年季物ではあるけれど、電源に繋ぐタイプのものだから停電でも起きない限りは狂わない。  谷村は、まだ眠りの世界にいる花戸の身体を容赦なく揺すった。 「ちょ、花戸さん!遅刻しますよ!」 「んー……俺、休み」 「は!?なんで!?」 「先週の休出分。だから今日は……」 「んなの聞いてないスよ!」  しかも、自分が休みだからって起こしてくれないなんてひどい!  心の中で悪態を吐きまくりつつ、限られた時間との勝負を始める。花戸宅から会社までは、すべての流れが上手くいったとして三十五分。今すぐに出られれば十分間に合う。 少しだけ安堵して、だが谷村は重大な事実に気がついた。  着るものがない。  始発で自宅に戻って着替えるつもりでいたから、予備のスーツなんてまさか持っているはずもない。 「花戸さん、花戸さん!」 「んー……?」  寝ぼけ眼でぼんやりと見上げてくる様子はいろんな意味で刺激的だが、今の谷村には流されている暇はない。 「花戸さん、スーツ貸してください!」 「スーツ……?」 「てか、もう借りてますから!あとシャツとベルトと革靴も!全部!」 「ん、んー……わかった」  絶対にわかってない。  谷村はそう思ったが、とりあえず社会人として外に出ても咎められない程度に身なりを整え、足早にその場を去った。  背中を向ける寸前、掠めるだけの口づけを花戸の頬にそっと落として。  *** 「……ということがあっただろ」 「ありましたね」 「覚えてたか」 「まあ、昨日のことっスからね」  再び火曜日、午後0時20分、屋上。  谷村は、その節は助かりました、と抑揚のない声で言った。 「それで……昨日、お前は全身〝俺色コーデ〟だったわけで」 「なにその言い方」 「木崎(きざき)が……あ、いや。なんでもない」  谷村の眉が、ピクリと痙攣した。  木崎真彦(まさひこ)。  花戸の同期で、なにかと言えば余計なちょっかいをかけてくる人物。 「木崎さんになに言われたんスか」  迷うように少しだけ視線を彷徨わせてから、花戸はぽつりぽつりと口を開いた。 「昨日、谷村が全身お前色コーデだったけど、あれってなんか意味あんの?……って」 「で、なんて答えたんスか」 「意味なんかない!……って言って……」 「逃げた?」  コクコクと何度も頷く花戸を前に、谷村はもう何度目なのか数えるのもやめてしまったため息を吐く。そういうことか、と点と点が線で繋がる様を頭の中に思い描いた。きっと、自分たちの関係がバレてしまったと焦るばかりに、あんなLIMEを寄越してきたのだろう。 「あのさ……そんなの『いやー昨夜谷村と飲んでたんだけど、あいつ潰れちゃってさ。仕方ないから俺ん家に運んでやったんだ。んで、そのまま寝ちまったから服貸してやったんだよ』とかなんとか、誤魔化せばいいじゃないスか」  口調は花戸のそれからはおよそ程遠かったが、花戸は翳っていたふたつの瞳を一気に輝かせた。 「た、谷村、今のもう一回!」 「はあ?」 「メモ取る」  いやあゆうべたにむらとのんだんだけど……とブツブツ言いながら、花戸が小さなメモ帳にペンを走らせる。  そっからかよ!  反射的に吐き出しそうになったツッコミを飲み込んで、谷村は口の端を上げた。 「花戸さん」 「んっ?」 「どうするんスか?本当に別れる?」  谷村には、花戸の思考などお見通しだった。どうせこの年上の恋人は、日頃から、自分たちの関係がバレてしまった暁には自らが身を引くことで幕引きにしよう、とかなんとか、たいそうなことを考えていたに違いないのだ。それも、自分ではなく、谷村の立場を守るために。 「別れ……たくない」  今にも消え入りそうな声で絞り出された答えに、谷村は目を細めた。 「んっ……」  短い髪に指を差し入れ、花戸の唇に吸い付いた。ビー玉のように丸く透き通った瞳と目が合い、内心で苦笑する。 「おい!会社でこんなことっ……」 「じゃあ家帰ったらしていい?」  花戸の顔が、真っ赤に燃え上がる。家に帰ったら、って、そもそもあれは自分の家であって谷村が帰るなんて言い方をするのはおかしいし、そんなのなんだか一緒に住んでいるみたいだし、しかもしていい?ってなにを……ってそんなの決まっているけど、ここで聞くのか……と心の中でグルグル呟いていたつもりが全部声になって外に漏れていたのに、花戸は気がつかなかった。 「あんた、ほんとかわいいよ」  ものすごくめんどくせえけど、と谷村が笑う。くつくつと鳴る喉に合わせて揺れる腕の中で、花戸はじんわりと眦を濡らした。 「花戸」  ドン、と胸板が押され、ゼロより近かったふたりの距離があっという間にプラスに戻った。 「木崎」  後ろを振り返り、花戸が曖昧に笑うと、深く確かな笑みが応える。 「課長が探してたぞ。昼一の会議の資料が揃ってないらしい」 「あ、そうか、ありがとう」  もう一度曖昧に笑い、花戸は谷村に背を向けた。流れるような視線だけを残して。    カチャ、と金属製の扉が閉まると、屋上に残されたのはオフィス街の雑踏のみとなった。それも遠すぎて、この居心地の悪い沈黙をごまかすまでには至らない。  先に動いたのは木崎の方で、胸ポケットからひしゃげた白い箱を取り出した。 「谷村も吸うか?」 「けっこうです」  谷村の必要以上に硬い声に、木崎の切れ長な目が大きくなる、 「なに?」 「課長が探してたって本当ですか?」  挑戦的な視線を受け、木崎が白い煙を吐き出した。 「人聞き悪いな、ほんとだよ」  ひと口しか吸っていない煙草を手すりの淵に押し付けて、ちらりと一瞥もくれないまま去っていった。  谷村は、澄み切った青い空を見上げて呟いた。 「……めんどくせえ」  fin

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