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ロマンチストとリアリスト

「──妊娠した⁈」    皐月(さつき)は電話相手に思わず叫んだ。 「お前、春に就職したばかりだろ? それに俺たちまだ22歳だぞ?」  6月末日、大学時代の親友が早くもαの番を見つけ、来月には専業主婦になると報告してきた。  発情期の度、欠勤する新入社員に同僚たちの風当たりは強く、一人ヤケ酒を煽っている時、たまたま隣の席にいたのがそのαだったそうだ。ベロベロに酔った親友を優しく介抱してくれて、そのままゴールインに至ったらしい。 「超展開過ぎるだろ、なんだよ、その良く出来た話は──でも、おめでとう。幸せになれよ」    決して嘘ではない──。  彼は親友で、同じΩの苦しみや生き辛さを共有出来る大切な相手だった──だけど…。 「一人で先に牢屋から出てったんだな…」  話す相手を失った携帯を握りしめ、皐月はぼんやりと窓の向こうへ視線をやった。  皐月が暮らす家は、中から見れば広い庭付きの高級マンションのようにも思えるが、その敷地はぐるりと高い塀とセキュリティに囲まれていて、外から見ればまるで刑務所だ。 ──刑務所と大きく違う点は二つ。  一つはここに住む人間は決して犯罪者ではないということ。  もう一つは、全員がΩであるということだ──。  第二次性徴期を迎えたΩは保護の為、安全性が高い政府管理下の施設に入る事を義務付けられていた。  そこでは親族以外のαとの面会を禁止されてはいるものの、発情期以外の外出は自由なので慣れてしまえば特に不自由はない。  更に皐月はしがない漫画家で、一日中机に向かうのが仕事だ。  自ら望んで外の世界に交わることなく、毎日一人で妄想に耽っては、好きな漫画ばかり描き続けていた。  と言っても先月の給料は食いつなぐのにギリギリで、なかなか貧困生活から抜け出せないのが現状だ。  そんな経済的理由から、皐月は未だ流行らない眼鏡を掛け、三ヶ月散髪をサボった頭の寝癖はいつ見ても酷い。今着ているシャツは5年も前に買ったもので洗濯表示は既に読めないが、穴も空いていないので、まだまだ余裕の現役だ。   「番かぁ…」  Ωである以上、皐月も考えないわけではなかった──。  Ωは義務教育過程で、その体質やαと築く関係について嫌になるくらい勉強させられる。  それはΩ自身の自衛手段でもあるので、大切な教育であるのは確かだった。  政府の監視下にあっても、法律が整わない時代に比べれば稀になったとは言え、理性のないαによる暴力がゼロなわけでは無い。  皐月は大きく息を吐きながら背伸びをして気持ちを切り替えると、再び仕事に没頭した。  その三日後、親友からまた連絡が入った。  合コンに誘われたが、自分にはもう用がないので代わりに行けと、半ば強制的に言われた。  ひきこもり生活の皐月には超絶ハードルが高い代物ではあったが、αとの出会いに全く興味がないわけでもなく、散々悩んだが、取り敢えずお試しくらいの気持ちで誘いを受け入れた。  可愛い女性ではないのでヒラヒラした服も無ければ、お洒落な男性のようにセンスある一品も持ってはいないし、新調する金など一切ない。  お試し程度に参加するのだから適当でいいかと、普段着で行く事にした。 ──が、失敗した。  皐月の顔からザーッと、音でもしそうな程に血の気が引いた。  Ωは皐月を含め、男女二人ずつ。男も女も今日の気合が伺える煌びやかな服と髪で完璧にスタイリングされていた。  少し大袈裟な形容が似合う程、自分の安っぽい普段着との落差が激しかったのだ。  そして、先に席で待つαの男四人は、それ以上に高価そうな服や時計を眩しく輝かせ、全身からα特有の凛々しいオーラが漲っているように皐月には見えた。  同じ席に着く事すら皐月には憚られたが、かといって逃げるわけにも行かず、とにかく端に座って事なきを得ようと考えた。  椅子を引いた瞬間、Ωの女性と肩がぶつかってしまい、皐月が慌てて謝ると彼女はこちらを一瞬睨んだ。だが、すぐに笑顔を作って前を向くと、隣の席に何事もなかったよう腰掛けた。  皐月はどうして睨まれたのかわからず、複雑な表情のまま、コソコソと腰掛ける。  自己紹介はαから始まった。全員とも家柄が良さげで、裕福に育った人間には余裕と気品がある。こんな場所まで来て、わざわざΩを揶揄する馬鹿は一人もいない。  皐月は自身の佇まいのせいで、彼らの自己紹介をあまり本腰を入れて聞くことが出来なかった。ただ、二時間気配を消して生きようとだけ決意する。 ──なのに。  前に座る男から話し掛けられた。 「──皐月くんは何の仕事してるの?」  少し馴れ馴れしさが鼻についたが、全員何歳か年上らしかったのでそこは目を瞑った。というか二時間口も瞑っていたかったのに、クソ。と内心悪態を吐いた程だ。 「…漫画家です」 「へぇ、すごい!」 ──すごい、なんて初めて言われた。しかもαに…。  嫌味に聞こえなくもないのは自分の卑屈さのせいなのかと、皐月は眉間に皺を寄せる。 「別に…そんな、すごくもない…んですけど」 「なんで? すごいよ。自分の描いた作品を大勢の人が読んで、それがお金になるんだよ?」  耳が痛いと、皐月の心は悲鳴を上げていた。 「──あんまり金に…なってないんですけど」 「そうなの? ねぇ、ここに何か描いてよ」  そう言って男は胸ポケットから立派な皮の手帳と、これまた高価そうなペンを出してきた。  皐月はずっと男の顎を見ながら話していたが、ようやくその時、初めて男の顔を正面からちゃんと見た。そして、美しく端正な顔立ちに思わず息を呑んだ。  濃い緑がかった大きな瞳の上に、くっきりとした二重。すっと通った高い鼻筋。口は少し大きめで、元々上がり気味の口角をさらに上げて、優しげな表情でこちらを見ていた。  さきほど隣の彼女に睨まれた理由をようやく今になって知る。  こんなに近距離で、ちゃんとαを見るのは初めてで、恐怖とはまた違うその迫力に、皐月は一瞬肩が竦み、言葉すら失う。  それは時間にしてほんの数秒だったと思うが、皐月は22年間の人生において、初めて誰かに見とれるという経験をした。   「…嫌です」  完璧なその笑顔に惑わされる事なく、皐月は素っ気ない声で返事を寄越す。 「ちょっとだけ、ダメ?」  男は少しも怯まない。その弧を描く優しい瞳をジッと睨むように皐月は眺め、もう一度口を開いた。 「もし、貴方の仕事が歌だとして、今、ここで歌ってください。と言われて歌いますか?」 「うーん、ここでは流石に…」  男は初めて困惑した声を出すが、少し宙を見て思案しただけで、表情は崩さずに視線を皐月に戻した。 「──でしょう? 俺は金にならない事はしません」 「あっはは。そうだね、なるほど。君ってば理屈っぽいね」  今、明らかに男は嫌味を放った。  少なくとも皐月はそう認識した。  皐月は嫌悪感を露にして男を睨んだ。αなのだから当然かもしれないが、男はそれでも怯む事なく笑顔のままだ。 「じゃあ、話題を変えようかな。ねぇ、皐月くん、今日はここに何しに来たの?」  男は両肘をテーブルに着くと、両手を顔の前で組み、そこへ顎を掛け、上目遣いで皐月を見た。 「何? って…合…、食事会じゃないんですか…」 「──本当に?」 「何なんですか、一体…」 「僕はね、今日、運命の人と出会えるかもしれないと、本気で思ってここへ来たよ。だからキチンとしたつもりだよ。新品でないにしても服は綺麗なものを選んだし、靴も磨いた。髪だってセットしたよ、礼儀だからね──でも君は?」  いつの間にか男の顔からは人の良さそうな笑顔が消えていた。皐月はハッと息を呑み、己を見た。 ──自分…は。    とりあえずで来ただけだった。ある中で全て済ませた。…本当にのだ。  適当な格好で、適当な心持ちで──そして、あわよくばと──。  ここへ来た瞬間、自分がした後悔を改めて男からも突き付けられる。  皐月は力なく俯き、とうとう黙りこんでしまった。    暫く膝の上に結んだ手を置いたまま皐月は逡巡し、ゆっくり男の顔を見た。 「あの、名前…」 「やっぱり聞いてなかったんだ、酷いなぁ。僕は名前にシンパシーすら感じたのに」 「シンパシー?」 「そう。改めまして、僕は一条詠月(いちじょうえいげつ)です。君の皐月って名は五月のことでしょう? 詠月は九月のことなんだ」 「へえ…」 「なんだか興味なさそう。ああ、僕の事は詠月って呼んでね」  なぜ興味がないと思うのだろうか、自分はただ、その緑碧玉(りょくへきぎょく)のような美しい瞳に見とれていただけなのに…と皐月はぼんやり思った。 「──詠月さん、俺の事…番にしたいと思いますかって.…思わないですよね」 「聞いておいて自分で答えるんだ……まぁ、今の君じゃ思わないかな」 「──です、よね…」 ──不思議だ。自分でわかっていても言われると傷付くものなんだなと、皐月は感情を誤魔化すようにワインを喉に流し込む。 「…ごめん」  突然の謝罪に、皐月は素直に驚く。 「今のは、ない。本当ごめん」  詠月は苦い顔でグラスを回し、目が合うと誤魔化すように微笑んで、新しい話題を振った。 「皐月くんは発情期いつなの?」 「ヒャッ⁈」  皐月は手にしていたグラスを危うく落とすところだった。 「な、な、なん、なんで?」と、震えるグラスをテーブルに倒さないように置く。 「そんな茹でタコみたいに真っ赤になって照れないでよ、可愛いな」 「可愛…違ッ、き、聞く? そんなっ…」 「聞くよ、普通のことでしょう? αとΩには一番大切なことでしょう?」  皐月はその言葉に、自分たちの立場を思い出し、さっき少しだけ浮ついた体が、今度は一気に重くなった気がした。 「それが──、一番大切なこと…」 「君はαと恋がしたかったの? 理屈っぽいわりに、中身は意外にロマンチストだ」  皐月は無意識下にあった図星を突かれ、返す言葉が見つからず、俯いて、きゅっと唇を結んだ。  グラスの横に力無く置いた手を不意に詠月に掴まれ、皐月は肩を大きく揺らした。 驚いて顔を上げると、詠月はあの穏やかな笑顔を浮かべていた。 「──ごめん。俺たち行くね」  詠月は立ち上がって他の六人にそう告げると、二人分にしては多めの金額を友人に渡して、そのまま皐月を連れ去る。  驚きのあまり、皐月も残された六人とも、目と口が大きく開いたままだ。  皐月は詠月に手を引かれ席を後にする時、隣にいた彼女の顔が恐ろしくて見ることが出来なかった。 ──こんなのフィクションだ、ファンタジーだ。  拗らせすぎて夢を見ているのかも──?  皐月はそんな脳内パニックを起こしながら、前を歩く詠月の後ろ姿をまじまじと眺めた。  詠月は、小柄な皐月より頭一つ分は背が高く、優に180センチは超えていて、少し筋肉質な体のラインがやけに色っぽいと、皐月は邪な思考をよぎらせた。 「ど、どこ行くんですか? あの、えっと、その…」 「会ったばかりの人に何かしようなんて幾ら僕がαでもしないよ──まぁ、今は、ね」 「い、今は⁈」 「あははっ、本当皐月くんて純真だね。綺麗な心の人たちの中でずっと育ったんだろうね」  初めてそんな風に自分を形容され、皐月は全身に衝撃を感じた。    無知で低能なΩと揶揄されることはあっても、そんな風に、しかもαに言われるなんて…。 「──詠月さん。俺…着替えたい」  詠月はピタリと足を止め、皐月を振り返る。覗いて見えたその顔は今にも泣きそうで、悲しげだった。 「どうして?」と、少し意地悪だったろうかと思いながらも詠月は口にした。 「だって、俺…こんな格好だし…」  恥ずかしくて俯く皐月の頭にポンと、詠月が手を置いた。ゆっくり顔を上げると、こちらを見る詠月が余りにも優しい笑顔だったので、皐月は胸が苦しくなった。 「もう良いよ」 「──良くない、です」 「じゃあ、次」 「えっ、次…?」  皐月が驚いて目を丸くすると、詠月はいきなり傍まで顔を寄せて来た。皐月は緊張のあまり一瞬息が止まる。 「そう、次に会う時。お洒落して見せてよ」 「また、会える…んですか…?」 「君が嫌でなければね」  皐月は詠月の形の良い唇が動くのをジッと近くで見つめた。  まるでそこから魔法の音楽でも流れ出ているかのようにその声は酷く甘く、妖艶に聴こえた。詠月の瞳に自分が映っているのが薄っすらと見える。 ──この人に触りたいと、皐月は本能的に思った。  突然、皐月の腹部を太い針が刺さるような、強烈な電流でも通ったかと思う程の激しい痛みが襲った。 「痛い…」  皐月は真っ青な顔で、地面にガクリと落ちるように座り込んだ。慌てて詠月がその体を支え、抱え込む。 「大丈夫?! 皐月くん!!」  詠月は必死に何度も名前を叫ぶが、皐月は既に意識を手放してしまっていた──。  皐月が次に見たのは、見慣れない真っ白で高い天井だった。  喉がやけに乾いていて、まるで高熱にでも冒されているみたいだった──。 「水…」と、皐月が意識半ばで声にすると、手が引かれグラスを渡された。背中を支えて貰い、ゆっくり起き上がる。乾いて土のようになった喉に、水分がじんわりと染み渡る。 「…大丈夫?」  自分を支えてくれているのが誰なのか一瞬わからなくて、皐月は睫毛を何度も瞬かせ、ゆっくりとそちらを向く。  少しして、それが詠月と言う名の男であるのを思い出した。声がうまく出せなくて、皐月は頷くことで詠月に答える。  もう一度水を飲もうとして、自分の上半身が裸な事にようやく気が付いた。  驚いて固まると、詠月が申し訳なさげに眉を下げた。 「ごめん、汚れたから脱がせたよ…。その、気を失った時に君が、戻して…」  申し訳なく思った皐月が、詠月の目を見ようとするも、会った時とは逆に今度は、詠月が合わせようとしてくれない。  不思議に思った皐月は、余計にその表情を知ろうと間近で覗き込むが、詠月はどこか様子がおかしかった──。 「──皐月くん、薬は…?」    耐え切れなくなったのか、詠月がようやく声を絞り出す。 「くすり…? なに…?」 「何って…」と詠月は、なぜか酷く困惑した表情だ。 ──解熱剤? 風邪薬?   皐月は、まだ膜が張ったようなハッキリしない脳内を懸命に巡ってみるが、全く思い当たらない。とうとう痺れを切らした詠月が嘆声を上げた。 「抑性剤だよ! わからないの? 自分の発情期だよ⁈」  詠月は酷く狼狽えた顔をして皐月を見ていた。その表情は、会った時の彼からは全く想像出来ないほど余裕がなく、色白だった肌は染められたように真っ赤だった。 「アアッ! 発情期ッ!!」  顔のすぐ傍で大声を出され、詠月は反射的に目を瞑る。 ──気付かなかった。  いつも全く重要視せずに家でぼんやりと薬でやり過ごしていたせいで、実際の感覚を皐月は忘れていた──。  そして、もっと忘れてはならない事があった──。  目の前の男は、αなのだ──。 「持ってない? 買って来るよ、強いものでなければ処方箋なしで買えるよね」  そういって離れようとした詠月の腕を皐月は捕まえ、ベッドに引き戻す。 「皐月く…」 「会ったばかりの俺とじゃ、なにもない…ですか?」  人生で初めて男を──、αを誘った、つもりだった──なのに、詠月は酷く辛そうな顔をした。 「──君は、何も知らないんだね…。αがどんなに野蛮な生き者かってこと…」 「…俺の、知識は義務教育程度です、けど…詠月さんも野蛮…なんですか…?」 「野蛮だよ。君が倒れた時、匂いですぐ発情期だとわかった。なのに救急車を呼ばなかった。自分でも恥ずかしいよ…僕は、他の奴とは違うと思っていたのに…思い込んでたのに…」  詠月は俯き、酷く苦しそうに呻き声を漏らした。  皐月はこんな時でもまるで他人事みたいに、どんな姿をしても詠月は綺麗なままなんだなあと──と傍観してしまう。  その頬にそっと触れると、詠月はビクリと肩を揺らした。皐月と同じくらい熱くなったその肌は滑らかで気持ち良くて、皐月はもっと触れたいと素直に思った。 「もう…君は何でこんな時に笑ってんの…」  顔が綻んだ皐月とは対照的に、叱られた犬のようにしゅんとして詠月は嘆く。 「だって──詠月さんが綺麗だから…」 「君が純真でロマンチストなんて僕の思い違いだった。君は真の魔性だ」 「ましょう?」と皐月は、まだおかしな酔いが抜けない頭を傾げる。  皐月の肩に詠月が触れたのを感じた時、既に互いの唇は重なっていて、皐月は全身の血が一瞬にして沸騰するような感覚に襲われた。同時に、体にある何もかもが、温度を上げて熱くなる。    それは詠月も同じだったようで、触れた時は優しかったキスもあっという間に深く、激しいものに変わった。  息がうまく出来なくて慌てる皐月を気に留めることなく詠月はひたすらに唇を追う。 「待って…苦し…」  待って欲しいのに、続けて欲しい──。  離して欲しいのに、抱いて欲しい──。  自分のままならない感情に頭と体を無茶苦茶にされながら、皐月は悲しくもないのに涙が勝手に溢れた。詠月がそれに気付いて心配そうに覗き込むが、皐月は抱きついて、何でもないと必死に伝えた。 「ねえ、詠月さん…俺はおかしい? 俺、詠月さんが好きになった…会ったばかりなのに…この気持ちは勘違い…?」 「僕だっておかしいよ…君のこと苦手と思ってたのに…最初から全部作戦だったの? 僕の今までの価値観は一体何だったんだ…」  詠月がなんとか理性的になって考えようとしているのに皐月は、はだけた胸から覗く素肌に何度も頬を擦り付けてくる。 「詠月さん、俺…赤ちゃん…欲しい」 「あ! 赤ちゃん!!」  皐月には、見目麗しい詠月から何か大事な部品が外れ落ちる音が聞こえたような気がした。

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