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出発の音
たった今、日付が変わったばかりの無人駅。俺はここで最終電車を待つ。いつものようにイヤフォンで音楽を聴き、時々スマホを手に取りながら。しかし、今日ばかりは違った。
少し離れたベンチに人影が見えた。この時間帯の他の利用者が気になり、少し近づいてみると、座っていたのはスーツ姿の男だった。
男の隣の席には、男の持ち物と思われるビジネスバッグが置かれており、当の本人は少し俯いた状態で目を閉じていた。
横顔かつ寝顔でもわかる。男は美形だ。それも、結構好みだったりする。
音楽を止めた。スマホの画面を消し、真っ暗な液晶と男に視線を往復させる。心臓が無駄に激しく動く。
約五分後、電車がホームに流れ込んできた。目的の駅には着かない急行列車だ。車内の人間と目が合ってしまい、反射的に一歩下がる。
隣に目をやった。美しい顔は目を閉じたままだ。夜中だということもあり尚更響く電車の音を以ってしても、その目は開かない。よほど熟睡しているのか。それとも、終電であるこの次の普通列車到着一分前にアラームを設定しているのか。電車の音より遙かに小さいアラームで目を覚ませるとは到底思えないが。そもそも、本当に眠っているのか? 妄想は尽きない。
最終電車が到着する一分前。アラームは流れない。何故か不安になってきた。感情移入にも程がある。
再び電車の音がホームに響くも、男は顔を上げようともしなければ、腰を浮かす素振りも見せない。
眠っている、と認識した。思わずイヤフォンを外す。
このまま起きることがなかったら。駅員が声をかけなかったら。
男の下車駅は勿論知らないが、きっと困るだろう。
しかし、この行為がお節介だったら。そう捉えられてしまったら。そもそもこの電車は最終電車なのだろうか。俺の勘違いではないだろうか。いや、今日も最終に合わせて退社したのだ。間違えるはずはない。
『この電車は、最終電車となります』
俺の疑問に答えるようなタイミングで、構内アナウンスが響いた。
「あ、あのっ」
さっきまでの葛藤が嘘のように、躊躇なく口と手が動いた。
今日――正確には昨日――は、挨拶と電話対応以外で声を発していなかったため、ボリュームが上手くコントロールできず、思ったよりも大きな声が出てしまった。男の肩に添えた手は少し震えていた。
男がゆっくりと顔を上げる。俺の目に狂いはなかった。
開いた目は綺麗だ。
「あの、終電、です」
俺の言葉と同時に電車の扉が開く。
「え」
未だうつらうつらとした状態の男が発した。
「大丈夫ですか?」
俺が聞くとその目は大きく見開き、「やべっ」と立ち上がった。
「すみません、ありがとうございます」
男は礼を言って電車に乗り込む。その背中を見つめた。
整っているのは顔だけではなかった。
背が高く脚は長い。清潔感のある黒髪。細身のスーツはそのルックスを更に引き立てている。
輝いた革靴を捉えた目は、自然と自分の足元に向かう。ボロボロのスニーカーが恥ずかしかった。
「えっ」と声が聞こえ顔を上げると、車内の男と目が合う。
「乗らないんですか?」
怪訝な表情で俺に尋ねた。
「あ、乗ります。乗ります……」
思わず見惚れてしまった。同じ言葉を続けてしまうなんて、誤魔化すことによほど必死だったのか。
俺が乗り込むと、この時間以外では聴けない特別な発車メロディが流れ、扉が閉まった。
「あの、ありがとうございました」
「いえ、そんな」
「声かけられるまで全然気づかなくて。助かりました」
男が再びお礼を言い、座席に腰を掛ける。
この会話のきっかけは俺が作った。だが、これ以上話すつもりはなかった。男から離れた座席を選び、再びイヤフォンをしてスマホに目を向ける。これを下車駅まで続ける予定だったのだ。
なのに、何故か足が動かない。
「お仕事帰り、ですよね?」
男の投げてくる質問に答えなければ、といった責任感などはない。
「はい、残業で」
「お疲れ様です。あ、よければどうぞ」
男の隣に座ろうとしているのは、美貌から早々と目を離すのは惜しい、と考える汚い自分だ。それでもよかった。男の様子を見る限り、迷惑がっているとは思えない。むしろこの会話が気分転換になっているといったところか。
「残業、ですか?」
今度は俺が聞き返す。
「はい、六月ってあまり忙しくないんですけど、今年は新しくプロジェクトが始まっちゃって」
どんな業種なんだろう、と疑問に思ったのと同時に男が名刺を差し出してきた。
「すみません、自己紹介が遅れて。豊永 春馬 と申します」
「はるま……」
名刺を受け取り、思わず呟く。「春馬」という名が、この美しい男にあまりにもぴったりだったからだ。
春のように穏やかで、馬のように美しい。
この美貌に成長することを見越して、両親は名付けたのかもしれない。
「珍しいですか?」
反復したことを不思議に思ったのか、春馬さんが問いかける。
「いや、そういうわけでは……。あ、営業をされてるんですね」
突然の羞恥に駆られ、違う話題へとすり替えた。
「はい、今日は特に外回りが多くて」
「こんな遅い時間までされてるんですね」
有名文房具メーカーの営業企画部に所属しているようだ。話のしやすさや気さくな雰囲気に納得がいく。
「えっと、どんなお仕事されてるんですか?」
質問をされ、言葉に詰まる。
「すみません、無理にとは」
「いえ」と答え、鞄の名刺入れに手を伸ばす。
「こちらこそすいません。波多野 詩音 と申します」
「グラフィックデザイナー……、なんかカッコいいですね」
「子どもみたいな感想ですみません」と頭を掻いて謝る春馬さん。「可愛い」と思う感情と言葉がせり上がってくるのを感じ、胸に手を当て飲み込んだ。
「この時期は忙しいんですか?」
「……えっと」
即答できないのは、仕事の話をこれ以上したくないから。しかし、既に名刺を交換し合った関係だ。仕事の話をしないのは不自然である。
「時期というか、中旬から下旬はいつも忙しくて」
「入稿日、ですか?」
「そうです」
電車に揺られながら、主に仕事の大変さをお互い話した。そして気づいた。春馬さんは話の中で、逆説の接続詞「でも」をよく使用する。
この会話の場合、「でも」の後に続けられるのは、仕事の「やりがい」である。
どんなに辛く大変だとしても、それを乗り越えられたときの達成感は素晴らしい。生きる糧になる。生きがいになる。
春馬さんの話を要約すると、このような言葉が並ぶ。胸にきりきりとした鋭い痛みが起きた。
「じゃあ、俺はこれで失礼します」
やがて春馬さんの下車駅に着き、彼は立ち上がった。見上げて聞くのは申し訳なく思い、俺も立ち上がる。
「波多野さん、本当にありがとうございました」
「いえ、こちらこそ興味深いお話、ありがとうございました」
「いやいや、愚痴ばっかでしたよ?」
一日中歩き周り疲れているはずなのに、なんて爽やかな笑顔を見せるのだろう。
少し悔しくなるほど、その笑顔から目が離せなかった。
「波多野さん?」
「あ、すいません。お疲れ様でした」
「はい、お疲れ様でした。では、また」
俺たちの間を、扉が隔てる。発車ベルが鳴り、ゆっくりと視界が左へ流れる。会釈をする春馬さんの姿が小さく、見えなくなっていく。
誰もいない車両。タイヤとレールのぶつかり合う音が異様に大きく感じた。
「また、か……」
真っ暗な窓の外を見つめながら呟く。
うれしかった。社交辞令でもなんでもいい。胸が痛んでもいい。うれしかった。春馬さんにまた逢えることが、逢ってもいいと思ってもらえていることが、うれしかった。
そしてその「また」は、翌日にやって来た。
「お疲れ様です」
先にホームにいた春馬さんが俺に気づく。今日はベンチに座っていなかった。また寝てしまうと思ったのだろうか。可愛い。疲れた身体が、驚くほどのスピードで癒やされていく。
「お疲れ様です。今日も残業だったんですね」
「当分続きそうです。波多野さんもですか」
「はい」と答えた後に続ける言葉が見つからない。情けない表情でモニターに向かう自分しか浮かばないからだ。爽やかな笑顔を見ると、言葉のセンサーは更に萎縮してしまう。
電車がホームに到着し、扉が開く。
「昨日、別れた後に思ったんですけど」
春馬さんが座席に座りながら言った。
「年とか言ってなかったですよね? お互い」
「そう、ですね」
「俺二十六なんですけど、波多野さんは?」
二十六歳。思った以上に年上だった。若く見える。でも人柄や落ち着いた様子を考慮すると、確かにこの年齢でも頷ける。
「俺は……、二十歳です」
「はたち!?」
驚かれてしまった。が、春馬さんは取り乱しても美しく可愛い。
「今年二十一なんですけど、見えないですよね」
「見え……、うーん、なんというか」
小学生の頃から老け顔とは言われてきた。もう慣れた。特別傷ついたりしない。
でも何故だろう。春馬さんに言われたり思われたりするのは、想像以上に苦しい。
「大人っぽい、って言われない?」
無意識に下がっていた顔を上げると、春馬さんと目が合う。なんとなく泣いてしまいそうだった。今度は意識して俯く。
「ど、どうかな。あまりないですけど」
「じゃあ、新卒入社?」
「そうです、三月に専門学校を卒業して」
「すごいなあ、ピッチピチだ」
「俺、男ですよ?」
「若いってこと」
それくらいわかってる。なら、どうしてわざわざ、念押しするかのように性別を口にしたのか。
俺の年齢を知った後、タメ口になったこと。
仕事帰りとは思えない爽やかな笑顔に、改めて惹かれたこと。
これらに心が動きそうになったからだ。だが俺には、絶対に動かないよう固定しなければいけない理由が幾つかある。
「ご結婚、されてるんですね」
春馬さんの細くて長い指を見つめながら、口にした。
「うん、去年ね。高校の同級生と」
高校時代の春馬さんが、頭の中で勝手に形成される。
格好良くて、可愛くて、爽やかで、きっと文武両道で人気もあったのだろう。
彼はその頃、人生を共に歩みたい女性を見つけ、そして昨年、選んだのだ。
全てを済ませた後の彼に、俺は出逢ってしまった。
「遅ればせながら、おめでとうございます」
「ははっ、ありがとう」
安心した。想いの蓋を閉じるのにうってつけの情報だ。
「奥さん、どんな方ですか?」
「どんな……、うーん」
「写真とかないんですか?」
「あんまり撮らないな、二人とも」
「SNSとかも、ですか?」
「やってない」
蓋を上から押し付けるように、常識の範囲で質問攻めにした。
春馬さんのことを知れる、そのことに喜びを感じる一方で、同時に流れてくる奥さんの情報に少し苦しんだ。でも、これでいい。そう言い聞かせながら耳を傾けた。
「じゃあ、俺はこれで」
やがて春馬さんの下車駅に着き、そう言って立ち上がった。
「あ、いいよ、わざわざ」
同じように立ち上がる前に、阻止されてしまった。
「お疲れ様です」
腰を据えたまま、頭を下げた。
「お疲れ様」
車内から吐き出され、階段へと消えていく春馬さんの背中を見つめた。
もし。もしも、今こっちに振り向いたら。
せっかく閉めたはずの蓋は、きっとあっけなく開く。
「……なに考えてんだろ」
俺を嘲笑うかのように発車メロディが流れ、扉は閉まった。そして今日も、真っ暗な世界へと俺を運んでいく。
これでいい。どうせ、もう少しで彼には逢えなくなるのだから。
翌日。今日は会社は休みだ。春馬さんと出逢ってから初めて訪れた休日。
休日と言っても、俺にはやらなければいけないことがある。それは仕事ではなく、超個人的な案件だったりするのだが。
「どこも自信ないな……」
それだけではない。
どうも調子が出ない。目的のノートパソコンとどんなに睨めっこしていても、気分転換にジュースを飲んでみても、目の前の画面に集中できない。いっそ、スマホで見てみるか。
理由は、ただ一つ。
何をしていても、春馬さんの姿が浮かぶ。
髪が、脚が、笑顔が、綺麗な指に巻き付く指輪が。
「やめよ」
「シャットダウン」にカーソルを持っていき、クリックする。映っていた自分の顔が、たちまち闇に覆われる。それを見届け、勢いよく隣のベッドにダイブした。
目が覚めたら、全てなかったことになっていればいいのに。
なんて、少女漫画のヒロインのような科白を胸中で唱えた。痛い。
もう少し、あと少しの辛抱だ。
来たる週の始まり、月曜日。土日が休みな分、どうしてもこの曜日は忙しい。さっきからデスクの電話が鳴り止まない。感情に反して、反射的に手を伸ばしてしまう。
「お、お電話ありがとうございます、◯◯◯です」
まずい、と思った。
「えっと……、はい、えー、すいません、も、もう一度言ってもらっても、いいでしょうか」
相手の声が聞き取りづらい。
「……はい、えー……、すいません、な、なんて……」
『もうええわ、直接社長に掛けるわ』
唯一聞こえたのが、よりによってその科白だった。
「あ、す、すいませ」
言い終える前に、「なんやねん、こいつ」と言われ切られた。
まずい、と思った。
「しゃ、社長」
立ち上がる俺に、上司である社長は無言で俺を見る。
「あの、あ、電話番号、080、38……」
「いや、会社名は? 名前は?」
「……すいません、聞き取れなくて」
「は? なにしてんの、お前」
「ちょっと聞き取りづらくて、聞き返したら、怒られちゃって……、すいません」
「お前、マジ無能な」
「すいません……」
「まず、すいません、とか対応の仕方として論外……」
説教を遮るように、社長のスマホの着信音が鳴る。ち、と舌打ちして応答した。
「あっ、社長! ご無沙汰しておりますー! はい、はい、あー、申し訳ございません、先程は弊社の者が……、はい、左様でございます、来月の件でございますね! はい、はい、かしこまりました。はい、ありがとうございました。失礼いたします」
「申し訳ございません、が常識だから」と、耳から離したスマホを切りながら俺に言った。
「お前多分、何処行っても働けないだろうな」
「……申し訳ございません」
百パーセント、俺が悪い。電話対応もまともにできない俺に問題がある。社長の言葉は恐らく全て正しい。ゆっくりと席に着いた。
プッ、プッ、ポーン、とラジオから時報が流れる。午後七時、定時だ。しかし、足の先は社外に向きそうにない。
二ヶ月前に入社したグラフィックデザイン会社は、社長を含め四人の従業員で成り立っている、まさに中小企業。人手不足問題は避けられない。今日も残業確定だ。
この場合の感情を、先週までは辛い、と決めつけていた。だが、今は違う。
聞きたくもないラジオが半日以上も流れるこの空間から抜け出すと、春馬さんに逢える。
実を言うと、本当は逢いたくない。逢ってもどうしようもない。
でも、逢いたい。
「波多野くん」
静かなホームで鳴り響く春馬さんの声。なんて心地良いんだろう。春馬さんが呼ぶと、自分の苗字ではないように思える。
「お疲れ様です」
「今日も残業か」
「そうです、豊永さんもですか」
「そう、週が明けても絶賛残業期間中!」
しかし同時に、苦しくなる。
「でもまあ、楽しいからいいんだけど」
彼と僕は、違いすぎる。
職種や社会人歴が違うのは当然だ。そういうことではない。
なんというか、仕事に対する姿勢や情熱や、全てが。
「波多野くん?」
「あ、は、はい」
「大丈夫? って聞くほうがおかしいか。ごめん、疲れてるもんね、普通」
「いえ……」
気を遣わせてしまったのだろうか。春馬さんも違いを感じているのだ、きっと。
「あの、さ」
いつもより優しい春馬さんの声に、どきっとする。
「はい」
「俺、明日から出張なんだよね」
「え……」
息が止まった。頭が真っ白になる。熱くなっていく。
突然鳴り響く着信音に我に返る。「あっ」と声が出た。画面には、「社長」の二文字。
「出ないの?」
春馬さんが尋ねる。「出たくない」なんて言えない。でも、出たくない。こんなことをしている場合ではない。
「も、もうすぐ電車来るので……」
「いつも俺らしかいないし、大丈夫なんじゃない?」
何も言えなかった。言い訳の引き出しが驚くほどに薄く浅い。
「そう、ですね」
絞り出したような声で言い終えた後、電話は切れた。
「駅降りたら、掛け直します」
「そっか」
春馬さんが優しく笑った後、再び着信音が鼓膜を貫く。今の俺にとっては、どんな音よりも大きく聞こえる。それは、ホームに近づく電車の音よりも。
「急ぎなんじゃない? この時間に掛けてくるってことは」
何かトラブルがあったと察したのか、「今日は別で帰ろうか?」と隣の車両に足を向けた。
「だ、駄目です!」
今日だけは、絶対に。
「ま、待っててもらえますか」
「う、うん」
画面の「応答」に触れる。
『お前、いい加減にしろよ!?』
驚いた声を上げた俺を、春馬さんは驚いた表情で見ていた。勢いよく目を逸らす。きっと、社長の怒鳴り声が聞こえたのだろう。
『あんなミスやらかして、よく明日辞めれるよな』
「え……」
春馬さんと再び目が合ってしまった。俺に背を向け、歩き出す。
「は、はる……」
『はあ? お前、聞いてんのか!?』
「も、申し訳ございません……」
ミスの内容は、先月発行されたパンフレットのデザインデータに漢字の誤字があった、というものだった。先程、担当者から社長に直接電話があったらしく、その担当者にお叱りと嫌味を言われたらしい。
データは、先輩にも同期にも社長にも、勿論担当者にも確認してもらった。OKは出た。だから印刷まで進んだ。それなのに、何故俺がこんなにも。いや、俺の制作物だ。俺が悪い。俺が、俺が……。
『お前もう明日来なくていいから』
「えっ、いや、そんな……! 明日が締め日ですし、明日までは必」
『締め日とか、お前ごときが口にすんなっつってんの。減給されるわけじゃないんだし、ラッキーだと思えば? つーか』
溜息が聞こえる。
『お前の顔、見たくねえんだよ』
「え……」
電話は切れた。涙が、零れた。社長の言葉に傷ついたとか、そんなんじゃない。ただ、その言葉が、社会全体を表しているような気がして。
社会から必要ない、と言われたような気がして。
どうして俺は、こうなんだろう。
入社して一ヶ月が経ったある日、俺は社長に退職を申し出た。
アルバイトの経験がなかったこともあり認知が遅れたが、俺は所謂「仕事ができない奴」だった。同期の女性社員とは、主にレイアウトのクオリティやスピードの方面で日に日に差が開いていき、今日のように電話対応も満足にできず、その度に上司でもある社長から罵声を浴びる。
重複するが、社長の言葉は恐らく全て正しかった。でも辛かった。無能な自分が情けなかった。この環境の中で、毎日夜遅くまで働かないといけないことが恐ろしかった。
同期と先輩が女性ということもあり、なんとなく疎外感を覚える日々。相談などできない。もう逃げ出したかった。
自分のあるミスにより初めて朝まで残業が続いた日、俺は退職を決意し、後に出社してきた社長に伝えた。そして、一ヶ月後の明日、退職するはずだった。
たったこれだけの理由で?
甘えてる。
周りにはそう思われるかもしれない。でも自分にとってはもう限界だった。「退職」への要素が揃いすぎていたのだ。
涙も声も止まらない。恥ずかしい。情けない。背後には、春馬さんがいるのに。俺が欲しいものを持ってる、俺とは何もかもが違う、あの春馬さんがいるのに。
いや、もういないか。さっき背を向けられたのだから。そもそも、既に電車はホームから消えている。それどころではなかったにしろ、最終電車に乗れなかった。どうやって帰ろう。やっぱりタクシーしかないか。タクシーってどうやって探すんだろう。とりあえず駅から出れば見つかるのか。一人でタクシーに乗ったことがないなんて春馬さんが知ったら、どんな反応をするだろう。無能な上に経験不足。違う。経験がないから無能なのか。知られることは二度とないけれど、嫌になってきた。死にたい。今すぐ電車に轢かれて死にたい。でも終電は終わった。死ねない。怖くて、死ねない。
死にたくない。
もう一度、春馬さんに、逢いたい。
「波多野くん」
背後から聞こえた、心地良い声。信じられなかった。だけど信じたい。それに、この声は紛れもなく現実だ。幻なんかじゃない。
「な、なんでいるんですか。終電、行っちゃいましたよ……」
「駅員さんに説明して、少しの間ここを借りる許可貰った。こんな状態の後輩、放っておくわけにはいかないし」
「タクシー代なら出すからさ」と笑う春馬さん。
「よく頑張ったな」
大きな手が、俺の震える頭を捕らえ、優しく撫でた。
想いが、体から溢れ出しそうだ。もう、どうなってもいい。
「……好きです」
「うん」
それでも、春馬さんの手は止まらなかった。
「ずっと気になっていて、たった今、好きになりました」
「うん」
「本当は好きになりたくなかった、好きになったところで実らないから。豊永さんは女性が好きで、実際に奥さんがいる。だから……」
「うん」
「今日で逢えなくなるから、そのまま忘れようと思ったんです。でも、できなかった」
春馬さんの手が、離れる。
俺は振り向いて、俺を見つめる春馬さんを見つめ返した。その綺麗な目に、涙で汚れた俺が映っている。
せめて気持ちだけでも綺麗なものを、と思った。
「あなたみたいな人、好きにならないわけがなかった」
春馬さんは優しく微笑んだ後、「うん」と頷き、「俺も話していい?」と真剣な表情で尋ねた。
「まず、告白してくれてありがとう」
声にならない。黙って頷く。
「でも俺は、波多野くんの気持ちには応えられない。なぜなら、波多野くんが言ったことが全てだからだ」
「……はい」
「でも俺は、君と今日でさよならしようとは思わないよ」
意味がわからない。だが、逢おうと思えばいくらでも逢えることはわかっていた。
俺が、春馬さんの帰宅時間に合わせてこの駅に来ればいいのだ。別にここに拘らなくたって、連絡先を交換して何処かに出かけたっていい。勿論、そのような行為をするつもりはさらさらないのだが。
春馬さんが話していることは、きっとそういう意味ではない。
「俺の部下にならないか?」
「え……?」
「もし波多野くんが良ければ、うちの会社に来てほしい」
「え、でも俺」
「勿論面接はする。必ずしも採用するとは限らないし、俺がいる営業企画部に配属される保証もない」
「でも」と春馬さんは続ける。
「波多野くんが望むなら、俺は全力で君について会社にアピールする。そしてうちの部に入れてもらえるよう説得する。勿論、営業で良ければ、だけど」
ああ、やっぱり俺はこの人が好きだ。
出逢って三日、と言っても、実際に逢って話した時間は短い。きっと三十分もない。
他人同然の関係なのに、こんなにも親身に話を聞いてくれ、挙げ句の果てに、同じ会社で働かないか、と再就職先まで紹介してくれた。
俺だって、春馬さんとは今日でさよならしたくない。この想いを告げる日は二度とないにしても、春馬さんのことをもっと知りたい。だけど、それは。
「上司として厳しいことも言うと思うから、波多野くんにとっては辛い距離かもしれない」
俺の心をまるで読んでいたかのようなタイミングで、春馬さんは話した。
「何より、もう言わせなくさせるようなもんだ」
そうだ、もう言えない。言わない。
「豊永さん、いや、春馬さん、最後にいいですか」
「うん」
「春馬さんが、好きでした」
「うん、ありがとう」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
このボロボロのスニーカーは捨てる。これからは、同じように輝く革靴で、望んでいたものとは違う関係で、豊永さんの傍で靴の音を鳴らす。
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