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なにか落ちてきたと思ったら、桜の花びらだった。天気はどんよりと曇って、古びた石段や塀に囲まれた公園は意外に広かった。
「休憩はほどほどにして、早く片付けよう」
そうあいつがいったのに、僕は急な石段をもうひとつ上ったところに据えられたブランコに走り寄る。鎖をにぎって板の上に尻をのせると公園はすこしちがった風景に見えた。四角いマンホールのふたや、苔で緑色になったコンクリートに消火栓のマークがついている。急な石段のあいだ、人工的に作られた段差のなかに貯水槽が埋められているようだ。この辺りはよく歩いていたはずなのに、こんな公園があるとは今日まで知らなかった。
「雨が降り出すといやになるぞ」
空をみあげてあいつがいう。
「朝からずっと働いたんだ。ちょっとだけ」
僕の返事にあいつはちょっと呆れたような顔をして、でも非難はしなかった。僕は地面を蹴ってブランコをこぎはじめた。鎖がキイキイと鳴るが、あまり揺れない。子供のころどうやってこいでいたかがよく思い出せない。あいつは立ったままブランコのポールにもたれ、ポケットを叩いた。
「煙草?」
たずねると顔をしかめる。
「いや、禁煙した。缶コーヒーか何か飲みたい」
「やめると太るっていうぜ」
「喫煙歴はたかだか一年。やめるなら今のうちだ」
花びらがまた落ちてくるが、桜の木はどこにあるのだろう。僕は首をめぐらせ、うしろに貧弱な花をつけた枝をみつける。昨日の雨でほとんど散ったらしい。このあとまた雨が降ればそれで花の季節も終わりなのだろうか。
少し離れたところでゴトンと音がして、視線をむけるとあいつが自動販売機の前にかがんでいた。手のあいだでお手玉するように缶を移動させながら僕の方へ戻ってくる。片手をあげると、また呆れたような顔つきで一本よこした。
「おごらないからな」
「引っ越し祝いは?」
「代わりに手伝っているだろう」
カラスが近くで鳴き、羽ばたきがきこえた。公園は静かで、他に人影はみえない。いや、僕らのいる一角からずっと離れた端のベンチに誰か座っているようだ。でもそれだけ。平日だから当然か。濠に沿った大通りを走る車の音がかすかに響くが、周囲はマンションや小さなオフィスビルに囲まれている。
缶コーヒーは甘かった。いつもはあまり好きじゃないのに、今はとても美味しいと思った。朝いちのトラックで荷物を運んでもらい、それからずっと荷ほどきしていたのだ。
「うまい。糖分が体と頭に染みわたるよ」
思わずそう口に出すと、あいつは小馬鹿にしたように笑った。
「引っ越しくらいで頭を使うかよ」
「馬鹿いうな。引っ越しは案外頭脳を使うんだ。何をどこにしまうか、どの箱に何を入れたか、覚えてないと」
「そうか?」
飲み干した空き缶を足元において、僕はまたブランコをこぎはじめる。あいつはまたポールにもたれて立っていた。ぼんやりした眼つきだった。朝からこきつかって悪かったな、と僕は思う。大学はまだはじまっていないが、みんなそんなに暇じゃない。そんなときにわざわざ、面倒な引越作業を手伝ってくれたのだ。
「やっと大学まで徒歩圏だよ。これでもう、レポート締め切り前もおまえの部屋に転がりこまずにすむ」
それでもわざと明るくそんな風にいってみた。あいつは飲みおわった缶を握って、ポコポコと鳴らした。僕とちがってガタイが良いし、力も強い。また呆れたような声で「三年間もよく通ったよな。ご苦労さん」という。
「――っても、まだまだそっちの部屋には行くぜ?」と僕はいう。
「実際は近くなった分、もっと便利になる」
と、あいつは顔をしかめて「そんなこともない」といった。
「どうしてさ。一緒のゼミに入るだろう。前からそういってた」
あいつは何もいわずに空き缶を地面に置いた。僕のとなりのブランコの鎖をにぎり、板の上に立つ。鎖がキイキイときしんだように鳴った。
「おい、大丈夫か」僕は思わず笑った。
「おまえデカいもんな。ブランコ、壊れたらどうするよ?」
「大学生が春休みに公園でブランコ損壊ってか?」
あいつはそんなことをいったきり、立ちこぎをはじめる。鎖がちゃら、ちゃら、と鳴る。僕はすこし悔しい気分になった。僕よりずっとコツを心得ている。
「おまえ、うまいな」
「童心を忘れてない」
しばらく黙ってふたりでブランコをこいでいた。あいつは立ったまま、僕は座って。空の雲はますます厚みをましている。先週は薄ぼんやり晴れた日が続いたが、今週は降ったりやんだりだ。日が差さないせいかすこし肌寒い。
「俺といて、いいのか」
ふいにあいつがいった。
「なんで?」
僕は真顔で聞き返した。
「なんでって……ここは大学も近いし」
「だから引っ越したんじゃないか。授業がはじまればみんなこのあたり、うろうろしてるだろう」
あいつはいつのまにかブランコをこぐのをやめていた。ゆっくりと揺れがおさまるのを待っている。それから板の上に座りこんだ。
僕は言葉をさがし、やっと「気にすんなよ」といった。
「その……なんだかんだいう連中がいても、気にすんな」
「俺な」
ブランコの鎖がキイキイ鳴り、くるくる回った。あいつは両手で鎖をつかみ、一瞬僕の方を向いて、反対側を向く。また僕の方を向いて、そしていった。
「大学やめるんだ。ていうか、もう退学した」
「は?」
思わず大きな声が出た。
「何それ」
「美容師になって実家をつぐことにした。来週から札幌の専門学校に入る」
「はあ?」
僕は足で地面を蹴る。衝撃でブランコの板がぐるっと回った。突然の情報に頭の中が混乱していた。
「何いってんだよ。冗談だろ?」
「実家が北海道で美容室やってるの、知ってるだろう」
「そりゃ聞いたよ。でも妹が継ぐとかいってたんじゃ……だいたい美容師って、二十歳過ぎてから美容学校行くのかよ」
「悪いか」
「なんで突然……まさか」
いいかけた僕の言葉を断ち切るように、あいつは「ばあちゃんに介護が必要になって、ハハオヤが大変なんだ」といった。
「夫婦で美容師やってても店が手薄でさ」
「どうして……」僕はぶつぶつつぶやく。
「どうして教えてくれなかったんだ。来週なんて――すぐだろ。おまえの部屋は?」
「実はもう、荷物は送ってる」あいつは淡々といった。
「明日の午後の飛行機で帰る。すこし前から考えていたけど、決めたのが急だった。教えるのが遅くて――悪い」
「悪いって――そりゃ、悪いよ! 悪すぎる」
僕は顔をあげ、あいつをみる。
「もっと早くいってくれれば……送別会とかも……ほかの連中もあつめてさ……」
あいつは眉毛を困ったように寄せた。
「いいよ。どうせ誰も来たがらない」
「そんなことないだろう。そんなに……気にしてるのか? 僕は気にしてないっていっただろう? ほっとけよ。みんないいたいことをいう」
「おまえはな」
あいつはちょっとため息をついた。長い足が僕の近くまでのびて、つま先がコーヒー缶を倒した。
「いっとくけど、噂は本当だから。俺ゲイなの」
僕は鎖を握りしめた。
「だったらなおさら……勝手にばらして好き勝手してるやつらに遠慮しなくていい」
僕の言葉がどう思われたのか、僕にはわからなかった。あいつは黙ってブランコから立ち上がり、空き缶を拾った。僕が飲んだものと、自分が飲んだもの。
「おまえが好きだった。そんなふうに鈍くて、何も気にしないところ」
「何いってんだよ――」
僕の言葉は尻切れとんぼになった。あいつは振り向かずに歩き出したからだ。首に冷たいしずくがあたった。雨が降り出したのだ。
「早く片付けようぜ」
地面がたちまち水の色で塗りかえられる。振り向いてそういったあいつの声だけを僕は聞いていた。何と答えればいいのかわからないまま、慌ててその後を追う。あいつは黙って先をいっている。僕にひとことも断らないで、ただ先を。
*
この駅に下りるたびに川や水を連想するのは、駅名とホームに塗られた色のせいだ。我ながら安直な連想力だが、十年このかたずっとそう思っている。
僕は外に出て交差点で信号を待った。都内有数の行楽地が近いので、今日も交差点は人でいっぱいだ。空は曇りがちで、天気予報は夜から雨が降るといっていた。僕は人波とはちがう方向へ交差点を渡り、濠沿いを歩く。むかし何年も暮らしていた町なので、どう歩けば効率よく信号を渡れるかもわかっている。
濠に沿った大通りはゆるい坂道になっていて、濠の反対側に建つのはオフィスビルや新しい小規模マンションばかり、小さな飲食店がたまにあらわれるだけだ。しばらく歩いていると、ふいに横手に階段があらわれる。コンクリートが苔でうすい緑色に染まっていて、急な石段の両脇に公園の名前が彫られている。
僕は公園の中を横切り、もうひとつの石段をのぼった。砂場の横にブランコがあったはずなのに、どこにもみあたらない。うろうろしていると、かつて支柱が立っていたらしいコンクリートの痕だけを発見する。ブランコのあった場所にはベンチが二台置かれていた。
僕は座って石段の方を眺めた。先の方にある都の施設に用事があって久しぶりにここへ来たのだった。学生の頃は毎日のようにこのあたりを歩き回っていた。四年生になった年、この公園の近くに部屋を借りたから、ここは庭のようなものだった。
はらはらと花びらが落ちてくる。桜の花びらだ。僕は空を見上げ、もう雨が落ちてきそうだと思う。まだ夕方なのに、天気予報は裏切られたか。今年の桜は咲くのが遅かった。満開のいま雨が降ったら、たちまち散ってしまうだろうか。
この公園に来るたびに思い出すことがある。
ベンチに座ったまま、ブランコがなくなっていてよかったと僕は思う。大の男がひとりでブランコに座るのはなんともうら寂しく、格好がつかない。でもかつてここにあったブランコに、ずっと昔、男ふたりで座っていたことがある。
あれから彼には会わなかった。何度かメールのやりとりをしたが、会うことはついになかった。仲が良かったはずなのに、おかしなものだ。学生時代の友人なんてそんなものだろうか。僕は彼を自分にとって何だと思っていたのか。彼は僕を何だと思っていたのか。
ベンチに座ったままじっとしていると、カラスが鳴いた。
公園はしずかで、ひと気がない。あのころあいつが僕の近くにいるのはとても当たり前のことだった。当たり前のことが当たり前でなくなって、別の生活がここではじまり、それから何年も、何年もたった。
石段の方向をみつめていると、あいつが昔の姿のままでそこにあらわれるような気がする。大柄な体に繊細な表情をうかべて、脳天気に話す僕にあいづちを打つのだ。
しばらくそのままじっとしていた。風が吹きはじめ、雲が厚くなる。雨が降る前に立ち上がろうと思うのだが、僕の耳は石段で響く足音を聞きつけている。階段をのぼってくる影に思わず眼をこらし、あわててそらす。雨粒の最初のひとつを待つわけにはいかない。立ち上がって公園を出ていくと、僕を追うようにカラスが鳴く。
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