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第1話
東京駅に着くやいなや、乗り換えの時間すら惜しく思え、急ぎタクシーに乗る。
右手の中には、あの日受け取ったバッジ。
気恥ずかしくもどこか浮き立つような気持ちと動悸が抑えきれず、彼はしっかりとそれを握りしめた。
「はぁ…それって絶対条件…なの?」
「そうですね…はい、これが僕にとっては、唯一で絶対の条件…です」
「……ふーん、そうなんだ? 合う人見つかるといいね…俺は無理そうだけど」
苦笑いを浮かべ、ヒラヒラと手を振りながら、目の前からまた男が消えた。
と同時に、それを見送った青年がハイボールの入ったグラスを持ったまま、『はぁ…』とため息をつく。
「これで何連敗だ? ほんとマジで、あのわけのわかんねぇ条件の話、やめとけって言ってんだろ」
少し離れた所から様子を見守っていたらしい細身の男が青年の隣に立つと、どこか呆れたような…けれど心から心配そうな目を向けながら青年の頭をコツンと小突く。
青年は項垂れつつも、どこか納得がいかないといった顔でぷぅと頬を膨らませた。
「アラサーが膨れっ面したとこで、可愛くもなんともねぇよ」
「お前に可愛いと思ってもらおうなんて、考えてねぇわ」
青年の名は、早崎健斗。
現在28歳で、大手企業に勤めるサラリーマンである。
「見た目良し、性格もまあまあ良し、給料良し…お前のぼっちの原因は、ほんとにあのくだらない『条件』くらいだぞ。もういい加減現実見つめろって」
大学生の頃から腐れ縁の続いている横手が、早崎の胸に留められた、何も書かれていないバッジをピンッと弾く。
その横手の胸にある同じ物には、『タチ』と書かれていた。
ここは、とある老舗ゲイバー主催で定期的に開かれているマッチングパーティーの会場。
『夜の相手』ではなく、本気で人生のパートナーを探したいと考えている男性の為に出会いの場所を提供するというのがこのパーティーの主旨であり…そして悲しいかな、最大の建前であった。
ある種特異な恋愛観を持ち、年齢=恋人いない歴でありながら、特に焦る事も行動を起こす事もしない早崎の為になれば…と、お節介にも横手が声をかけたのがここに来たきっかけだ。
そして、これといった進展も無いまま、今日で4回目の連続参加である。
己の恋愛観も相手に求める条件も変えるつもりは無いと言いながら、それでも毎度毎度壁の花と化していてもこうしてパーティーには現れるのだから、早崎も今のままでいたくないとは考えているらしい。
「お前、ほんといい奴だと思うのよ、俺は。でもな、理想が高過ぎてさぁ…てか、夢見すぎ? ゲイの恋愛とか実情とかって物、理解できてないんじゃないの?」
「理想だの実情だの、僕からしたらお前の言ってる事の意味こそわからない。そこはこれからも譲るつもり無いし…そこを曲げてまでパートナーを探す事に必然性があると思えない」
あまりに頑なな言葉にそれ以上の説得は諦め、横手はトントンと早崎の肩を叩くと自分のパートナー探しへと向かった。
少し気が抜けたように、早崎は近くの椅子を引き寄せズルズルと座り込む。
横手の言う通り、早崎は決して見た目が悪いわけではない。
華やかさこそ無いが、小さい顔にそれぞれ小ぶりなパーツが絶妙に配置され、世間的に見れば間違いなく『イケメン』に分類されるタイプだろう。
身長もそれなりにあり、学生時代剣道で鍛えられた体は今も引き締まった美しいシルエットを維持している。
日本最大手とも言われるマルチソーシング会社に勤務し、将来の幹部候補が配属されると言われる営業統括という部門でバリバリ仕事をこなす営業マンで、その給料は同年代ではかなり高額だ。
真面目で上司からの信頼も篤く、また非常に穏やかな人柄は部下にも慕われている。
いわゆる『非の打ち所の無い』人間なのだ…こと、恋愛面を除けば。
「すいませーん、遅れちゃった。まだ入れてもらえるのかな?」
「あらぁ、須田ちゃん、ほんと遅かったじゃないのぉ。今回は来ないのかと思ってたのよ。どうぞ、入ってちょうだい。もっとも…もう何組かはカップル成立しちゃって、結構人数減っちゃったんだけどね」
やけに通りの良い声にちらりと視線を向ければ、入り口のオーナーに挨拶をしながらバッジを受け取る体の大きな男性と目が合った。
そのまま視線を逸らすのも失礼かと、早崎は小さく会釈をする。
男性も同じように思ったのか、眦を少し下げながらピョコリと頭を下げた。
「おおっ、種馬っち登場じゃ~ん」
「種馬言うな」
「ヤバいね~、須田っち来たら、今日のネコちゃん達みんなガバガバで使い物にならなくなんじゃないの?」
「お前ら、ほんとやめろ。毎回毎回そんな事ばっかりデカい声で言ってるから、俺が声かける人にいっつも警戒されんだろ」
男性は、主催のバーもこのパーティーも常連らしい。
いまだパートナーが見つからず些か飲み過ぎているタチグループに大声でからかわれ、心底不快そうに眉間に皺を寄せた。
「早崎、俺パートナー見つかったし、先出るわ」
不意にかけられた声に一瞬ビクンと肩を震わせ、早崎は振り返る。
そんな早崎の反応に驚いたような横手の隣には、女の子と見間違えそうなほどに小さく華奢な青年がモジモジしながら立っていた。
いかにも横手が好きそうなタイプだと納得すると同時に、おそらくこれまで通り青年のこのモジモジが無くなる頃にはスッパリ縁を切っているのだろうと確信する。
横手が早崎を恋愛対象として見ない理由も、早崎が横手に一切惹かれない理由も、その青年が体現しているようだった。
「あ、須田さんだ…」
「知り合い?」
「まあな…あの見た目だし、俺らとそんなに年変わんないのに自分のカフェとかオープンしてるくらいのやり手だし、この店だと結構有名人だよ。何より、めちゃめちゃモテる。とりあえず、お前の理想の真逆だとは思うぞ」
「だろうな。それでも…お前ほど真逆ではないと思うけど。ほら、彼待ってるから」
このパーティーでは、『○○番と○○番、カップル成立~』といった、マッチングパーティー特有のお約束は無い。
気にいったタイプがいればすぐに猛アプローチをかけるし、それを相手が受け入れれば大抵がそそくさと店を出ていく。
横手が先に帰り、早崎一人が会場に残されるのは毎回の事であった。
「もう少し飲んだら適当に帰るから、心配しなくていいよ」
「はいよ。んじゃまあ、お前もほどほどで妥協して相手見つけろよ~。マジで魔法使いになるぞ」
「魔法使いでも賢者でも妖精でも、何でもなりますよ、はいはいおやすみ」
呆れた顔でシッシッと追いやれば、横手はシレッとモジモジ青年の肩に腕を回す。
二人だけの世界を作りながらさっさと会場を後にする姿を見ても、早崎はそれを羨む気にも信念を曲げる気にもならなかった。
それどころか、やはり自分の条件は間違っていないと実感する。
「こんばんは。ここ、座らせてもらってもいいかな?」
了承の言葉の前に椅子を動かす気配を感じ横手の見送りを止めた早崎の前に、先ほどからかわれていた男がニコニコと笑顔を浮かべ座っていた。
入り口にいた時からかなり体格が良さそうだとは感じていたが、近くで見ると想像以上だ。
身長は早崎より少し高い程度だろうが、何せ厚みがまるで違う。
ジャケットの下の開襟シャツなど、動くとボタンが弾け飛んでしまうのではないかと思えるほどに妙な皺ができていた。
それ以前に、腕を上げるだけでジャケットの肩回りが裂けてしまうかもしれない。
「確か…前も来てたよね? あ、勘違いだったらごめん。さっきの大騒ぎで聞こえてたかもしれないけど、須田と言います。須田清史郎です。名前聞いていい?」
おそらくはその威力をよくわかっているであろう満面の笑みを浮かべ、須田はサッと右手を伸ばしてきた。
早崎は様子を伺うように、恐々その手を握る。
フロアの明かりの下で見る須田は、全体的に大きな作りの男らしい顔…言わば早崎と正反対の顔であった。
元より濃いらしい髭をうっすらと伸ばしているのも、ワイルドと呼ばれるタイプの顔付きの須田にはよく似合っている。
しかし大きな体や無精髭にも不思議と威圧感を感じる事はない。
少し下がって見える大きな二重瞼の目が優しい印象を作っており、また、自分でも体の大きさを気にしているのか、膝をピッチリと閉じて背中を丸めているからなのだろう。
もっとも、他者には色気を感じさせるはずのその無精髭や派手すぎない程度に染められた髪は、早崎の警戒心をMAXにするだけではあったが。
「どうも…早崎です」
「実はね、前のパーティーで見かけた時から話をしてみたいと思ってたんだ。遅れてでも今日来て良かった」
「はぁ…それはどうも……」
当然と言えば当然なのか、須田の胸元のバッジには『タチ』と書いてある。
早崎は『またか…』と胸の内でため息をつきながら、口元にだけ笑顔を作って見せた。
「そのバッジがね、気になってたんだ。タチともネコとも書いてないから…何か理由があるんだろうなぁと思って」
須田の言葉に、早崎は『おや?』と引っ掛かった。
何も書かれていないバッジについては、早崎に声をかけてくる男は皆気にするところだ。
けれど大抵は『リバ好きなの?』『タチ寄り? ネコ寄り?』といった聞かれ方をする。
何も書いてないのには理由があるのか?と質問されたのは初めてだった。
「僕は…これまで誰に対しても性的な欲求という物を持った事がありません」
「誰にも? でも、自分の事はゲイだと思ってるからここには来てるんだよね?」
不審そうな顔もせず、ごく自然な世間話のような口調で語りかけてくる須田の様子に、早崎の中の警戒心が少しだけ弛んでくる。
きちんと聞いてくれるならばきちんと話さなければと真っ直ぐ椅子に座り直すと、ハイボールで唇を湿らせた。
「女性に対しては、これまで一度もときめきのような物すら感じた事はないし、人としてもあまり興味を持った事はありません。男性には性的欲求はともかく、カッコいいだとか素敵だとか近づいて話してみたいといった気持ちは抱いた事があるので…おそらく僕はゲイなのだろうと思ってます」
「うーん…じゃあ、ノンセクシャルという事なのかな?」
「そうなのかも…しれません」
「なるほど、だからバッジには何も書いていないんだね。一つ疑問が解決した」
これまでの男性とは違い、奇妙な物を見るような目も不快な顔もせず、須田はニコリと微笑んで見せた。
その反応こそが奇妙に思えて、早崎は少しだけ首を傾げる。
真似るように、目の前の大男もちょこんと首を傾けた。
「俺、何か間違ってた? あ、失礼な話でもしちゃったかな? それだったらごめんね、ほんとにごめん。嫌な事言ってたら、遠慮なく『お前、無礼だぞ!』って怒ってね」
「い、いえっ、そんなんじゃなくて…この話をしたら、大抵の人が嫌そうな顔したり、不思議そうな顔するのに、須田さんは何とも無さそうな顔だったから……」
「嫌そうな顔なんてされるの? え? なんでだろう…」
心底わからないという顔で口をへの字に曲げ、トントンと下唇を指先で叩く。
少し子供じみた膨れっ面にも見えるその仕草に、早崎は思わずクスッと笑みをもらした。
「ノンセクシャルかもしれない人間が、こんなマッチングパーティーに来てるからじゃないでしょうか…セックスする気も無いのにパートナーが必要なのかよって思われてるんだと……」
「それは人それぞれでしょ。性欲は感じなくても、大切な人と生活したいって気持ちはあっても当然なんじゃないの?」
「僕もそう思って…いつかは体の関係は無くても本当に大切だと思える人に出会えるんじゃないかと…思って…」
その容姿や佇まいに興味を持ち近づいてくる人間はいくらでもいた。
このパーティーに出席するようになる前から、ゲイタウンを歩けば煩わしさを感じるほど声はかけられてきたのだ。
人に誠実である事を信条とする早崎は、そのたびに『性行為に興味が持てない人間だ』と丁寧に伝えた。
『それでもきちんと話をして、相手の要望には少しずつ向き合いたいと考えている』とも。
殆どの者は憐れむような目をしながら無言で背中を向けた。
一部の者はそれを誘いを断る為の方便と取り、馬鹿にするなと罵った。
自分からアクションを起こしたわけでもないのに、勝手に憐れまれ勝手に疎まれる。
『パートナーにセックスを求めないこと』
早崎の頑なな恋愛観は、こうして少しずつ出来上がっていった。
「早崎さんにばっかりしんどい話させちゃってるの悪いから、俺の話するね」
にこやかな表情は崩さず、須田はゆっくりと脚を組み替える。
胸のバッジに手をかけると、それを外してテーブルに伏せて置いた。
「須田清史郎、31歳です。今はスポーツバーとステーショナリーカフェを経営してます。まあ…スポーツバーの方はほぼ弟に丸投げしちゃってるけどね。俺はステーショナリーカフェにばっかり顔出してます。あ、オシャレっぽく聞こえるから『ステーショナリーカフェ』なんて言ってるけど、ほんとは文具や雑貨を置いてるただの喫茶店。好きな物に囲まれて、美味しいコーヒーとホッとできるスイーツ楽しめたらなぁって事で、俺の趣味全開の店なの。良かったら一回遊びにきて」
シルバーのカードケースから、手慣れた様子で名刺を一枚差し出す。
住所と店の名前、電話番号だけが印刷されたシンプルなそれには、プライベートに繋がる物は書かれていない。
下心満々で渡してきたわけではなく、純粋に自分の身分を証明するつもりの物だったらしい。
本社からそれほど遠くないその住所だけ確認すると、早崎はそれを胸ポケットにしまった。
「俺はね、たぶんスケベだと思います」
「……そうみたいですね」
チラリと視線の向いた方向に気づいた須田は、『やっぱりかぁ』と苦笑いを浮かべガシガシと頭を掻いた。
よほど毛質が硬いのか、せっかく整えて撫で付けていた耳の横の髪がピコンと不細工に立ち上がる。
一度そうなってはどうにもならないと諦めているらしい須田は、面倒だと言わんばかりに全体をグシャグシャと掻きむしった。
「昔はね、種馬って呼ばれても仕方ないくらい遊んでた自覚はあります。名前も聞かないうちから『ホテルに行かない?』って声かけた事も少なくない。俺、元々は大学のアメフト部にいたんだけど、そこでゲイだってバレてね…勿論俺にそんな気持ちなんて欠片も無かったんだけど、『性的な目で見てくるような人間とは気持ち悪くて一緒にプレーしたくない』ってチームメイトから言われてアメフト続けられなくなったんだ。そしたらなんか色々な事がバカらしくなっちゃって、『性的な目で見ていいとこに入り浸ってやる!』な~んて、一気に性欲爆発しちゃいました」
軽い口調ではあるが、その事は今でも須田の心に深く傷を残しているらしい。
無意識なのか、親指のささくれをブチブチと引っ張りちぎっている。
当時の悔しさと虚しさと自己嫌悪が甦っているのかもしれない。
その気持ちに覚えのある早崎はポケットからハンカチを取り出し、ジワジワと血の滲み始めた左手の親指にそっと乗せた。
「あっ、ごめん! 汚れちゃうよ…って、もう汚れちゃってるし…」
「そのうち気が向いたら、クリーニング代請求の連絡でも入れますよ」
ニコリと笑って見せる早崎の表情に、最初ほどの警戒感はない。
それが嬉しかったのか、それともハンカチがきれいだったからなのか、須田もフニャリとなんとも情けない笑顔を返す。
ボサボサ頭と色気のいの字もないその笑顔に、早崎の心臓が一度大きくトクンと脈打った。
「学校辞めて、この辺でバーテンしながら金貯めて、ついでに暇さえあればセックスばっかりして…スポーツバーはオープンしたんだけど、急に虚しくなっちゃったんだよね…」
「何か…きっかけが?」
「オープンの時から店手伝ってくれてた弟が結婚したんだ。この嫁さんてのが本当にしっかりした、出来た女性でね…お互いを労りあって支えあって、ほんと素敵な夫婦なんだなぁ。ものすごい美人てわけじゃないんだけど、なんせ弟を見てる時の彼女の表情がチャーミングでね…ああ、俺は誰かにこんな目で見られた事があるかなぁって考えたら、いくら傷ついてようが自棄になってようが、自分は人をきちんと人として考えてなかったって気付いて情けなくなった」
押さえていたハンカチをそっと持ち上げ、血が止まっている事を確認すると、須田はそれをそのままポケットにしまう。
伏せたままのバッジをそっと早崎の方へと押し出した。
「俺ね、タチとかネコとか関係なく、できれば早崎さんと一人の大人同士としてきちんと向き合いたいです」
「でも、スケベなんですよね?」
「うーん…残念ながらスケベです。でもね、大切な人がいるのに欲を外で発散するなんて事はしないと思います。でも、あの…あれだ、大切な人を思い浮かべて抜くくらいはいい? あ、そんな事する相手だと気持ち悪い?」
どうやら本気で不安に思っているらしい。
前のめり気味に聞いてくる須田に、早崎は小さく首を振った。
「僕にも中学生の頃は、ぼんやりとですけど性欲ってあったと思うんです。憧れに近いくらいの、ほんとぼんやりとした物」
「根っからのノンセクシャルってわけじゃない?」
「たぶん。高校に入ったくらいからかなぁ…男女問わず変にモテた時期があって…僕の事知らないだろうって人にまで告白されたんです」
「早崎さん、モテそう。イイ男だし、頭良さそうだもん」
早崎からすれば、自分よりよほどイイ男でモテそうな須田の言葉はただ気恥ずかしいだけだ。
聞こえなかったフリをして、ふいとそっぽを向く。
「ろくに話もした事無いのに、見た目だけで『好きだ』って言うんです。男子からはイエスもノーも答えないうちから押し倒されたりもして…どうせ子供できるわけじゃないから一回だけお願い!なんて言われて…」
「え!? ヤられたの!?」
「あ、僕結構強いんで、バカかとボコボコにしてやりました。ただ、似たような事してくる奴が続いて…たぶん僕がゲイらしいって噂になって、頼めばやらせて貰えるなんて話まで回ってたからだと思うんですけど。そのうち、『確かに、子供ができるわけじゃない。じゃあ何故男同士でセックスしないといけないんだろう』って考えるようになっちゃったんです」
そこに持ってきて、大学に入って知り合った横手の存在が大きかった。
ゲイ同士という事で気安さもあったし、横手自身は気遣いのできる良い男だ。
しかし、何せ男癖が悪い。
ウブそうな綺麗めな男の子を見つけるとすぐに『一目惚れ』し、数ヶ月して相手が横手に本格的に心を開き始めると『初々しさが無くなった』と躊躇なく別れる。
自分が相手を自分好みに仕立てておいて、馴染んでくれば面白くないと捨てるのだ。
それを間近で見ているうちに、体の関係が絆を断ち切る根元で汚い物のように思えてきた。
「それでセックス抜きで付き合える人を探してるんだ?」
「そうです。これはあくまでも『僕に行為を求めない』事が前提なので、大切なパートナーが僕を思って自慰をする事まで嫌だとは感じないと思います。まあ…そんな人に会ったことないので、わからないんですけど…」
早崎の言葉が終わる前に、須田が改めてバッジを差し出した。
「無理矢理嫌がるような事、しません。約束します。だから、ただの友達…一度俺とそこから始めてみませんか?」
「セックスできませんよ?」
「友達ですから。親友にセックスは求めないでしょ?」
「親友…というか、友達でいいんですか?」
「どんな関係だって、まずは友達で一歩です。そこから関係が変わるかどうかは、その都度話し合っていけばいいじゃないですか」
押しの強い言葉とは裏腹な、穏やかな優しい瞳。
その目を信じたのか、それとも自ら傷を晒す事も厭わない気持ちに打たれたのか、早崎の鼓動が早くなる。
大きく息を吐き出すと、早崎は須田が差し出していた裏返しのバッジに手を伸ばし、ゆっくりと引き寄せた。
「僕達の間には、タチもネコも無し…で、本当にいいんですね?」
返事は聞かずそのバッジをポケットに入れると、代わりに自分の名刺とペンを取り出した。
最初は、早崎の会社から近い事もあり、閉店間際の須田の店で、自業自得終わりのコーヒーで一息つく所から始まった。
須田の淹れるコーヒーは驚くほど早崎の好みで、広くはないが細かな装飾や並べられた雑貨は見ているだけでも楽しくなって、いつの間にか週の半分は店を訪れるようになっていた。
そのうち、翌日の予定が決まっていなければ閉店後食事に行くようになった。
どちらが選んだ店であっても味も雰囲気も間違いなく好みだった。
好きな味も好きな雰囲気もこれほど合うものかとお互い驚きつつ、何故かそれは当たり前のような気持ちでもあった。
珍しく休みが合うと、須田の運転で遊びに行くようになった。
大きな体に似合わぬ繊細で優しいブレーキングのおかげで一度もシートベルトが体に食い込む事はなく、終始穏やかな会話が途切れる事は無かった。
二人で酒を飲みに行くようにもなった。
酒豪を自負していた須田ではあるが、それを上回る量を飲んでもケロリとしている早崎に驚かされた。
ところが、ケロリとしている様に見えたのは店を出るまでで、帰ろうと外に出た途端ヘラヘラクニャクニャと酔っぱらいらしい動きに変わった。
慌てた須田が自宅に連れていき自分のベッドを譲ったのが、不本意ながら初めての外泊になった。
その日以降、いっそ最初から家で飲む方が気楽だと、須田の部屋で飲み会をする事が増えた。
お気に入りのDVDを持ってきた早崎に、須田は『ホラーだけは勘弁してくれ』と大きな体を丸めて拝み、それを早崎は指を差しながら笑い転げた。
生きてきた中で、一番笑った夜だったかもしれない。
毎日のように連絡を取るようになり、会う為の時間をわざわざ作るようになった。
他人と過ごす時間が、これほど心地よいと初めて知った。
仕事の都合で会えない日が続くと、気持ちが落ち着かなくなった。
一緒にいる時が、何よりも心が安らぐのだと…いつの頃からか気付いた。
そして須田は最初からの約束を守り、早崎に触れてくる事は一切無かった。
週末は須田の部屋で過ごすのが当たり前になった頃、早崎に長期出張の話が出た。
新規クライアントからの委託業務を広島営業所で一括受注する事になり、そのスタッフ研修の講師として派遣される事になったのだ。
期間は三ヶ月。
その他の打ち合わせの関係もあり、研修が終わるまでは東京には一切戻れないのは確定だった。
声が聞きたい…顔が見たい…そばにいたい…
二週間もしないうちに、早崎は落ち着かなくなった。
電話をかけて繋がらないと、不安に押し潰されそうになる。
誰といるのかとイライラし、折り返しの電話が入った途端涙が出そうになる。
これが嫉妬なのかと生まれて初めての感情に戸惑いながらも、それを須田が教えてくれたのだと嬉しくもなった。
それと同時に、一つの思いが胸の中に生まれては消え、生まれては消え…少しずつ、少しずつ大きくなっていった。
タクシーを降りると、早崎は久しぶりに訪れたマンションのエントランスをすり抜けた。
エレベーターを待つのももどかしく、逸る気持ちのままに階段を駆け上がる。
少しずつ膨らんでいた思いは、今にも溢れ出しそうだ。
息が整うのを待つのも惜しく、荒い呼吸のままひたすら玄関チャイムを連打する。
帰りを待っていてくれたらしい人は、確認をする事もなくドアを開けた。
声をかけられる前に、早崎はずっと握りしめていた、あの日のバッジをずいと差し出す。
「君に…触れたいんだ……」
一瞬だけ驚いたように大きく見開かれた須田の瞳はみるみる潤んでいく。
気づけばそのまま部屋の中へと引き込まれ、早崎はドアが閉まると同時に背骨が折れそうなほど強く抱き締められた。
翌週会社に転居届を提出した早崎のポケットには、真新しいディンプルキーが入っていた。
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