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第1話

「どーも」 「…おはよう」  ひとつ屋根の下、明と修一が初めて朝洗面所で顔を合わせた時の挨拶はぎこちないものだった。それも仕方ないといえば仕方ない。お互い子連れ再婚のコブの立場同士で、無邪気な子供ならともかく春休みが明けたらお互い高校一年生になる同い年の男子学生だ。  両親は既に出勤した後で、二人とも口を噤むと気まずい沈黙が続く。 「あー…、朝メシ食う?」  明がおそるおそる尋ねると、修一は「ん」と頷いて台所の方に行った。何となくほっとして、バシャバシャと顔を洗う。  …何しゃべっていいのか、わかんねーわ。  自分をコミュ障だと思ったことはない。学校では、男子とも女子とも普通に会話できる方だ。でも修一には、周りのクラスメートにはない大人びた雰囲気があって、どこか話しづらいところがある。  台所に入ると、修一はしゃがみ込んで収納棚の中を見ていた。テーブルの上には何もないし、炊飯器を開けてみれば空っぽだしで、「余裕なかったもんなあ」と呻く。 「え?」 「ああ、うちだとだいたい朝は前の日に惣菜パンっぽいもん買っとくか、じゃなきゃメシだけ父さんが炊いといて卵かけごはんとかなんだけど。修一…くんはお母さんが作ってくれてた?」 「…別に呼び捨てでいい。同い年なんだし」  探し物は見つかったらしく、フライパンを手に腰を伸ばした修一が振り向いて冷蔵庫を指差した。 「たぶん冷蔵庫にメシ入ってるから、レンジで温めて。ついでに卵あったら四つ出して。俺目玉焼き作るから」 「お?…おう」  そう言われて冷蔵庫を開けると、確かに一定の食材は揃っている。昨日ここに引っ越してきてそれぞれの部屋を片付けている間に、新しく母になった由美が買い出しに行ってくれたらしい。まず卵を修一に手渡してから、一食分ずつパックされているタイプの白飯を二つ出してパッケージの指定時間レンジをセットする。レンジの中がオレンジに光って加熱している間に、修一がガス台にフライパンを乗せて火をつけた。さすがにまだ物の置き場所までは把握していないのだろう、あちこち引き出しや棚を開け閉めして、油や醤油を出している。 「なんか適当な皿出してもらえるか」 「わかった」  食器棚を開けて、大きめの皿を二枚出して食卓に置く。まず二つの目玉焼きを作った修一が皿に移し、それからまた卵を割り入れた。慣れた手つきだ。 「…あと、メシのおかずになる惣菜とか冷蔵庫に入ってるかも」 「探してみるよ」  指示されるままに、再度冷蔵庫の扉を開けて覗き込む。なめたけだとか岩のりだとか、見つけたものを適当に出して並べた。 「こんなもんか。…っと、箸と茶碗な」  会話はほとんどなかったけれど、修一と二人きりで過ごす時間はそんなに居心地の悪いものではなかった。  朝食が終わると修一が片付けと食材や消耗品チェックをやるというので任せて、明は洗濯に取りかかった。昨日は皆引越しで大汗をかいたから、それなりに洗い物が溜まっている。洗濯機を回して、掃除は昨日まとめてやったからいいことにして、台所を覗いてみると、修一はテーブルに向かってすごい勢いでメモ書きしていた。 「買い出しリスト作ってんの?」 「ん。…母さん、昨日一応買い物はしてたけどやっぱけっこう抜けがあるから」 「引越ししたばっかだし仕方ないよな。じゃ、洗濯物干したら一緒に買い物行く?」 「え」  修一が戸惑ったような顔をした。 「一緒に?」 「車ならともかく、歩きじゃそんなに持てないだろ?…あ、一人で行きたいとことかあるんなら別にいーけどさ」 「…いや、そういうわけじゃない」  否定されて、内心でほっとする。無理に兄弟ぶるつもりはないけれど、これから一緒に暮らしていくのならうまくやっていきたかった。  夜七時を回る頃に、両親が揃って帰ってきた。由美が「遅くなってごめんね」と申し訳なさそうな顔をする。 「有給取ったら仕事溜まっちゃって」 「由美さんだけ謝ることはないさ、お互い様だ」  父の忠が「初っ端からすまないね」と修一を見た。 「いえ、俺たちは休みですし、小さい子供でもないですから。大丈夫です。…母さん、一応明と買い出ししてきたから。また何か足りないもんあったら書き出しといて」 「わかった。明くんもありがとう」  笑顔で礼を言われて、なんだかふわふわした気分になる。家の中に女性がいるというのは、八年前に母が急な心臓発作で他界して以来初めてだった。 「や、俺は別に。修一がすげー家事とか何でもできるから、指示通りやってただけっつか」 「…別にすごくはないと思うけど。とりあえず、メシにしようか」  ほんの少し、修一が照れた顔になる。丸一日一緒に過ごす内に、乏しく見える表情の変化がわかるようになってきた。  両親が顔を合わせてふふっと笑う。 「そうだね、いただこう」 「うん、お腹すいたー! 今日のおかずは何?」 「八宝菜」  新しい家族四人で囲んだ食卓は暖かいものだった。 「修一もレパートリーが増えてほんと助かるー」 「つっても、学校が始まったらそんなにできないから」 「ん、わかってる。週末におかずの作り置きするから」 「まあ、弁当とかレトルトとか、外食の日があってもいいんじゃないかな?」 「父さんそれ、ザ・男所帯って感じの発言…」  由美も修一も笑っているのを見て、ひそかに嬉しくなる。  春休みは短い。新しい住まいや家族にどうにか馴染んできたと感じた頃にはもう入学式の当日になっていた。 「悪いな、入学式に行けなくて」  出がけに謝る父に、ニッと笑ってみせる。 「今さらじゃん。三社面談とかはちゃんと来てくれてるんだからさ、気にしないでよ」 「ほんとごめん」  見送ってから廊下を戻ると、修一が制服姿になって部屋から出てきたところだった。詰め襟の学生服はよく見るものだが、ボタンや細かい部分まで自分のものと一緒に見えて首を傾げてしまう。 「そういえば、修一ってどこの学校?」 「…清勝」 「えっ、一緒?」 「明も清勝なのか?」  同じ高校だとは予想していなくて、面食らう。清勝も中堅どころで悪い高校ではないけれど、この辺には三十分以内で通える高校がいくつかある。 「マジか。えーっと、じゃあまあ一緒に行く?」 「…ああ、そうだな」  修一の方も同じ学校だと初めて知ったはずなのに、驚いた様子でもない。動じにくい性格なのかもしれない。  一緒に登校して、さすがにクラスは別々だったので入学式からは別行動になった。  帰宅して、マンションの一階に造られている郵便受けからダイレクトメールだの公共料金の通知書だのを出す。エレベーターに乗り込んで部屋に着いたら中は薄暗くて静かだった。まだ修一は帰ってきていないらしい。  着替えて、ダイニングテーブルに放ってあった郵便物の束をチェックし始めた。中学生の頃から、個人的な手紙以外をざっと仕分けておくのは明の仕事だ。由美宛てのものは別にして、残りを確認していく。郵便局で転送の手続きをしておいたからだろう、以前利用していたクリーニング店や歯科医院からの知らせも混ざっていて、少し懐かしい気分になった。  玄関の方で音がして、ほどなく修一が顔を見せた。 「おかえり」 「ただいま。早かったんだな」 「まあね。そっちのクラスどう?」 「別に…普通」  手元を見られて、由美宛てのダイレクトメールを押しやった。 「これ、お義母さん宛ての」 「ん」 「これ見て今さら気がついたけどさー、また歯医者とか評判いいとこ探しとかないとな。近所の人とか、聞けるといいんだけど」 「ああ…、買い物とかはまだいいんだけどな」  修一も母親のかわりに家の用事をこなす期間がそれなりに長かったせいか、返事に実感がこもっている。 「ま、新しいとこは新しいとこで開発の楽しみ的なもんがあるけどさ。…そういえば前住んでたとこ、駅前が昔ながらの商店街って感じでけっこう好きだったんだ。肉屋のコロッケとか旨かったし」 「あそこのコロッケ旨いよな。カレー味もあって」 「そうそう。……ん?」  どうということのないやり取りに何故だか引っかかるものがあって、まじまじと修一の顔を見た。詳しい住所までは覚えていないけれど、由美と修一が引っ越し前に住んでいたのは明が住んでいたのとはまったく別の区だったはずだ。近所にあった肉屋のコロッケの種類なんて、知っているはずがない。  その前提を今さら思い出したのだろう、修一が「あ」と声を上げて気まずそうな顔になった。 「お前、俺んちの家の方に来たことあるわけ?」 「行った…っていうか」 「だっておかしくね? 何でうちの近所の肉屋なんか入ってんの。っつか、うちの近所って知ってんの」  追求すると、修一はしばらく黙ってからぼそりと「悪い」と呟いた。 「別に責めてるわけじゃないけど、ちょっと納得いかねーかなって」 「その…これ言ったら絶対キモいって引かれると思うんだけど、母さんが男とつき合ってんの知って、相手がどんな奴かって調べてたんだ。職場からこっそり後つけて」 「は?…ストーカー?」 「って言われても否定はしない」  修一は元々口数が少ない方だ。彼なりに一所懸命説明しようとしているのが伝わってきて、明は口を閉じて耳を傾けた。 「俺の父親ってマジどーしよーもない男でさ。金遣い荒くて浮気性で、母さんにも俺にも暴力ふるって。で、よくある話だろうけど外面はいいんだよ。母さんが誰かに相談しても、あんないい旦那さんがそんなことするわけないでしょって言われて、相談したのがバレたら余計に殴られる。あの頃の母さん、表情なくて人形みたいだった」  想像もしていなかった二人の過去に、目を見開いた。明は母親こそ早く亡くしたものの、父の愛情と近所の人の好意を受けてそれなりに幸せに育った方だ。 「…でもまあ、学校の身体検査で俺の腹の痣に気がついてくれた先生がいてさ。そこからカウンセラーに相談って流れになって、時間はかかったけど離婚できたわけ」 「そっか…」 「初め見た時、忠さん…明の親父さんがうちの父親によく似てる気がしたんだよ。仕事できそうで、よく笑ってて。同じことになるなら、絶対反対しようと思ってた」  忠と由美は、二年間の交際を経て再婚を決めたのだと聞いている。まだ中学生だった修一が母親を守ろうと頑張っていた姿を思うと、胸が熱くなってくる。鼻の奥がツンとして、慌てて拳で擦った。 「んじゃまあ、ストーカーやってうちの親父が悪い奴じゃないなってわかってもらえたわけだ?」  敢えて軽い口調を作って尋ねると、修一は照れくさそうに「ん」と頷いた。 「何回か行ってる内に、親父さんと明が一緒に買い物してるとことか見たよ。すげー仲良さそうで、俺と父親とは全然違うって思った」 「そっか」  気づかない間に観察されていたのだと思うと少しだけ居心地悪いけれど、修一にはそれだけの理由があったのだ。今さら文句をつけようとは思わなかった。 「…でも、やっぱごめん。後つけてったりとか、気分よくないよな」 「まあ嬉しくはねーけどさ。…でもすげーよお前」 「何が」 「お母さんが悪い男に引っかからないように、守ったんだろ。偉いと思うけど」  本心からそう言うと、修一は珍しいことに赤くなって俯いてしまった。おまけに何だか唸り声のようなものまで聴こえてきて、「おい大丈夫か」と顔を覗き込む。 「良心の呵責というかなんというか…」 「はあ?」 「…俺、初めはお義父さんが悪い人じゃないってわかったらそれでいいって思ってたんだけど……気がついたら明のこと好きになってた」  小さな小さな声で告げられて、聴き違いかと思った。 「ごめん、何だって?」 「…スルーしてくれてもいいけど」  ぼそっと言った修一が、髪を指でかき回してから自棄になったみたいにまっすぐ明を見る。 「お前が好きだって言ったんだよ」 「あ、聴き違いじゃなく?…さすがにそれは引くんだけど」 「わかってるよ!」 「わー、逆ギレした」  どうしたらいいかわからなくておちゃらけた口調で言うと、修一は一瞬ムッとした顔をして、それから長い溜息をついた。 「おま…、まあまともに取りたくない気持ちはわかるけどさ。俺だって認めるの時間かかったし」 「そうなんだ?」 「そりゃそーだろ。相手男で、母親がつき合ってる人の息子でって」 「そりゃそーか」  …なんだろ、こいつ。可愛いっていうのかな。  自分よりずっと大人びていて、家事もできて、寡黙なところがちょっと格好いいと思っていたのに、ふてくされたみたいに告白されて、表現しがたいような気持ちが湧いてくる。 「…別にキモいとか思ってねーし。ちょっとびっくりはしたけどさ、今後ともフツーにやっていけたらいいかなって」 「ん。俺も、今すぐ恋愛対象として見てほしいとかそこまで考えてるわけじゃないから。…たぶん」 「たぶんって何」 「…今後に期待的な?」  一応期待してはいるんだと思って、ドキンとした。  …何だドキンって、何ときめいてるんだ俺は。  明にはこれまでのところ恋愛経験がない。女子ともしゃべる方だけれど、友達感覚だ。「あの子可愛いな」とアイドルやクラスメイト相手に思ったことはあっても、恋愛対象というのとはちょっと違う。  …人を好きになる瞬間って、どんなんだろうな。  そんなことを言ったらガキっぽいと笑われそうな気がして、別のことを口にする。 「ちなみに、俺のどーゆーとこを好きになったわけ?」 「え…、そうだな。笑顔? あと、いい奴なとこ。一緒に住むようになってすげー話しやすい奴だなって思ったから、それも」 「ふーん」  言われても、自分ではよくわからないポイントだ。 「ただいまー」  玄関から由美の声がした。少しほっとして、迎えに出ていく。 「おかえりなさい」 「明くん、ただいま。学校はどう?」 「ん、まあぼちぼち。通いやすいのはやっぱ助かるかな」 「ならここに引っ越して正解ね。通学も通勤も、不便だとそれだけでストレスだし」 「あ、それわかる気がする」  当たり障りのない話をして、修一と一緒に由美を手伝って夕食の用意をしているうちに忠も帰ってきた。 「沢口って、隣のクラスの沢口くんと関係ある? 従兄弟とか」 「へ?」  昼休み、同級生の女子からそう尋ねられてコロッケパンを咀嚼していた口を止めた。 「あー、修一? 関係あるっていうか、義理の兄弟なんだよね。うち親同士が再婚して」  今どき珍しくもないことだ。隠しておいて変に勘繰られるよりも正直に言ってしまった方が楽だと、淡々と事実を告げると相手の目が丸くなる。 「へえ、そうなんだー。…じゃあさ、一緒に住んでるんだよね?」 「ああ、そりゃまあ」 「じゃ、修一くんのラインIDとかわかるよね? 教えてくれない?」 「え」  当然知ってはいる。買い物だの家事だのの確認でちょこちょこ連絡するのに便利なので、早い段階でお互いID交換はしていた。だが、修一と口をきいたこともなさそうな相手にいきなり連絡先を教えろと言われたら不愉快な気持ちが頭をもたげる。それに、明と区別するためだろうが何だろうが、「修一くん」と急に馴れ馴れしくなったのにもカチンときた。  …ま、俺が直接文句言う筋合いじゃねーけど。  パンの欠片をウーロン茶と一緒に飲み込んで、表情を取り繕った。 「本人に訊いた方がよくない? そーゆーのって一応個人情報だし」 「えー、でも修一くんってちょっと近寄りがたいっていうかー」  俺ならいいのかよ、と内心でツッコミを入れつつ、「あいつ大人っぽいからね」とフォローする。 「でしょ? だからー」 「でもやっぱ、勝手に教えるのってまずいから。後で本人に訊いて、大丈夫だったら教える。それでいい?」 「えー」  唇を尖らせて不服そうにした彼女が、明が折れないのを見てとって「わかった」と頷いた。 「じゃあさじゃあさ、わかったらソッコー送って! これあたしのIDだから」 「え…」  知りたくもないというか、知ったら面倒くさそうな予感がひしひしとしたけれど、スマホを持って待たれるとさすがに断りにくい。仕方がなく、バッグに入れてあったスマホを取り出して連絡先を交換する羽目になった。 「お願いね!」  言いたいことだけ言って席に戻っていった彼女の背中を見送って、食べかけだったコロッケパンに齧りついた。  …やっぱアイツ、モテるんだなー。  思うのはそのことだ。  雰囲気が落ち着いていて大人っぽいというのもあるけれど、修一は180センチに届きそうな長身で、派手さはないけれど整った顔立ちだ。170センチそこそこで、どちらかといえば童顔の明とは全然違う。  放課後になって、校門を出て駅に向かっていたら後ろから小走りの足音がした。 「明!」  呼ばれて振り向くと、修一が追いついてきた。 「スーパー寄るだろ? 一緒に帰ろう」 「あー、うん」  一緒に暮らしていて、修一の顔は既に見慣れているはずなのに、今日は変に意識してしまう。  …あ、こいつの髪、日に透けててさらっさら。  自分の真っ黒なくせっ毛をちょいちょいと引っ張っていると、修一が怪訝そうな顔をする。 「どうかしたか?」 「え、や、別に? そろそろシャンプーの替え買っとかないとと思って」 「あー、それじゃいろいろストックチェックして、土日とかにまとめて買った方がいいかも」  何だか会話がすっかり所帯じみている。忠も由美も新年度になったばかりで忙しいらしく、最近家のことはすっかり息子二人に任されていた。  スーパーに寄って買い物を済ませ、家に着くと一緒に夕食を作ったり洗濯物を取り込んだり風呂の用意をする。すっかりこの生活に馴染んでいた。基本的に夕食を作るのは、修一の役割だ。明も手伝うようになって、少しずつだがレパートリーが増えた。父親と二人暮らしだった時はつい出来合いの惣菜に頼りがちだったから、今の方がずっとバランスのとれた食生活になっている。 「あ、そーだ。今日クラスの女子から、お前のラインID教えてくれって言われたんだ」 「…教えたのか?」 「まさか! 勝手に教えたりしねーって。知らない奴からいきなりライン来たらびびるじゃん?」 「教えてないならいーけど」 「でも、お前がかまわなければ教えるっては言っちゃった」  修一が下ごしらえしていた手を止めて振り向いた。冷たい眼差しに、怒らせてしまったのだと悟る。 「んだよ、だからまだ教えてねーって!」 「……お前さ、俺が言ったこと忘れたわけじゃないよな?」 「言ったこと…って」 「お前が好きだって。…冗談だと思ってる?」 「…忘れてねーし、冗談だとも思ってねーけど…さ」 「じゃあ何。俺がお前のこと好きだってわかってるのに、知りもしねー女子を俺とくっつけたいとか?」  エプロン姿の修一ににじり寄られて、寄られた分下がる。大して広くもない台所で、あっという間に壁に背中がついた。顔の横に手を突かれて、修一の腕に囲われた格好になっているのに気づいてぎょっとする。 「誰もそこまで言ってねーだろ! あの状況だと断りにくかったから妥協したっつか、俺が断る筋合いじゃないし!」 「…ムカつく」  低く言われて、殴られるのかと思ってぎゅっと目を瞑った。頬に濡れた手が触れる。  …え。  柔らかいものが唇に触れて、思わず目を見開くと修一の整った顔が至近距離にある。キスされたのだと認識するよりも早く、ドンと胸を突き飛ばしていた。 「何、すんだよ…!」 「あ…」  突き飛ばされて我に返ったのか、修一も呆然とした顔でその場に突っ立っている。出しっぱなしになっていたシンクの水音に気づいて、修一の横をすり抜けて蛇口を閉めた。  由美が帰宅するまでお互い黙りこくったままだった。  三人の夕食が終わる頃に帰ってきた忠にそっと手招きされて「喧嘩でもしたのか?」と訊かれたけれど、何があったか言えるはずもない。 「別に…」 「そうか」  納得はしていないのだろうが、忠は昔から放っておいてほしい時には放っておいてくれる父親だ。  「家のこと、お前と修一くんに任せっぱなしですまないな。来月に入ったら仕事も一段落するから、ゆっくり話でもしよう」 「…うん」 「腹へったな。俺のおかず残ってる?」  明るい声を出してダイニングに入っていった忠に「あるわよー」と笑った由美が、心配そうな目でちらりと明を見る。  どんな顔をしていいかわからなかった。「予習しないと」と呟いて自分の部屋に行く。ドアを閉めて一人きりになった途端、全身から力が抜けた。ドサッとベッドに倒れこむ。 「あーもー、何なんだよ」  …キスされた。  いきなり実感がこみ上げて、顔が、それから全身がじわじわと熱くなってくる。 「うわ…マジか」  修一の告白を冗談だと捉えていたわけではなかったけれど、本気だと思っていたかと言われると自信がない。どこか他人事みたいに考えていた気がする。でもあんな目つきで迫られて、キスされて、現実感がやっと持てた気がする。  …あいつ、マジで俺のこと好きなんだ。 「って、ファーストキスじゃねーか!」  そのことにも気づいて項垂れる。ベッドに寝転がって項垂れるも何もないけれど、気分的にはだ。  極力修一と顔を合わせないように風呂に行って、また自分の部屋に篭って明日の準備をしていたらノックの音がした。 「……俺だけど」 「………」 「…入ってもいいか?」 「……いいよ」  答えるのに勇気が必要だったけれど何とか声を出すと、躊躇うような間の後でドアが開いて、修一が入ってきた。 「何か用…」 「ごめん!」  入ってドアを閉めるなり、修一ががばっと頭を下げた。意表を突かれて、身長差の関係で普段は見ることの少ない彼のつむじをじっと見る。そのままの姿勢で、修一が言葉を継いだ。 「いきなりキスなんかしてほんとごめん。悪かった」 「…まあ何つーか、俺も無神経なこと言ったみたいだし」  ぼそぼそと言ってみると、つむじが少しだけ揺れた。 「よく考えてみたら、明の対応で普通だよなって思って…俺が勝手にぶち切れてびっくりしたよな、ごめん」  つむじを見せながらひたすら必死で謝られて、何だか肩に入っていた力が抜けた。 「もういいって。何かそのカッコ話しにくいから、普通にしてくれよ。そこ座って」  そう言いながらベッドを指差すと、ようやく頭を上げた修一が決まり悪そうにしつつベッドに腰を下ろす。 「…俺さ、何であんなムカついたのかなって考えてたんだけど」 「うん」 「知らない女子がどうとかじゃなくって、明が俺の言ったこと本気にしてくれてないのかなって…それがちょっとショックだったのかな…って思う」 「あー…、うん。なんかそれはわかったような気がする。俺もなんか、今の今まで現実味なかったっていうか…冗談だと思ってたわけじゃないけど」  「ファーストキスだったし」ともごもご言うと、修一は「マジ?」と食いついてきた。 「マジだけど…バカにすんなよ」 「しないって。俺だってファーストキスだし」 「えっ、マジ!?」  そっちのほうが驚きだと、思わず声が大きくなる。修一は大人っぽいし女子に人気があるし、とっくに一通り経験済みなのだろうと思っていた。 「だって、ずっと誰かとつきあうとかそんな余裕なかったし」 「あ、そっか…」 「中学の時からは、ずっと明が好きだし」 「………」  顔にじわじわ血が昇ってくる。 「あ、もしかしてちょっと俺のこと意識してくれてる?」  修一が嬉しそうだ。デレデレしているというか、クールな彼のこんな顔は初めて見たかもしれない。 「…何でそんな嬉しそうなんだよ」 「意識してもらえなきゃ、スタートラインにも立てないだろ。ゴールまで行けるかどうかはまだわからないけど」 「それは保留な」 「わかった」  修一が真面目な顔で頷いて、「おやすみ」だけ言うと部屋を出ていった。 翌朝、明が教室に入るとさっそく昨日の女子が寄ってきた。 「おはよ! ねえねえ、修一くんのIDはー?」 「わり、あいつあんまラインとか好きじゃないみたいでさ。教えるのやだって」 「えー、そうなんだ。じゃ、仕方ないか」  意外にあっさりと彼女が引き下がる。拍子抜けした。  …その程度のことなんだ?  イラッとした自分に、逆にびっくりする。これは身内感情というやつだろうか。それとも、修一を意識しはじめたせいだろうか。  …って、考えると余計意識しちゃうだろーが!  ゴールに何があるのか、あってほしいのかは、今はまだわからなかった。   終わり

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