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ひとりゐ

    まだ      自分の灯のいろは清純だ――       「少年の夜」 中井英夫   1  空の彼方で、ごおおお、と遠い音がしている。  自転車に乗った郵便配達夫が、家の前の白い砂利道を、小石をはじきながら素通りしてゆく音が聞こえる。  僕は窓を開け、敷き放しの寝床にどさりと横になる。葉月末、だが風通しのよい僕の部屋は、さしこむ陽光は強くとも、それにじかに触れなければ、なんとかしのげる。僕は深く息を吸い、勝手気ままな思索にふける。  とりとめのない考えに胸をじらし、ふと目を開くと、僕はひっそりと土壁にとまるうすばかげろうに気付いた。たしか昨夜も、同じところにいた。夜、外へだすと羽根がしめってとべまい、とその時は放っておいたのだが、これは未だに発つ機会を逃しているらしい。  僕は寝返りをうち、掃き出し窓を開けた。そして彼を手に捕え、外へ出そうと試みた。が、彼はかよわい身体で、それを逃れる。こら、僕は君の時間をこんな場所で無駄にさせたくないからこうしてるんだ、逃げるな。  と、のばした人差し指に、不意に彼はとまった。その軽い重み。僕はたじろぎ、彼はぱっととびたった。  僕は指を眺め、窓を閉め、ひりつく胸を押えた。その時浮かんだ一言が、僕の頭を渦巻く思いでいっぱいにしていた。  「捕えるなんて簡単な事だよ。ただ人さし指を出せばいいだけさ、そうすれば、誰の指であろうと、とまるよ」  その台詞の主、護。  ああ、蒼穹にとんだ彼よ、僕のこの想いを告げよ、それだけの時が君に残されているならば、彼の元まで翔んでゆけ!  僕はじっと空を見つめ、そして身を起こした。  すぐに机に向かい、いつもの薄いノートを本棚から引き抜くと、ぱらぱらとページを広げた。2Hの鉛筆が走り出す。             *      *      *  ――九官鳥が、いきなり騒ぎ出した。屋内の、しかも金属の籠の中で、一体何に驚いたのだろう。彼はそばにあった古いカレンダーを丸め、籠をバシンバシンと思い切り叩いた。しん、と籠が響き終えた時、鳥はようやく黙った。 「長い物に弱いらしいよ、こいつは。蛇かなんかだと思うんだか」  彼は紙の棒を置くと、籠の脇へ膝をついた。  す、と小さな入り口をひきあげて、水箱とエサ箱をとりだす。 「九官鳥って、あまり好きじゃないんだ」  いつもすぐ深く窪む豊頬が、つめたい白いいろをしている。 「買う時には、真っ黒で綺麗な鳥だな、と思ってたんだけど、よくみると派手な鳥だろ、油で羽根が七色にひかって、なんだか毒々しい」  中学の帰り、立ち話が昂じて、家人が留守の彼の家へこんな風にあがり込む事がよくあった。  彼は、鳥をたくさん飼っていた。インコは特に、庭へ小屋をつくってあったけれども、温室めく縁側の隅にも、まだ幼いのや具合の悪いの、仲間となじめないのや色の珍しいのが、小さな籠に入れられて、置かれていた。その一番端に、九官鳥の籠が、並んでいたのだ。  彼はほとんどのエサ箱をとりだすと、立ち上がった。 「あんまり変な言葉、教えるなよ。罰金ものだからな」  彼は仄暗い座敷へ消えた。僕は声で追った。 「そんなにすぐ覚えるの?」 「よく覚えて上手く真似るのもあれば、なかなか覚えない言葉もあるよ。トラックのバック音とか、さっきみたいなとんでもない奇声を発する事もあるし」  彼は、すぐ水箱を満たして戻ってきた。 「ほら、でてこい」  彼は、薄蒼色のインコを、座敷へ放った。羽根が少し切ってあるため、あまりとべずに畳へ落ちる。そうしておいて彼は籠の底をはずした。敷紙をかえ、水箱をつけなおすのだ。次は黄緑のだ。ぱたた、と気まぐれな雨音のような音をたてて、床を走る鳥。そして、もう一羽……。  彼は自在に、鳥を操った。手品師の鮮やかさで指へとまらせ、少し高い場所、たとえばたてかけられた低いテーブルの脚、小卓の上に据えられたTV、仏壇の観音扉のへりやらへ置き、飛ばせ、またわけもなく捕えて、籠の中へ戻す。  最後の鳥に手が触れられる直前、ようやく僕は切り出した。 「ね、どうやったら、指にとまらせる事ができる?」  彼はす、と手をひき、軽く咎めるような視線を振り向け、 「簡単さ。胸の前へ指をだせばいいんだ。後じさりができないから、仕方なく、それにとまるよ」 「本当?」  乾いた爪音をたてて歩いているインコの胸へ、僕はそっと人差し指をさしつけた。 「わ、とまった」  重く、暖かい腹が指に触れた。その爪がきゅっ、と指にくいこむ。くすぐったさに、僕は思わず身じろいだ。慣れず耐え難い、微妙な痛み。血ののぼるような、むずがゆさ。伝わってくる、生のぬくみ。  僕の困惑した表情を見てとると、彼は黙って人さし指をさしだし、鳥をあっさりと引きとって、静かに籠へおさめた。そして、軽く手をはたくと、立ち上がった。 「部屋へ行くかい、それとも……帰るか」  鳥達が、とまり木をとびうつって、かごをしぃんと共鳴させる。 「どうしようか」  僕は、肯定も否定も含まない調子でこたえ、ちら、と上目づかいに彼を見た。あの狭く急な階段を登って、きちんと片付けられた、彼の部屋へ行く。幾度か繰り返された、奇妙な遊技の数々。いつかの様に、服をとりかえてみたりするのだろうか。あの、白く滑らかな足の甲をもう一度、見る事ができる――?  学生服の、上衣を脱いだだけの彼。みずみずしく張った頬、血の色を透かす柔らかい口唇、きらきらと耀く黒目の大きな瞳、日だまりの猫の匂い。――だが、彼の眉は、僕の優柔不断さに少しひそめられ、僕はあわてて視線をそむけ、 「君の部屋へ、行きたい」  彼の顔が、智者猫の微笑に崩れた。――座敷が急に、暗くなる。催眠術にかけられたようにあまく、じん、と身体中が痺れだす。彼の影が大きくゆらめきたゆたう。胸の内で、焦れだすもの。あせがうすく、滲みだす。こんな震える指先で夢現の間、その境界をこわさず、確かめる事ができるだろうか。熱さの裏、身の内をひやりと滑りおちてゆく怖れ。 「行こう」  ――不意に伽の命を囁かれ、頬の色を隠しきれぬまま若い主人にしたがう従僕。森閑とした嵌石の広間を出、誰にも見咎められずに、高い穹窮天井の、暗い廊下を渡る。香気散る横顔を窃み見る事も許されぬ従僕は、だが許されぬ想像を恣ままにしていた。自らの掌を、心さえ知れる程にその胸に押しつけている事が、できるだろうか。その永遠に値する、静謐なひととき。掌の下に、柔らかな鋼の様な筋肉を感じ、それをなぞる――いや、もちろん主は、意のままにこの身を蹂躙するのだ。したたかに鞭をくらい、押し伏される我が身。だがされるままではいない、ふと主の掌を引き寄せ、指の一本も口にせずにはおくまい。するとその隙をついた罰に、またさんざんに打擲され、醜く血さえ吐き、すべてを穢すだろう。それでも、ひたすらにその刻を焦がれてきたのだ。闇の中、くたりと折れる躰、しないたわむ腕が白く浮かぶ様が、見もしない目に灼ついていた。  彼の本当の願い――それはいつもつき従うだけでは飽き足らず、同じ姿で、同じ位置で、ただ二人きりの刻を過ごしたい、というあまりにもだいそれた想いで、それにヒリヒリと憑りつかれて、彼は脅え、息を詰めて、主の気配をずっと窺ってきたのだ。そして、主は、それに応じて、時折にふと寵を匂わせ、その願いを汲むごとく、情を交わすような深いまなざしを向けた。ひととき、そうして酔いしれてきた従僕。そして今、主の後ろへつき、禁じられた神殿の階段へ足をかけ、ふみしめる――。 「マモル」  突然、彼の母親の声がした。ぼくはびくりと足を戻し、固く身体を強張らせて、間を埋めるように早口でしゃべった。 「だいぶ長居をしちゃったみたいだな、そろそろ帰らなきゃ」 「そうかい。じゃ、おくろうか」  階段の途中、やはりぎょっとした様子で見下ろす彼。 「いいよ。いつも君の自転車の後ろへのせてもらうのも悪いし、君の母さんに挨拶したら帰るよ」  僕は手を振り、光射す玄関へ歩み出す。彼は小首を傾げ、降りてくる。 「母さん、もう帰ってきたのかな。音が聞こえなかったけど、何だろう」  立ち止まり、二人で耳を澄す。彼がぽつりと呟いた。 「違う。あれは九官鳥だ」             *      *      *  僕は鉛筆を放り出した。ノートをぴしゃりと閉じ、積みあげた本の上へ放った。  ああ護! 今更こんな事を書きつらねても空しいだけだ。熱に浮かされてこんな戯れ言を脚色まじりに書き起こして、一体何の役にたつ? そう、あの頃は一日欠かさずに一緒に帰った。だが彼は絵の勉強がしたいということを隠してい、進路があかされた刻には、もう遅かった。後など、追えたものではなかった。それでもしばらくは長い電話をかけあったが、今では短い手紙ばかり、彼が近況と時候と社交辞令をないまぜにして面白おかしく書いてよこすのに、僕は近頃の精神状態をそのまま愚痴まじりに書き綴っては送り、――それすら数が減り、待ちわび、めったに会う事もなく……今も気持ちばかりがのびあがり、彼の家の方へ、しきりに思念を送ろうとする。彼、僕の唯一の主。神。  僕はうなだれ、唸り呻き、吐き捨てる様に呟いた。 「痴れ者!」  そのようにして、僕の十六の夏の日は、ついえていった……。   2  厚いガラス扉が開かれ、僕はその暗がりへ踏み込んだ。  いや、半分がガラス張りで、ひどく贅沢な採光をしているその画廊は、暗がりなど持たなかった。弱い日射しも、斜めから十分にさしこんで、日だまりのぬくもりが、僕を包んだ。  《街の画廊を、僕の絵が何枚か飾る次第と相なった。暇なもので受付なんぞやってる。折りあらば遊びにでもこられたし》  汗の沁みない様にそっと開いた彼からの手紙は、そんな擬古文めく口調で綴られ、自室のひだまりの埃の中にへたんと座り込んでいた僕の胸はにわかに鳴りだした。冬休み直前、何をためらう事がある? 街の画廊。場所は知っている。地方にくる玄人画家が小個展を開いたり、趣味の団体がまとめて展示をしたりする公共施設だ。今回の催は特になんとかという賞をとった、とらない程度の県下の高校生の絵画展示で、その方面で高名な彼の学校からももちろん幾人かがでているらしい。僕はすぐさまでかけた。自転車をとばした。  中へ入るのは、はじめてだった。すっきりとモダンな、簡単なパネルで区切っただけの清潔なスペース。緑を帯びた厚い硝子と、うすい斑の偽大理石でこしらえられた、何の香も薫らない、場所。  彼は、いた。反対の入り口の方で友達らしい何人かと、適当に談笑していた。僕に気付くと、手招き、さり気なく彼等を紹介してくれた。どれも気さくな、彼の才能にひかれて集まった連中。絵を何も知らない僕はつい気後れたが、無知な質問にも彼等はあっさりと、だが丁寧に答えてくれた。それで見ると、彼の絵はどれも、かっちりと精密で、どの領域においても、彼らしさを示して完璧と思われた。パステル、コンテ、鉛筆、水彩、油絵……模写は現実物が物足りなく見えるぐらい正確な翳を帯び、抽象はどんな探偵もわけ入ることのできない見事な二次元の密室だった。  彼等と交わす会話の端々にちらりとのぞく彼。他人を放っておけない人柄、はしばしにひらめく才能、何にでも首をつっこむヴァイタリティー、冷淡と思える程の裁断力。彼等の中でも彼はまさしく一個の偶像であり、その心の中に確固とした位置をしめているらしい。彼の洗濯は正しい、彼の価値観は信じられる、彼はいつもまぎれもない彼であり、有りうべき姿でそこにいる。想像を決して裏切らない――  その彼は、かなり途切れず入ってくる客をさばくに結構忙しく、巧みにこなしているそれを邪魔しては悪い、と僕は彼等とみてまわり、時に一人で、またふかっとしたビニル張りの椅子に座り込みして、その場に存した。手持ち無沙汰には慣れてい、そうしている事は何という事もなく、重なりあう影達から独り離れて、僕は居た。そして彼も、影達と混じる事なく、そこに居た。  その日、展示時間が終わると、彼は片付けがある、と言うので僕は先に帰った。というのはその片付けなるものは、意匠を凝らした連中の気のすむまでの装飾なおしであり、僕が口をさしはさむ余地のない事だったからだ。……  最終日、はかなり早く来た。というのは僕も毎日そこへ通った訳ではなく、年末には別の展示が入るという事で、期間そのものが短かったのだ。  日が落ちると、彼等は剥製めく表情になり、いきなり装飾品を剥ぎだした。あっさりと絵ははずされ、手際悪く掃除が始まり……彼は椅子のところで、額をとめつけていた細い針金をゆわく作業をしており、僕はその傍へ座り込むと、同じ事を始めた。難しい仕事ではないが、丁寧にやると時間がかかる。僕は一つはずしおえると吐息をついて顔をあげ、つと中央近くの柱を見上げた。その高いところにまだとめられているのは、どうやら彼のものらしい鉛筆画で、あまり目立たぬ様にかけてあったので、そう気にとめていなかったものだった。というのは、二本の腕のデッサンらしいのだが、彼のものとしてはむしろ凡庸で物足りなく、彼自身も小品として重要視していない様に思われたからだ。僕はふと呟いた。 「あの絵欲しいな」  何気なく言ったつもりが、彼ははっと僕を見、その瞳を一瞬鋭くして僕の瞳をじっ、とのぞき込むようにした。 「本当に?」  彼は眉を寄せたまま念押した。 「だめなら、いいけど」  僕はまた、いつもの臆病さでこたえた。ただ彼の絵が一枚欲しいと思っただけで、それ以上の気持ちは微塵もなく、それが彼の意に少しでもそぐわないというなら、僕は何も望みたくはなかった。 「いいよ、あげる」  彼は面を伏せたまま、やっかいにからんだ針金をほどく手をやすめずに言った。それぎり、何も言わず――僕は自分の分、と思った分だけほどいてしまうと、彼の許を離れ、遠い入口のそばで、堅く絞った雑布で、受付のテーブルをこする事を始めた。彼からは丁度死角で、だが僕からは彼がうかがえる場所だった。僕は無心に、テーブルをこすりつづけた。まるで磨きあげたてんばかりに。 「ええ? だって僕にくれるっていったじゃないか」   突然高い、怒気を含んだ声があたりへ響き、僕をはっと振り向かせた。彼の脇へ立つ小柄な少年が、額をいじる彼をなじっているのだ。 「彼はあまり、あえない人なんだ。君には、別のを描くから」  調子を抑えた低い声。その険しい顔。 「だってさあ、約束したのに……」  まだ何か言いたげな少年。  爪先から全身、僕の血は沸きたち逆流した。  正当な怒りもつ少年、彼にどんな言葉をつくしたらあやまりきれる? そして、それをただ一言でぴしゃりと押さえつけてしまった彼の態度。心臓がぎゅ、とわしづかみにされた様に暴れ、僕はあわてて熱い頬をこすった。もう足踏みでもしだしかねない様にいたたまれず、彼が気付いて持ってきてくれた絵を、ろくに見もしないで受け取ると、僕は逃げるようにしてその場を去った。彼と、何の一言も交わさずに。……  家へ帰っても、すぐに広げる事ができず、まず飾る場所から決めよう、と思い定めた。部屋の中といっても雑然として、ろくにかける場所もないので、結局踊り場の白い壁へかける事にした。  僕は夜半、ようやく絵をひろげ、それに視線をおとした。  細かく皮膚をなぞられた二本の腕。一方は右上からさしのべられ、一方はそれを求めてさしのばされ、その二本は霧のようにかすかな、だが無数の細い線がまとわりついてつながれている。この二本の腕、指先の触れる気配もないが、その届かぬじれったさや切羽詰まった感じがしない。むしろそれは、そこに長く居すぎ、その空間にある事で互いのぬくもりをほのかに伝えあい、静かに穏やかに永遠にそこに有る、といった様子で、――僕は息を詰め、差し伸ばされた腕を見た。指の細長く、爪の丸い手。それはまぎれもない、彼の手だった。僕は絵を裏返し、そこに走り書きされた彼の文字を見た。  《――たまひし御手――》  僕は目を閉じ、深く息を吸った。頭の中に紙のざらつきひとつまでもがよみがえる。彼がどれだけの力をこめて紙へ触れたのか、全てが感じられた。――これだけの以心伝心。誰よりも彼をわからなければならなかったのは僕だったのだ。はるかに優れた者と同じ心を持てるという事。それを託されたのに。――自然に洩れる呟き。 「有難う」  僕はすぐ本棚から例のノートを引き抜くと、階段を駆けおりた。書斎から家人の目を盗んでライターを持ち出し、庭へでる。  僕は焼却炉の上で、ノートを表紙からひきはがした。のりで背を固めてあるそれは、あまり派手な音もたてずに、きれいにはがれる。まず表紙を引き裂いて先に炉へ放り込む。残った中身も、一番下の紙が薄茶に、そして黒に焦げたのを見澄ますと、続けて炉の中へ放り込んだ。  紙束の端が、ちりちりっ、とめくれあがった。その一枚一枚が見事に縮んでゆき、黒い薔薇が花開いた。そして、炎が全てを包み込んだ。そのオレンジ色が僕の頬を焼き、胸を焼き、背中の寒さをよりひきたてる。ちろりとのぞく蒼い火の舌。ゆらめきねじれ、勢いを増す焔。  だがその力も長くは続かず、すぐに白く醒めた灰が散りはじめ、燃え尽きた、一すじの煙を嘆息のように吐いて。  僕は二の腕をつかみ、暗い空を見上げて立ちつくした。喉をかききる鎌のように極々細い三日月。頬の内側を、涙が滑り落ち、胸の底へ落ちて沁みた。それは熱く広がり、これまで絶対に許さなかった言葉となって、口をついた。 「愛している――」

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