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キスと罠。
強い強い雨の夜だった。日下部拓人 が家にやってきたのは。
「雨宿り、させてくれないかな」
すまなそうにそう言った。ふだんあんなに居丈高なのに、別人かと思うように殊勝な、声と言葉と表情だった。ただし、返事を聞かずにするっと入りこんできた態度には、隠しきれない横柄さがにじんでいる。まったく。一瞬でも怯んだ自分を心で諫めた。
「許可してないけど、『日下部』」
「そうだっけ?」
いつもの口調でそう言って、拓人は勝手に取り出したらしいタオルで、濡れた髪を押さえていた。息を吐きながら水滴を拭って、濡れた肩を叩くようにして水滴を取っている。
「思ったより濡れたな。シャワー借りる」
勝手に話を進めようとする男の、行く手を阻むように立ちふさがった。このままではいけない。
「貸さねーから!」
「なんで。光熱費なら払うぜ」
被ったタオルを掴んだまま、目の前の男が肩をすくめる。芝居がかった仕草が似合う。腹が立つほど。
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう?」
とぼけた返事にむかむかが募る。
「ただでさえお前の恋人に睨まれてるのに、シャワーなんか貸せない」
「……なるほど。それで苗字で呼び始めたのか、『大和 』」
「余計な波風は立てたくないから。――つーかお前も空気読んで苗字にしてくれ」
「いやだね。それに付き合ってないからな」
「どっちと?」
「どっちとも」
「お前な、そういういい加減なことしてるから俺にまで被害が及ぶんじゃねーか、大体――」
男同士の痴話げんかに巻き込まれるのなんか冗談じゃない、と。
続ける予定だった口をくちびるでふさがれて、目を開けたまま固まってしまった。硬直する俺からさっと離れて、拓人はそのまま浴室に消えた。ほどなくして水音が聞こえ始めたけど、俺は動けないままだった。
事件が起こったのは先週のことだ。
バイトからの帰りに突っ切っている公園で、拓人が男ふたりと喧嘩――正確には修羅場だったわけだが、友人の性的指向もただれた生活も知らなかった俺の目に、それは喧嘩にしか映らなかった――している場面に出くわした。仲裁に入っただけなら、おそらく問題はなかったのだ。俺が犯した最大の過ち。それは、拓人を名前で呼んだことだった。拓人、と呼んだ俺の声と、大和、と呼んだ拓人の声。このふたつに、やけに整った顔でにらみ合っていた男二人が、一斉に俺に敵意を向けた。
断片的に与えられた情報を後から整理したところ、どうやら拓人はあのふたりと不健全なお付き合いをしていて、名前で呼ばれるのを嫌がる拓人と名前で呼び合っているのだから、俺はきっと三人目に違いないと思われたと、そういう話だ。
恋は盲目とはいうけれど、三人目呼ばわりされるのは、まったく迷惑極まりない。
それにしても。
中学時代、女子にたいへん人気があった拓人が、一度に複数の男と付き合うようになっているとは驚きだった。俺の知らない三年間に、一体何があったっていうんだ。
高校が離れた拓人とは、三年間、一度も連絡を取っていなかった。仲違いしたわけではなく、気づいたらそうなっていた。その間に、何かこう忘れがたい出会いでもあったのかもしれない。
別にいいのだ。それ自体は。
いいんだけど――。
――ピン、ポーン……。
「ひっ」
鳴り響いた電子音にびくつくと、背後の引き戸ががらっと開いた。タオルを巻いただけの格好のまま、玄関に向かおうとする拓人を慌てて引き止める。
「待て待て待て待て……っ!」
なんだよ、と言いたげな顔。
「大丈夫だから、出るから!」
「でも」
「そんな格好で応対なんか絶対させないからな」
初めて気が付いたという顔をした拓人を浴室に押し込んで、目の前に家を知らない筈の男――あるいは男たち――が立っていたらどうしようと怯えながら、意を決して玄関を開けた。
でも心配は杞憂だった。
扉の前には、ゆったりとしたワンピース姿で、上の階に住む同級生が立っていた。ふわふわの髪をひとつに結んで垂らした彼女――久我 さんは、目が合うと恥ずかしそうにはにかんだ。超、かわいい。
「これ、作り過ぎちゃって。よかったら」
おすそ分けだと……! しかも手料理!? 信じられない。
「ありがとう。嬉しい」
拓人の存在も忘れて、コーヒーでも、と薦めようとしたところで、勢いよく引き戸が開く音がした。久我さんの視線が背後に向く。白い頬が赤くなった。まずいと思って慌てて振り返ったけれど、予想に反して、拓人はちゃんと服を着こんでいた。
「こんにちは。かわいい子だな、大和、彼女か?」
よそ行きの顔が言い終わる前に、久我さんが勢いよく手を振った。
「そんな、違います……!」
全力の否定のあと、久我さんは真っ赤な顔で拓人とあいさつを交わして、連絡先まで交換して、ふわふわとした足取りで帰って行ってしまった。
「ああ……」
敗北感に打ちひしがれてへたりこむと、影が落ちて、拓人が顔を覗き込んでいた。
「好きな子だった?」
気づかうように問われて、悔しさを悟られないように気をつけながら、首を振った。
「……まだ、そこまでは」
「そうか」
ほっとしたような声に、顔を上げた。
「っていうか、お前女の子もオッケーなの?」
「まあ……敢えてはいかないな」
よくわからない返事だ。久我さんは例外ということだろうか。
「あ! ていうか、だめだからな、お前の不誠実リストに久我さん入れんなよ」
「不誠実リストって。言っとくけど、合意は取ってるんだからな」
「理由になんねーよ、こじれてるじゃねーか」
「まあなー」
悪びれない声でそう言って、拓人はふっと表情を消した。久我さん対応の残りのような柔らかい表情が、不意に真面目なそれに変わって、不覚にもどきっとしてしまった。
「お前さ、高校のとき彼女いた?」
「……なんで言わなきゃいけないんだよ」
「彼氏は?」
「おまっ……いるわけないだろーが」
「じゃあさ、初めてだった? さっきの」
「さっき……」
記憶を辿って、はっとして両手で口を押さえた。まっすぐ俺を見ていた瞳が、ほんの少し笑った気がしたけど、拓人はそっと立ち上がった。ぱか、と聞きなれない音が聞こえたあと、拓人がぼそっと、「シチューか」と言った。
「今食うか?」
もらったの俺なんだけど。
負け惜しみでしかなかったから、口には出さない。
「ああ。米……あ、でもシチューってあれか。お前パン派?」
「いや、べつにどっちでも」
「俺米派だから炊くよ」
よっ、と勢いをつけて立ち上がると、拓人が、何か言いたそうな顔で俺を見ていた。
「……なに?」
「……いや。俺やっとくから、お前は休んでていいぜ」
「え。なんでだよ、いいよ」
「迷惑料、かな」
「ちゃらになると思ってんの?」
俺の言葉に、「厳しいな」と拓人が笑った。
結局あまえることにして、拓人を待っている間、のんびり風呂に浸からせてもらった。風呂から上がると、カフェみたいなオムライスと、サラダとスープが並んでいた。久我さんの手料理のシチューは、オムライスのソースへと変貌している。
「なに、久我さん来たのか?」
「なんで?」
「すげえ豪華だから」
怪訝な顔をしていた拓人が、理解したというようにうなずいた。
「俺がつくった。……シチューはソースにさせてもらったけどな」
「まじか」
「まあ、食おうぜ」
「いただきます」と口をつけた卵は、絶妙のトロトロ加減で美味しかった。ごはんも、シチューとのバランスを考えたのか、チキンライスではなくガーリックバターライスだった。可愛らしい見た目と違い、味はがつんと男子系。これがまたすごく美味かった。
「お前すごいな」
心からの尊敬をこめて言うと、拓人は得意げな顔をした。その顔が、小憎らしいのにちょっと可愛くて、そんな感想を持ったことが、なんだかひどく悔しかった。
天は二物も三物も……あ、でも致命的な部分があるな。誠実さの欠如。
「……悪かったな、さっき」
何の前触れもなく謝られて、内心を悟られたみたいにぎくっとなった。
「……なにが?」
「ファーストキスなのに、タイミングが悪くて」
脱力してしまう。
「謝るのはそこじゃないだろ」
「そこって?」
「相手だろ、あ、い、て! なんでタイミングなんだよ。つーかまじで返してほし――なっ、なんだよ?」
テーブルの向こうの拓人が身を乗り出してきたのに面食らった。目の前の友人が小さく笑う。
「――返してやろーかと思って」
返すってどう――こいつ……。考えかけてすぐに気がつく。むっとした顔になった筈なのに、拓人は変な顔をした。コンビニの駐車場で、固まって寝ている猫でも見たような顔だった。なんだこいつ。不審に思っていると、拓人はすっと顔を伏せた。黙って食事を進めてから、「ちゃんとするから」とぽつりと言った。
「ちゃんと?」
「――あのふたりのこと」
「ああ、――うん。そうしてくれ」
そうだな、そうするべきだ。大学で顔を合わせると、俺が友人といるときでも大声で拓人がどうのと言い始めるので、風評被害も甚だしかった。収まってくれたら嬉しい。本当に。
それにしても、いきなりこんなことを言い出すとは、どういう風の吹き回しだろう。さっきまで、「つきあっていない」だの「合意」だのと散々な言い草だったのに。そんなに久我さんのことを気に入ったんだろうか。
「しょうがないな。当面は久我さんに黙っててやるよ、お前の悪行」
渋面をつくってそう言うと、「助かる」と、ひどく殊勝な顔で言われて、ちょっとむっとしてしまった。
それから。ちゃんとすると言った言葉通り、風評被害はぴたりと止まった。そうなったのとほぼ同時に、拓人と久我さんが一緒にいるところを、時々見かけるようになった。
もともと、俺は拓人の恋路に無関係だ。だから何の文句もないのに、素知らぬ顔をするようになった拓人の修羅場の相手にも、拓人にも、――これは自分でもおかしいと思っているのだが――久我さんにすら、姿を見かけるとむかむかするようになった。
奪われ損じゃねーか。
……いや、奪われ損って。非モテをこじらせすぎてやいないか、俺。
ため息を吐いた。
べつに夢を見ていたわけではない。だいたい俺は男なので、どちらかというと夢を見せる側だと思うし、けど、ロマンチックの欠片もなく、からかわれただけっていうのはやっぱりちょっと俺のくちびるが可哀想かも。このまま一生あいつのくちびるしか知らないっていう可能性も――いやいやいやいや。縁起でもない想像に、ロックバンドのライブさながら、ぶんぶんと強く頭を振った。
「なんだよその頭の振り方。何があったんだ」
「乗ってただけだ」
「何にだよ、何が聞こえてるんだ、大丈夫か?」
修羅場から解放されて以来、拓人は俺の部屋に入り浸るようになった。久我さんと親密になっているにしてもいないにしても、この部屋を堂々と拠点にしやがっているのは確実だと思う。あー、腹立つ。それなのに文句を言えない自分にもあきれる。くだらないプライドだ。こいつがちょっと気をつかっている風に、来る度に手料理を振る舞ってくれるのも、もやもやの一因なのかもしれなかった。
呆れた顔で拓人が運んだ料理は、あの日とそっくりなオムライスだった。俺がこれを絶賛したので、拓人は今でも、これを時々作ってくれる。バターのいい香りがする。
丁寧にドレープの寄ったオムライスを見つめて、俺はどうしてほしいんだろうかと考えた。
あれを返してもらうなんて物理的に不可能だし、結局、誰かとのキスで上書きするまでは、この調子のままなのかもしれない。……いやだ、いやすぎる。誰かとのキス、か。彼女。黙っていてできるものではないのはさすがに薄々気がついている。けど……だからって紹介してもらうのもなんか……動機がちょっと不純すぎるっていうか……うーん……。
「食欲ないのか?」
心配そうな声に我に返って、俺はぶんぶん首を振った。今度は横に。
「そんなことない。美味そう。いただきます」
気まずさをごまかすように口をつけても、オムライスはやっぱり美味かった。頬が緩むと、ちらりと俺を見た拓人が、嬉しそうな顔をした。胸の中がほんのりと温まった。
しばらく黙々と食事を取っていると、不意に拓人が、「夏フェス行かないか?」と口を開いた。
「誰と? 知らない相手とならやめとく」
「……ふたりで」
ふたり。
少しだけ間があったことで、特別な響きを伴ったような気がしてしまって、俺は少し戸惑った。いやいやいやいや、戸惑うところじゃねーから!
「いいけど。誰かほかにも声掛ける?」
「ふたりで行こうぜ」
今度は強く即答された。心臓が跳ねる。
俺、ちょっと重傷かも……。
こんなろくでもない男を、キスひとつで意識してしまっている。ああ、これだからもてない男は! 内心を悟られたくなくて、俯いたまま、なんでもない声の了承を返した。
目当てだった海外バンドのライブで散々暴れたあと、テントで寝酒を嗜みながら、ライブの感想を熱く熱く拓人と語った。日本にもファンの多い往年のロックバンド。ごつい保護ヘッドフォンを装着しながら飛び跳ねている小さな子どもや、会場の後ろの方で楽しそうに聞いている曾祖父くらいの年齢に見える男性、幅広い年代がいて、会場は大いに盛り上がった。ライブ終盤、全員で床に座ったしんとした状態から、合図を受けて飛び跳ねたときは、泣きそうなくらいの高揚感に支配された。
「あー、楽しかった」
リピート機能がついているみたいに同じことばかりを口にしている俺に、呆れるでもなく拓人がうなずいた。一日中飲んでいるにも関わらず、まったく顔が変わっていない。それなりに酔ってはいるのだろうけど。すました顔を見ていると、ふと、日中、同じようにふたりで来ている女の子と仲良くなれそうだったのに、拓人が追い払ってしまったことを思い出した。
「拓人。お前、久我さんとはどーよ?」
「どうもしてないけど」
「じゃあ、なんで昼間俺の出会いを摘み取ったんだよー」
「……そりゃあ摘むだろ」
どういう断定だ。
「べつに、やめればいいだろ。俺の邪魔くらいでだめになるなら」
「…………」
「なんだよ」
「なんだ、お前妬いてたのか」
むっとした顔。でも反論はないらしい。
こいつはちょっと性格に難があるので、同性の友人は多くない。なるほど。なんだ、そういうことか。
「俺に彼女ができても、お前のことはないがしろにしないから安心しろよ」
上機嫌の告白に、けれども拓人は眉を寄せた。
「ぜんっぜん嬉しくねーな」
もうだだっ子にしか見えなくてゲラゲラ笑っていると、手に持っていたビール缶を引ったくられた。ビール缶の行方を追って顔を動かすと、被さってきた影が落ちた。他人事みたいだった笑い声を、はっきりとくちびるでふさがれる。
目を開けたままきょとんとしていると、拓人はすぐに顔を離した。至近距離で動きを止めて、拓人がぎゅっと眉を寄せた。
「……返したからな」
返し……ああ、そういえば。
「……ありがとう」
うっかり礼を言ってしまって、すぐにおかしいと思い直す。
「いやありがとうって! 返すってなんだよおかし――」
「それでさ、あらためて、お前のファーストキスをくれない?」
「――――」
「だめ?」
切なげな瞳で問われて、心臓が大きくどくんと鳴った。誰に対しても感じたことのない、じりじりとしたあまさを感じた。なんだ――これ。
だめに決まってるだろう、と思うのに。――動けない。
指先がそっとくちびるをなぞった。切ない声が、「目、閉じて」と囁いて、催眠術を掛けられる売り出し中のタレントみたいに、俺は、素直にまぶたを閉じてしまった。(終)
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