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第2話 トイレのいけない5分間

「うわっ!」 白い壁面に腕がぶつかり、僕は慌てて体勢を立て直す。 同時にすねの辺りを、便座にしたたかに打ち付けた。 「ま、ま、待ってください! 僕は今、トイレになんて用はありません!」 同じ部署の先輩であり、恋人でもある氷室先輩が、口元に悪い笑みを浮かべる。 「お前になくても俺にはあんの」 先輩の長い指が伸びてきて、僕の着ているシャツのボタンを上から順になぞった。 「トイレの個室は……そういうことする場所じゃありませんからね?」 「知ってる、出すところだろ?」 (えーと、何をです!?) 不吉な音を響かせ、先輩の後ろで個室のドアが閉まった――。 * どうして僕が、会社でこんなことになっているのか。 事の発端は15分前、僕らの勤務する制作部のフロアでのこと。 「は? なんで俺がそっちのチームを手伝わなきゃなんないんですか!」 コーヒーを入れてデスクに戻ると、氷室先輩がうちのチームのリーダーにつかまっていた。 時計は定時の5分前。 氷室先輩はすでに帰る気満々の格好をしている。 (ここでつかまったら残業確定だもんね。先輩、昨日帰れてないから今日は早く帰るって言ってたのに……) 「お前んとこのリーダーが、氷室を貸すって言ってくれてんだよ」 「そんなの俺は聞いてません!」 少し離れた僕の席からでも、激しい鍔迫り合いが見て取れた。 と、話があらぬ方向に進みだす。 「……分かりました。代わりに5分だけ楠木貸してください」 (え、いま楠木って言った?) 自分の名前が聞こえて反射的に背筋を伸ばすと、こっちを見た先輩と目が合った。 先輩の目元にはくっきりとクマができていて、なんというか鬼気迫るものがある。 (5分……っていうと? もしかして!?) 普段から「三大欲求が満たされないと働けない」と豪語している先輩が、俺に求めるものはその中の1つで……。 いやいや、ここは会社だぞ? そんなわけない。けど、先輩なら……。 身の危険を感じた僕は、荷物を持って席を立つ。 ところが。 「くーすーのーきー!!」 上司からドスの利いた声で呼び止められ、僕は強ばった顔で振り返った。 * 胸を押され、僕は尻から便器のふたの上に落ちる。 「っと!」 驚いているうちに、先輩がいきなり僕のひざの上に跨がってきた。 彼の両手が、僕の顔を挟み込む。 思わず視線が横に逃げた。 けれどこの体勢では、逃げるどころか身動きを取ることすらできなかった。 (――あっ!) 突然、噛みつくようなキスが降ってくる。 下唇を食まれ、歯を立てて引っ張られた。 「んんっ!」 体の関係はありつつも、僕ら今までキスなんかしたことなかったのに。 それからちゅ、ちゅ、と音をたてて繰り返されるキス。 初めは強引だったのに、唇がすっかり濡れた頃には甘えるようなキスに変わっていた。 「なんなんですか……これ……」 乱れた呼吸の合間に問いかけると、先輩がふうっと長く息をつく。 「俺の三大欲求。今は食欲と睡眠欲と、お前だから」 「え……」 「これで結構満たされた。働こ」 先輩がすっとひざの上からどいてくれる。 「……どうした? 行くぞ?」 「えっと、ちょっと……」 思わぬ甘い言葉にドキドキしてしまって、すぐには腰が持ち上がらなかった。 (マズい、これは……僕の方が、先輩がほしいです……) けれども残念ながら、そんなことを口に出せる僕ではなくて。 (残業終わったら絶対、寮の部屋で先輩のこと押し倒そう) 大胆な決意を胸に、僕は仕事の待つフロアに戻った。

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