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第1話

もし、思想と愛とがわれらを見捨てることあらば、われらその日より、ミューズの神との交りを絶たん。――ワーズワース「空想の作用」 美しきものはとこしえに歓びである。 そのめでたさはいや増すばかり、それが無に帰することは絶えてなく、常に吾らがため寝間を静粛に保ち 眠りをば佳き夢と健康と安息もて満たしやまない。――キーツ『エデュミオン』   深夜に及んだ会議の末にようやく解放されて、俺は喫煙所に逃げ込んだ。この学校にたったひとつのアジール。同じく疲労を肩に蓄積させた愛煙家の教師たちが 集うこの避難場所で俺は一言も口をきかない。はじめのうちこそ世間話を持ちかけてきた人間もいたが、俺が延々と観賞魚の話をするのに気圧されて今では誰ひ とり話しかけることはない。  なにも観賞魚に詳しいというわけではない。同居人が好んでいるというだけのことで、俺はもっぱら観るだけだ。名前もいちいち覚えていないし、覚えるつもりもなかった。名前よりも大事なことがある――そう彼は云っていたから。   俺にはきっと観賞魚の美しさすら分かっていない。鮮やかな流線型の体や、いくつものそれらが流麗に泳ぎ回る姿は美しいというよりも生という衝撃をもって俺 に伝わってくるのだった。こんなに小さな魚たちすらも生きているのだという事実は俺におののきを与えてやまない。それは俺が常日ごろ死んだように生きてい るからに他ならなかった。  たとえばこれがホルマリン漬けの植物群だったとしたら俺は心安んじただろうか? おそらくはせわしなさにささくれ立っ た俺の心はつかの間の平安を手に入れただろう。一様に永遠の姿を保ったきのこや薬草の壜の群れがずらりと並んださまは一種の快感すらもたらすかもしれな い。  あるいは剥製の鳥の群れだとしたら。どこかでそうした剥製群を観た記憶があるが、あれはあまりよろしくなかった。つぶらな瞳が己の身の悲惨 を訴えているようで耐えがたかったのだった。かといって俺は善人でもなければ偽善者でもないし、むしろ骨格標本であればここまで心を乱されることもなかっ たろうと思ったものだった。  こうして思考するうちに脳内をホルマリン漬けの植物や鳥の剥製、骨格標本が埋め尽くしてゆく。ヴンダーカンマーと化した脳内を一望し、俺は紫煙を吐き出した。死を志向する俺が求めているのはこういう部屋なのだ。さっそく明日から改修作業に取りかかろう。  ようやく明日に一縷の希望を見出したところで、俺は喫煙所をあとにした。現実逃避だと分かってはいても俺の夢想癖は今にはじまったことではない。己の夢想に溺れ死ぬのが似合いなのだろう。   それに対して同居人はリアリストだったし、なにより理論派だった。ワーズワースを研究していながらも彼は紅茶が好きでコーヒーが嫌い、ということにすら理 論を持ち出すような人間なのだ。俺の感傷や夢想など意に介さず、あるときは大学で教鞭を執り、それ以外は日々山積する資料の山に囲まれながら地下室に籠 もっている。 そんなときの彼の夕食はたいてい自作のサンドイッチだった。イギリスに留学していた彼の作るサンドイッチはなかなか絶品で、パンにも こだわりがあるそうだが詳しいことは覚えていない。複数の種類のチーズは冷蔵庫に常備されているし、壜詰めのチャツネやピクルスも欠かせないらしい。理詰 めの頭を休ませるのに料理は適役だと語っていたのをいいことに俺は調理全般を彼に一任していた。 帰路、寒空の下を電車に揺られながら俺は彼を思 う。近ごろは寝ていないようだったから今日あたりには限界が来ているにちがいない。大学の非常勤講師というのは因果な商売だ。ひとりで暮らすのも一苦労と いうことで、家賃を折半しながら俺たちはひとつの家で暮らしているのだった。 「ただいま、兄さん」  返事はない。モンクストラップの革靴 を脱ぎ、ネクタイを緩めながらリビングへと向かう。そこに兄の姿はない。地下だろうとあたりをつけて、俺はテーブルに用意されたサンドイッチを尻目に階段 を降りた。ウォールナットの暗い色彩の扉をノックすれども返事はない。ドアノブに手を掛ければすんなりと開いた。一歩踏み出したところで室内の惨状が目に 飛び込んできた。  壁は一面水槽の群れに覆われている。まるで水族館のただ中にいるような風情ではあったが、それが日常の風景となってしまえばどうということはない。いくつもの水槽が配置された壁面を観賞魚たちが泳いでいる。  冬の温度に支配された部屋の中で常春の海を泳ぐ彼らはやはり生の使者だった。色鮮やかな体を水にくぐらせて、春の歓喜を歌う彼らが俺にはいささかうとましい。   室内の奥まったところにデスクというよりは執務机と呼ぶにふさわしい、いかめしい顔をしたものが鎮座し、その上に積まれた資料類が床にぶちまけられてい る。おそらく机の上の領土紛争に敗れた結果だろう。床に散乱した本や紙類は英字で埋め尽くされ、蓋の開いたインク壜からブルーブラックの液体が染みだして いた。  その領主はといえば机に突っ伏すようにして眠っていた。英国人の母から受け継いだブロンドの髪が暗い色調の机に映える。冬だというのに空 調の類いは一切なく、しんと冷え切った部屋で眠る兄はさながら棺桶の中で越冬する吸血鬼を思わせた。その方が落ち着くからと、自宅でもスーツ姿の彼は抜け 目がないように見えて―― 「寝顔はこんなに無防備なのにな。兄さん、風邪を引きますよ」  机の端に追いやられ、今にも領土から亡命しそうなティーカップの温度はややぬくもりを残している。中身はいつもの夏摘みのダージリンだろう。マスカテルフレーバーと呼ばれるらしい香りがかぐわしい。 「ん……」 「起きないとこのサンドイッチをここで食います」 「……! やめろ!」  自室に食べものを持ち込まれるのを極端に嫌う彼は不本意にも冬眠から目覚めた。即座に目に飛び込んできた部屋の惨状に、片手で秀麗な顔を覆う。その白い手から漏れ出る吐息すら貴公子の憂愁を物語る旋律となって俺の耳に響いた。 「今すぐ出て行け」 「嫌です」 「公春(こうしゅん)、聞き分けないのなら今後この部屋への立ち入りを一切禁ずる」 「兄さん、よく見てください。俺はサンドイッチなんて持ってません」  音読みで俺の名を呼ぶのは兄の癖だった。正しくは「きみはる」だが、今さら訂正しようとも思わない。唯一無二の呼び名をこの世でもっとも大切なひとが呼んでくれるのならそれでいい。 「俺をたばかるなど……」 「出来の悪いあなたの弟としてはなかなか上出来でしょう?」 「お前などFで充分だ」   寝起きの兄は機嫌が悪い。普段は理詰めの人間が感情的になる瞬間はごく限られているが、彼の場合入眠前と寝起きはたいてい理性もぐずぐずになってしまうの だった。俺はそのわずかなひとときを見逃さない。三年前の火事のあと、流れた月日が彼の心にわずかな灯火を灯したのだ。それは闇のなかで消え入りそうなか すかな光だった。  三年前の火事で俺たちは両親を失った。ちょうど生まれ育ったこの家の改修工事中のことで、その間俺たちは賃貸のマンションに身 を置いていたのだ。十二月の深夜に隣の部屋から火が出たとき、俺たち兄弟は偶然にも外出先にいて死をまぬがれた。それが仕事上の都合ならばまだ救いようも あったのだろうが、俺たちは外泊先のホテルで互いを貪りあっていたのだ。  罪の意識は俺たちの体の深奥に染みこんでいった。兄は感情を屠り去り、俺は仕事着にした喪服のスーツを紫煙に染める。そして罪の意識を分かち合うように肌を重ね合うのだった。  パトスを失った兄を抱くのはさながら人形を抱くに等しかった。タナトスの気配をまといつかせた俺たちの交合は、他者の目から見れば奇怪に見えたことだろう。兄の虚ろな瞳に恍惚の影はよぎることもなく、オーガズムはすなわち死を意味した。…… 「何を考えている。夕御飯がまだなら上で食べてくるといい」   しばらく記憶の海を漂泊していた俺に声をかけた兄は、床に散乱した書籍を拾い集めているところだった。どうやら本の類いはインクの浸食をまぬがれたらしい が、紙類はそうはいかないようだ。手にした備品整理ノートに英字を走り書きしていく様子から察するに、被害をこうむった資料はそれなりの数に上るのだろ う。 「兄さん夕食は」 「食べていない」 「俺の分だけ作ったってしょうがないでしょう。遅い晩餐にしませんか」 「紅茶があればそれでいい」  兄が食事をおざなりにするのはよくあることで、今さらとがめ立てしたところで致し方ない。かたくななところがあるのは兄の性分でもあったし、俺なりに引き際はわきまえていた。 ず いぶん前に紅茶とともにマドレーヌを差し入れしようとしたことがあった。その際に部屋に食べものを持ち込むなと叱られて以来、差し入れは置き手紙とともに そっとダイニングテーブルの上に置いておくのが俺たちの暗黙の了解になっている。それを兄が食べるかどうかはまた別問題ではあったが。 「紅茶はもう冷めてますよ。淹れなおしましょうか」 「ああ」   ノートに万年筆を走らせつつ兄が応じたので、俺はようやく寒々とした部屋をあとにした。階段を上りダイニングに辿りつくとティーカップ選びからはじめなく てはならない。英国かぶれの兄のティーカップはそのほとんどがウェッジウッドのものだった。普段使いにはウェッジウッドの伝統文様・フロレンティーンの ティーカップと決まっているが、たまには気分を変えるのも悪くはないだろう。  選び出したのはクリーム色のボディカラーにダークブルーのラインが上品なコーヌコピア。名の由来はギリシャ神話に登場する豊饒のシンボルだという。食に関心がないのかと思いきや、食器にこだわる兄の審美眼は磨き抜かれている。  茶葉の香りをそこなわぬよう、定められた手順で紅茶を蒸らす。地下室はあの有様だ。とてもダージリンの馥郁とした香りを楽しめる環境ではない。一日の終わりのティータイムに誘おうと地下へ降りると、兄は紙面上の備品整理を終えたようだった。 「ダイニングでお茶にしませんか。そんなところにいては落ち着かないでしょう」  兄はしぶしぶといった様子で俺のあとについてきた。振り返ってみれば幾分皺の寄った漆黒のスーツが息苦しそうに彼を包んでいる。   部屋にいるというのに紫紺のネクタイを律儀に締めているところが彼らしいが、そのネクタイを丁重な手つきで緩めるついでに白百合の花にも似た兄の両手を 縛ってしまいたい。紫紺のリボンで結べば百合の花束、ほっそりとした手の甲に続く長い指先を祈りの形に組めば百合のつぼみが春を待つ。  しかしそ れもまた夢想にすぎなかった。俺は夢ばかり見ている。どこか遠い国の旅人のような顔をして教師生活を送るのも楽ではないのだが、同僚に云わせれば責任逃れ の現実逃避でしかないらしい。ごもっともなことだ。それでも虚ろな夢ばかりふくらませていられるうちは、せいぜい甘い夢に耽ろうというのが俺の信条だっ た。  そんな甘い夢の世界で俺たちはまどろむ。水槽に囲まれた地下室でワーズワースを耽読する兄もまた夢の世界の住人だった。本人からはとうてい認可してもらえそうにない愚昧な妄想だが、甘美な夢のなかで兄はひときわ美しく見えた。   現にテーブル越しに彼と向き合っていると、日本人の父の血を受け継いだ自分とは印象が大きく異なって見える。品よく整った鼻梁がまず目につき、黒目がちな 切れ長の瞳は知的な雰囲気を漂わせつつも色気を醸し出している。ブロンドの髪は淡雪に見まがう美しさを放ち、白磁にも似た肌と相まって外つ国の美姫を思わ せた。 「黙って眺めていないで紅茶を淹れろ」  砂時計の砂が落ちたのを確認し、にべもなく云い放った兄に応じてティーカップに紅茶を注 ぐ。たちまち香り立つマスカテルフレーバーの香りに心もほぐれる。無粋な話はよしにして、今はこのうたかたの夢に溺れよう。火事によってたちまち命奪われ た両親のように、俺たちもまた明日をも知れぬ身なのだから。  そうして炎に包まれた兄を俺は幻視した。炎のなかで人形が溶けゆくように兄の肌は熱に溶け、ほの白い液体となって俺の指を濡らした。…… 「公春……」 「なんでしょう」 「眠い……なぜだ」   チェダーチーズとトマトのサンドイッチに伸ばしかけた手を止めて俺は兄を見た。伏せられた睫に憂愁が滲んでいるかと思えばそれは睡魔の三叉槍の影だったら しい。その陰影は水に溶かしたインクのように模様を描きながら広がっていく。兄の指先からティーカップがこぼれ落ちそうになっているのに気づき、俺はあわ ててカップをつまみ上げた。 「なぜと云われましても。兄さんはここのところ寝ていませんでしたからね」 「まだ……眠るわけには……。復旧作業と翻刻が残って……」 「部屋は俺が片づけておきますから兄さんは寝てください」 「だめだ、復旧するまで部屋には立ち入るな……」  兄はどこかあの地下室を自分の体の一部だと思っている節がある。整わない部屋への闖入はあたかも彼の体に狼藉をはたらくかのように思われて、俺はぞくりとした。それは整然とした彼愛用の冷蔵庫の中を荒らしてしまうのと変わらぬぐらい罪深いことに違いない。  空疎な妄想を持て余しているとふらりと兄の体が傾いだ。危ういところで兄を抱き上げ、二階へと階段を昇る。成人男性の体を抱きかかえるのは楽ではないが、兄の体はおそろしく軽い。あるいは白鳥を抱けばこのような心地なのだろうか。  共同寝室へと向かうと一幅の絵画が俺の目に飛び込んでくる。ワッツの「希望」の複製画だった。寝室に飾るにはあまりに陰鬱な絵ではあったが、両親の死ののちの俺たっての願いを兄は聞き届けてくれた。  壁面に飾られた「希望」の下で眠る俺たちを絵の中の女神はいかに思し召しなのか知る由もないが、この絵を頭上に戴いて眠る兄は化粧を施された死者のように美しく見えるのだった。この絵に愛されたが最後、命まで奪われてしまうような不穏さをたたえているのがまた良い。  兄をベッドに横たえ、アンティークのランプだけをつける。白皙の美貌が橙色に染められて、俺はやはり炎の中の兄を夢想せずにはいられなかった。炎のなかで蝋のようにしたたる兄の体を抱きながら、俺は醜く焼け焦げていくのだろう。…… 「ねえ兄さん、俺はやっぱり教師なんて向いてませんよ。あまりに非道徳だ」   兄のネクタイをゆるめながら俺は歌うようにつぶやいた。やがてほどいたネクタイで兄の両手首を結わえるも、彼が目を覚ます気配はない。百合の花束となった 両手は眠れる若き学者にふさわしく気品と憂いを帯びている。白鳥のような首筋にキスを落として強く吸えば、ようやく兄が目覚めた。 「公春……」  澄んだ瞳に睨みつけられても俺は動じない。首筋に顔を埋めたままシャツの襟をはだけて鎖骨に吸いつけば、びくりと兄の体が跳ねた。   そのまま雪崩れこむように俺たちはまぐわった。ランプの光を受けた兄の肌は熱に熟れ、「希望」の女神がいざなう哀しみの園で歓を交わせば血の交わりもいよ いよ濃く、絶頂に至れば白鳥(しらとり)の羽が舞い落ちて、白く甘く染め上げられた羽の地獄に堕ちるかと思われた。……  享楽の果てに俺たちは白 き岸辺へと打ち上げられた。つまりそれはシーツと衣類が散乱するベッドの上だった。半ばシーツを纏った兄はこちらに背を向けている。薄い布地の上に肩甲骨 が影を落としている。その陰影をじっと見つめていると、彼が呼吸をするたびにわずかに影が動くのだった。やはりこのひとも生きているのだ。 「I love youしか云えないなんて英語は不自由ですね」  驚きをごまかすように口走るも、そこに含有された意味はないに等しい。だが口を突いて出た言葉には無意識が凝縮されるものだ。言葉を発したあとにしまったと気づいてももう遅かった。 「ならばなんと云う」  返ってきた言葉の響きには退屈の意。やはり俺は不出来なのだ。ここでFly me to the moonなどと口ずさめばたちまち兄は機嫌を損ねるに違いない。だがご機嫌取りはほどほどに、だ。 「深海の底、燃えたぎる炎のなかで骨が溶けるまであなたを抱いていたい」 「戯れ言に貸してやる耳はないぞ」 「でしたら云い換えましょう……おやすみなさい、兄さん」  それがこの兄にとっての最大の愛情表現を示した言葉であることを俺は知っている。誰にでも云えるような言葉であって、他の誰にも云えない言葉。仕事に追われて眠れないのでなく、眠りに落ちるのを恐れるがゆえに寝られずにいる兄への贈りもの。 「おやすみ、公……」  返ってきた言葉は俺と分かち合った睡魔に呑まれた。床にずり落ちた羽布団を引き上げて、俺はベッドサイドのランプを消した。炎の影は失せて、部屋は闇に包まれた。

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