1 / 1

第1話

あなたはもう少し外に出なきゃ。 アパートの主人はオレンジのように溌剌とした声でそう言った。彼が両手で抱えたカゴの一番上に、ちょうど太陽の色のようなオレンジが載っていたのだ。料理を作るのは好きだけれど掃除はそれほどではないねえ。初めて会ったとき彼はやはりはっきりとそう言っていた。元がそういう物言いの人なのだろう。言われてみれば陽の光の届かない廊下の隅や、簡潔だが趣味の良い階段の手すりにいつも埃が積もって、さほど古くないはずのアパートはいつも古ぼけた匂いと、彼の作る料理の匂いで満ちていた。  彼から、貴方、と呼びかけられるといつも一瞬止まって自分のことかどうか考える。このアパートの住人の大抵は、貴方、と呼ばれていたからだ。しかしそれは、彼が店子のことを名前を覚えないほど蔑ろにしているというわけではなく、ただ単に人の名前を覚えるのが苦手なだけなのだった。事実、彼は人の顔と誕生日を覚えるのは得意で、誰かしらの誕生日にはいつも得意のドライフルーツがたっぷり入ったケーキを焼いてふるまう。甘い実がたっぷり入って膨らんだそれは、まるで彼そのもののようだった。いつも質素だが清潔なエプロンを腰に巻き、髪を短く刈り上げ、歳をとっても滑らかな頬にいつも笑みを絶やさない。  アパートの出入り口でちょうど彼と出会いそのようなことを言われた後、散歩に行くなら公園の方はどうだい、と付け加えられた。この時期は新生えの緑が美しいよ、この時間なら人も少ないからきっとゆっくり散策が出来る。独り言のように彼はそう呟く。両手に抱えたカゴの中にはたくさんの食材が詰まっている。塩の塊やパン、香草に油紙にくるまれた何かの肉、そしてその一番上にオレンジ。彼はこめかみにうっすらと汗を浮かべている。それを横目で見ながら、軽く頭を下げてすれ違った。彼は一瞬表情を曇らせたが、またすぐいつもの笑顔になって、気をつけて、とだけ言った。  この街で暮らし始めて数ヶ月経った。  さほど大きな街ではないが専修学校がひとつあって、街には同じ年頃の学生が多くいた。件のアパートの住人も大半が学生で、ここなら紛れ込むことが出来る、とただそれだけの理由で暮らすことを決めたのだった。だからこの街に何があるのか、食べ物が美味しい店だとか、どこへ行けば生活雑貨がそろっているところだとか、そういうことは何一つ知らない。街の中央にある公園も、横を通ったことはあったが足を踏み入れようと思ったことは一度もなかった。  どこに行くあてがあるわけでもなく、ただ一日中部屋の中に閉じこもっていたらあの大家に何を言われるか分からないので出てきただけだった。彼は悪い人間でないが、時折無意識に善意を押し付けようとすることがあった。たとえば、一日中部屋に閉じこもっている人間に陽に当たらなければならないと告げてみるとか。  アパートを出てしばらくはあてどもなく歩いていたが、大家のこめかみに滲んだ汗だとかあの色鮮やかなオレンジを思い、公園へ足を運んでみようかと考えた。彼の善意を押し付けがましく感じるのは、こちらにやましい気持ちがあるからだ。だがしかし彼はこちらが干渉して欲しくないと遠まわしな態度で示しても気がつくことは一度もなかった。  アパートからしばらく歩いたところに公園はある。  中央には滑らかに磨き上げられた石に囲まれた噴水があって、灰色の羽の鳥が数羽、水辺でくつろいでいる。歩道には白っぽいざらざらしたブロックが敷かれていて、膝の高さほどの白い柵に囲まれた芝生は、想像していたよりもずっと広く青々としていた。親子が芝生の上でピクニックを楽しんでいたり、学生らしき人間がベンチに座って写生をしたり、遠くの方では何かゲームに興じているらしき団体もあった。絵に描いたような幸せな風景を横目で見ながら、公園の奥へと歩いていく。しばらく歩いて針葉樹がささやかな並木道を抜けると、ひとつのモニュメントが見えた。  木から枯れ落ちた葉が辺りにわずかに積もっただけの、それはまるで人々から忘れられたような存在だった。歩道はそこに突き当たる。周りはベンチが点在するだけのわずかな広場になっていたが、舗装はされておらず土の地面がむき出しになっていた。その中央奥にそれはひっそりと建てられている。背の高さよりわずか高い程度で、両手を広げた幅よりいくらか小さいものだった。  近づき見上げると、四桁の数字と数行の言葉が書かれている。抽象詩のようだったが、見るものに何かしらの意味を与えるための言葉だというのはすぐに分かった。  しばらくの間、まるで墓石のようなそれを見上げていると、ふいにどこからか視線を感じた。辺りに視線を巡らせると、広場の奥まったところにあるベンチに一人の老人が座っていた。キャメル色の帽子を深く被り、手に飴色の杖を持っている。気がつかなかったが、ずっとそこにいたのだろうか。もしかすると彼もまたこれを見ていたのかもしれない。年の頃からすると、若い頃に大戦を経験しているくらいだ。何かしら特別な思いがあったとしても不思議ではない。  遠目からはにごった灰色にしか見えない目をした老人と視線が合う。老人は何かを確かめるように瞬きを繰り返し、じっとこちらを見返してくる。深いしわの刻まれた顔は無表情で、まるで品定めされているような気分になった。  もしかすると彼は自分のことを知っているかもしれない。昔に自分の顔を見たことがある誰かだろうか。見つめてくる目から咄嗟に視線をそらした。そして、元来た道に足早に向かう。

ともだちにシェアしよう!