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第1話

変わり映えのしない夜空の下、慣れつつある道程を辿って。馴染みきった石段を登りきり、あって当然の古びた扉を開ければ。 「おかえり、すぐご飯にするわね」 物音を聞きつけた母親の声が桜川を迎える、いつもと同じように。 「ああ」 最低限の句で構成される応えもまた、随分と年期の入ったものだ。 自室の引き戸を開け、鞄を机の上に預けた桜川知次の表情に動きはない。 それは、夜気のひんやりした香りから不意に弱く立ち上る他人の部屋の匂いを感じ取っても、変わらない。 仏頂面が板についた桜川は、壁を伝う桟に作り付けたS字フックに下げたハンガーを手に取った。学校指定のコートと制服を脱ぎ、部屋着を身に着ける。 畳上に放り出された黒い着衣は無造作な所作で針金のハンガーへ収まり、艶のない銅製フックに吊るされた。 整然とした木目の壁、その真ん中で着こなれたコートと制服が微かに揺れる。 極小さな動を追う桜川の目は、到って平ら。それもまた、彼の日常に組み込まれた不変の一つだ。 同世代の者に比べるとやや厚みのある大きな手の右側が、常に同じ位置をキープする肩の逆位置を掴み、ぐう、と内に引き入れる。 僅かに張った筋を伸ばすその行為は、帰宅した桜川が無意識下で繰り返している、ずっと。 飽きも、目新しささえもない生活習慣、そこに些細な"異物"が混ざったのはいつからか。桜川自身も明確と答えられない。 スパンは十日前後。 血潮を不用意に駆けさせ、体液を使い捨てる。 殺伐とまではいかないが色彩の欠如した、セックス。 "異物"は、桜川の中で習慣の兆しを帯びつつあった。 その視界の端に掠め通るものが群集の色彩だけでなくなったのも、黒に近い彼の瞳が化繊混じりの布上に刻まれた極僅かな変化を拾い上げたのも、それ程遠い日の事ではない。 ただ制服の背布を縦に走る細いテカリを視線でなぞるようになったのは極最近の事だ。 定かにならない日、交わり合うと疲れるタイプの同年生 、しかも男だ──が想定外の条件下で残した痕が桜川の目の丈を微かに狭めた。 土曜の午後。 「じゃああたしはこの辺で。二人共、また来週ね」 目に慣れた通学路で浮かぶクラスメイトである吉岡の笑顔も。 「おう」 いとま声に返した短い句も、軽快に去っていく小さな背を一人ではない状況下で見送った事も。 退去を促す為に、隣の杵島へ視線を流した事も。 微妙な違いは、言葉なく吉岡を見送る杵島にあった。 吊りがちの双眸、細い鼻筋、薄い口唇、丸みの少ない頬のライン。隣の同年は、鋭利な造作を緩みに緩ませ、意中の女子との別れを声高に惜しむ事をその常とする。 だが、今日はその内の一つが欠けていた。 「・・・・・・・・・」 滑らか過ぎるきらいのある口回りが、何故か微動だにしない。 「? おい」 耳慣れてしまったがなり声は、ない。 視線すら合わさず、無言で手を挙げた杵島が、踵を返して足早に去っていく。 やけに静かな後姿を怪訝と共に見送っていると、その背が不意に沈んだ。 桜川が駆け寄ったのも、その手が崩れた体躯に伸びたのも謂わば反射行為。 「ッ、触るなッ!!」 非日常は、その先に突如として現れた。 荒声の音韻が去っても尚、その気迫は消えず。衝撃とも云えるだけのそれに思わず硬化した桜川は、アスファルトを睥睨する杵島から、切羽詰った気配を拾い上げた。次いでその両目が、詰襟から覗く項を捉える。 「気分でも悪いのか」 情動の読み辛い眼差しが白い襟足に滲んでは丸い玉となり、黒い布に吸い込まれていく汗を見届ける最中。 「違う」 詰まりがちな声が、アスファルトに落ちた。 桜川の視線がすう、と下る。 陽に灼けた硬い黒、そこへ食い込まんとする白がやけに浮き立って見えるのは気の所為か。桜川が取りとめない思いを脳裏に掠めさせるのと同時に、ひょろりとした体躯が勢い良く伸び上がった。 「! 杵島」 静止の声音を上げる間こそあれど、 「ついて、くるなよな!!」 ドップラー効果もけたたましく猛然と走り去った杵島本体を押し留める隙は、桜川に与えられなかった。 あっという間に小さくなる背を僅かばかり見送った桜川は、地面に放り出されたままの学生カバンを軽々しい動作で拾い上げ、ひっそりと溜息を吐いた。 面倒だが、あれ程の火事場の馬鹿力を見せ付けられては、致し方もない。 桜川はアスファルトを蹴った。 杵島のアパートを目指すその速さはマイペースだが、疾走状態に近い。 軽く息を弾ませるも表情の変わらない桜川が、長い間雨風に曝されて変色した建造物に辿り着くまで然程の時間を必要としなかった。錆びた鉄の階段と長い脚が音を立てて交わる。 その硬い音が尽きたのち、間を歩数にして十と一つ程介した桜川は、視界の下端に変哲の無いドアノブを捉えた。 「おい」 もう少し愛想良くならないものかと肉親にすら指摘される声を放ちつつ、すぐそばの壁へ手をかける。 応答はなかったが、桜川の左手は迷いなく冷たい鉄の塊を掴み回す。 「開けるぞ」 簡潔な句は、最早事後承諾だ。 否応も差し挟ませずに引き開けたドアの先には、桜川の予想通り、背を向けた恰好の杵島がいる。 「おま・・・・・・か、えれ・・・って」 切れ切れのそれを無視した桜川は、狭い三和土に蹲る体躯の傍らに片膝を着けた。杵島の忘れ物を手離し、小刻みに震える背中をさする。乾いた掌が無心に上下する事幾許か、強張りっ放しのそこから徐々に力が抜けていく。 呼吸する事さえ辛そうに見えた杵島の口許から比較的大きな吸気が紡がれる。 背をさする手は休めぬまま、桜川はしっとりと濡れた襟足の髪を大意のない目で眺めた。 「落ち着いたか」 俯き隠れていた杵島の面がのろのろと持ち上がる。 億劫そうに揺らめいた深い琥珀の眼球が、桜川の淡々とした面差しを捉える寸で。 「な、んだよ・・・、これ・・・ッ」

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