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陽だまりの手のひら

「俺、おかしいんじゃないか……」  私の前で体育座りをして、春人は顔を覆った。午後のぬくい日差しを受けて、彼の淡い茶色の髪がより柔らかな色味になっている。そよそよと春風に猫っ毛が吹かれて気持ち良さそうだった。 「だってだよ」  呻くような声は小さい。 「だってだ」  繰り返す言葉には力なく、彼の懊悩があっさりと読み取れるというものだ。彼はそのまま唇を空回りさせて、沈黙した。他に誰も聞いていないというのに、口に出すことがあまりに憚られるといった風情だった。  そより、と風がまたレースカーテンを揺らして、私の上に影を躍らせた。でも、手のひらで目を覆い隠している彼には見えていなかったと思う。それどころか、瞼を頑なに閉ざしていたかもしれない。  たっぷりとした時間をとって、彼は大きく仰け反り、そうして肺の中の空気を一呼吸さえ余さずに吐き出した。それは重苦しさを残さず春風に紛れて消える。そのことにさえ悲しむように、もう一度盛大なため息が吐き出され、そして消えていった。 「おかしいんだよ」  自らに言い聞かせるように、彼は断言した。 「絶対おかしい」  私は、切に「そうだね」と教えてあげたかったけれど、残念ながら何も言えなかった。こういう時、自分の立場が口惜しい。  私がいつも通りに沈黙を貫けば、彼は一人ジタバタと体を揺り動かし、床にうずくまった。うー、だの、あー、だの言葉にならない呻きをあげ続けている。  かと思えばピタリと静止した。  そのまま、わずかなりとも身動きしない。 「………………………………………………かわいい」  彼は絞り出すように呟いた。  途端、海から釣り上げられた真鯛のごとく、ビチビチと荒れくるい始めた。頭をかきむしって唸りを上げて、本当にそれはえら呼吸ができずに死にそうになっている魚そのものだった。見たことはないけれど。  春人はそれから十五分ほども飽きずに身悶えしていた。そんな時、玄関へ続くドアの向こうから、鍵がガチャリと回る音がした。弾かれたように春人は起き上がって、振り向く。 「帰ってのか」  開いたドアの隙間から顔をのぞかせた弘之が、縁なし眼鏡の奥で少し目を見開いた。 「お前こそ、早くね?」  春人が慌てて言えば、ああ、と返事ともつかない声をあげて、弘之は鞄をソファーの隣へ置いた。スーツを脱ぎながら居間を横切り、ハンガーを自室に取りに行く。  その後ろ姿を春人は吸いつくように見やっていたが、はっと我に返ったようにそっぽを向いた。  ネクタイも外した弘之が第一ボタンを寛がせながら、居間へ戻ってくる。ゆっくりと息を吐いたかと思えば、春人の顔に目を向け、ふと眉根を寄せた。 「何だ、風邪か」 「なんでだよ」  突然の問いに春人が弘之に怪訝な顔を向ける。弘之はすっと春人の隣に膝をつき、その頬に手を寄せてきた。ばね仕掛けのように春人が飛び上がった。 「なななななな!!」 「……赤い」 「なら言葉で言え!!」 「熱を測ろうと」 「っ、ないから、熱なんて」  弘之はいつも通りに薄い表情で、かすかに首を傾げた。でも、と声を繋げようとしたが、それを引きちぎるように春人が強引に立ち上がった。 「ちょっと暑いだけだよ!」 「でも早く帰ってきたのは具合が悪いからじゃないのか」 「ちげえから。単に仕事終わったから早引けしただけだよ。んな事言えばお前だって、随分早えだろ」  足音も荒くキッチンへ向かう春人の後ろを、弘之がついていく。春人を見下ろすくらいに身長が高いのに、親鳥についていくヒヨコさながらだった。 「もともと早い予定だった。代休消化が必要でな。そろそろ取ってくれとうるさかったんだ。もう少し仕事したかったんだが」 「そんな調子だから帰されたんだろ。いい薬だ。さっさと寝ろ、ワーカーホリック」 「つまらない」 「そんなこと知らねえよ」 「春人は何するつもりだったんだ」 「……別に。買い物とか」 「ついていく」 「なんでだよ!」 「荷物持ちがいれば便利だろう?」 「そんな買わねえから」 「前にベランダで菜園をすると言ってただろう。土を買うのも、植木鉢を買うのも、せっかくだからすればいい」  弘之に追いかけられながら居間に戻ってきた春人は、その言葉にピタリと動きを止めた。魅力的な誘いだったらしい。目を泳がせ逡巡していたが、慌てて首を振った。 「なんでお前と出掛けなきゃなんねえんだよ!」 「同居の誼だろ」 「好きでやってんじゃねえよ!」  勢いよく放たれた言葉に、弘之は少し目を見開いた。そうして、わずかに目を伏せる。そうか、と落ちた呟きの重さに、言い放った春人が動揺して振り返る。表情の薄い弘之だが、横顔からでも落ち込みようは察せられる。  春人はそれに何か声をかけようと口を開いた。しかし、上手い言葉が見つからなかったのか、開いただけですぐに閉じた。また魚みたいになっている。  春人が言っているのは本当だ。彼は好きでこの部屋に住んではいない。春人が入居する直前に不動産屋の手違いでダブルブッキングが生じた。そのダブルブッキングの相手が弘之だった。本来であればすぐ別の部屋が用意されるところだったが、あらゆる手管を使い、弘之がなし崩しに同居に持ち込んだのだ。  見ず知らずの相手との同居がこうしてスタートした。——今から半年前の話だ。  悄然とする弘之を見上げていた春人は、勢いよく舌打ちをした。 「………………夕飯おごり、なら、付き合ってやっても、いい」  そっぽを向き、ぼそりと春人が言った。それから矢継ぎ早に言葉を重ねていく。 「暇なんだろ! 仕方なくだからな! そんくらいやってもらわないと割に合わねえんだよ! 大体大の大人が一人じゃ暇ってなんなんだよ! 趣味くらい持っておけよ! だからそんな仕事人間で」 「趣味くらいある」  強い口調で弘之が遮った。春人はわずかに赤い頬を隠すようにしながら、少し胡乱げな目を向ける。 「嘘だろ、何が——」  あんだよ、という春人の言葉は口の中で溶けていった。  弘之があまりに強い眼差しで、春人を見つめていたからだった。  その瞬間、湯沸かし器のごとく春人の顔が真っ赤に染まり上がった。その場から跳びのき、悲鳴にならない声を上げている。弘之はそんな様を変わらぬ薄い表情で、まだじっと見つめていた。 「ぼ、ぼさっとすんな!! すぐ出るぞ!! 四十秒で支度しろよ!!」  早口で捲し立てたかと思えば、春人は自室に勢いよく駆け込んでいった。扉が激しい音を立ててしまる。  弘之は春人の消えた先を見守り、ふ、とため息とも笑いともつかない吐息をこぼした。首を巡らし、ゆったりとした足取りでベランダにいる私に近づいてくる。そうして目の前にしゃがみこむと、微かにだけ唇の端を持ち上げた。  動くことを知らなかった彼の表情筋にしては、あまりに滑らかな動きだと思う。  そうして、彼はふと私に目を向けて、目を瞬かせた。 「君も花をつけたのか」  ええ、そうですね。ここはとても、から。  春の風が、棘の隙間に咲かせた白い花を、柔らかく撫でていった。 (了)

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