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第1話
花もて語れ
ただでさえ埃くさい資料室の床。そんなところに転がされて良い気分になる人間はいないだろう。
西日射す静かな室内で、館花奏(たちばなそう)は呆然と視線を宙に泳がせていた。
倒れた際に打ちつけた後頭部の痛みよりなにより、混乱のほうが強い。
「え?え?…な、なに?」
一体何が起こったんだ?何が起こってるんだ?この現状はどういうこと?僕はなんでこんなところに寝ているの?
あまりに突然の出来事に思考がついて行かず、頭を巡るのは疑問符付きの言葉ばかり。
帰宅(とは言っても、それは学校に隣接している寮になるのだが)する途中、廊下でたまたま出くわした教師に荷物持ちを頼まれた。
奏たちより一学年上の三年生の英語を担当しているその教師は、快活な性格で生徒に人気があるため、噂話や校内の情報に疎い奏でも知っていた。
特に目立つ生徒ではない、どちらかと言えば地味な自分の名前をなぜ知っていたのか、と不思議に思ったが、特に尋ねる必要もないと思い、なにも考えずに頷いた。
よくよく状況を検分したら、ほかに人を頼むまでもなく大人の男一人で十分に運べる量の荷物だったのだが、そのことに言及することなど思いもつかず、なにも考えずに半分受け取った。
職員室でも英語科の準備室でもなく、普段使われることの少ない資料室に向かう間も、とくに不信に思うことなどなかった。
やたらと親しげに話しかけてくる教師と適当に会話し、適当に愛想笑いをし、先に資料室に入る。
中央に置かれた大きな机に荷物を置き、ほっと一息。
「じゃあ、僕、これで…」
言いかけ振りかえったところで、視界が移動した。
そして至る現在の状況。
背中に感じる冷たく固い床の感触を、妙にリアルに感じる。のしかかる男の重さに息がつまり、意識せずに呼吸が浅くなる。
しかし呆けたように動けなかった奏も、体を這うおぞましい手の感触に、瞬間で我に返った。
「~~!!な、なにすんですか!?」
急いたようにシャツの上から体をなでまわす生あたたかい手に仰天し、あわてて押し返す。
が、それは果たされることなく、反対に両手首を捕らえられて床の上に押しつけられた。
「ちょっ…止めてください!」
「…館花」
普段の人好きのする明るい笑顔が嘘のような、暗く血走った目を間近で見てしまい、ぞっと背筋に悪寒が走った。
「せ、先生…?」
一体、どうしちゃったのこの人?
見知っている人間がいきなり得体の知れない化物に変身してしまったかのような恐怖に、奏は闇雲に体を捩った。
手首に食いこむ指の痛みを感じるが、それどころではない状況だとどこかで悟っていたのかもしれない。
「おとなしくして…僕は、館花が好きなんだ」
ぴたりと奏の動きが止まる。
「…え?」
今なんと?
一瞬状況も忘れて目の前の顔をまじまじと見つめた。
すると、なにを勘違いしたのか相手はもじもじと目を伏せた。
「初めて君を見た時から、可愛い子だな、と思っていたんだよ」
「…は?」
男の言葉が理解できない。いや理解したくない。
しかし、言いたいことを言ってすっきりしたのか、無意識のうちに深く考えることを放棄しようとした奏の上で、男はまた行為を再開した。
「ちょっ…ちょっと待った!やめっ…!!先生!!や、やだやだやだーー!!」
攻防がしばらく続いたが、なかなか思い通りにならない奏に業を煮やしたのか、男は苛立たしげに手を止めた。
「どうして君はおとなしくしてくれないんだ!」
「お、おとなしくできるわけないでしょう!?」
「…国枝とつきあっているから?」
「はぇ…!?」
奏は素っ頓狂な声をあげた。
「国枝とつきあっているから、僕の想いを受け入れてくれないのか?」
いつのまに想いを受け入れる受け入れない、のレベルの話になっていたのか?
それに、なんだその話は。
「な、なんで僕が涼と?」
国枝涼(くにえだりょう)。脳裏をよぎる同室の友人。
彼は硬質な宝玉を思わせる容姿と秀でた頭脳、ミステリアスな雰囲気を持ち、学内でダントツの人気がある。
突出した完璧さを誇らない穏やかで人好きのする人柄が、彼の人気に拍車をかけているのは周知の事実。
そして、寮が同室でクラスも同じ、必然的にいつも一緒にいることになる奏は、特に涼の恋人の座を狙う人間にやっかみを受けることが多い。
──君は彼の恋人?
──本当にただの友人なの?
──国枝くんは好きな人いないのかな、君聞いてない?
ことあるごとに聞かれる、もはや耳にタコな質問を受け、奏はまたかと遠い目になった。
(…男子校ってこれだから…)
奏は、その普通だったら異性どうしで行われるであろう恋の鞘当てについていけないことが多い。
もともと恋愛に淡白な体質らしい、ということは自覚しているので、やるなら勝手にどうぞ、ただしこちらにふらないでくれよ、というやや冷めた目で彼らを見ているのだ。
「つきあってないのかい?」
「そんなはずないじゃないですか!」
「じゃあ、やっぱりアレはうわさだけだったんだね」
「うわさ…?」
嬉しげに声を弾ませる男に、もしかしたらたった今、自分は自ら逃げるチャンスを握りつぶしてしまったのでは…との危惧が浮かぶ。
しかし、なるべく会話を続け時間を稼ぐことによって、なんとか相手が目を覚ましてくれれば…との計算もあった。
「ちょっと待ってください。えっと…そのうわさって、なんですか?」
知らないの?と不思議そうに返され、こくりと頷く。
「朝、君が国枝をモーニングキスで起こしてるって」
「も、…き、きききす!?だ、誰が誰に!?」
「君が国枝に」
「うそだ!!僕、そんなことしてない!!」
律儀に答える男に噛みつく勢いで、奏はわめいた。
一体どんなうわさだ!
「あれ?寮監から聞いたんだけどな」
「100%間違いです!!」
朝の点呼の時間に間に合うように寝汚い涼を起こすことは、すでに習慣になっているが(なぜなら同室の自分も連帯責任で罰を受ける羽目になるから)それはベッドから蹴落としたり突き落としたり、足で踏んづけたりすることであって、そんな色っぽい…もとい気色悪い起こしかたはしていない。するわけない!
どこからそんな妙なうわさが飛び出したのか、今度寮監に会ったら断固として問い詰めなければ。
燃え上がる奏をよそに、男は男で勝手に盛り上がってしまっていた。
「そう…そうだよね。館花がそんなふしだらなことするわけないよね…君はこんなに清らかなんだから…」
目にうっとりと怪しい光を浮かべる男に、再び警戒警報が鳴りはじめる。
…こ、これはマズイかも
「館花…」
「ひゃあっ…や、やだっ!」
キスだけはさせまいと必死に首をそらせると、首筋に唇を押しつけられる。
ねっとりと這う舌の感触に、体中が総毛立ち嫌悪感で体がびくりと跳ねた。
それをどう取ったのか、男は鼻息を荒げながらすっかり臨戦態勢に入っている下半身を押しつけてきた。
「ぎゃーーっ!!!」
あまりの気持ち悪さに、血の気が引いてふっと気が遠くなる。しかしここで意識を飛ばしたらどうなるか、結果は子供でもわかるだろう。
奏はあちら側に飛びかけた魂を懸命に引き戻した。そして、相手を正気づかせる言葉を胸のうちで並べ立て、そのトップに挙げられたものを死に物狂いで男に投げつける。
「き、教師が生徒にこんなことしていいと思ってんの!?」
「僕は教師である前に一人の男なんだよ…館花、さあおとなしくして…」
どんな論理だ。
二の句が継げずに奏は絶句した。
「悪いようにはしないよ。一緒に気持ちいいことをするだけだからね…」
「!!ふざけんなコノヤロウ!」
もう十分悪いじゃないか!
怒号だけは勇ましく、もはや教師に対する敬語も忘れたまま、奏はもがいた。
しかし相手も必死らしく、奏の決死の抵抗はことごとく不発に終わる。
それどころか、暴れているうちにそれに乗じて服を乱されて行く始末。
そもそも体格では明らかに負けている上に、態勢的にも不利な状況とあっては、勝敗は目に見えていた。
精魂尽き果てぜいぜいと喘ぐ奏を、男は血走らせた目で見下ろし、歪んだ笑みを浮かべる。
こ、このままでは変態セクハラ教師にやられてしまう!
以前誰かが寮に持ちこみ、興味津々怖いもの見たさで皆でまわし読みした「それ系」の雑誌を思いだし、血の気が引く。
あんなことされるのか?僕が?こいつに?うそだろ。冗談じゃない。ファーストキスもまだなのに!
奏は至近距離に迫っていた男の顔をきっと睨みつけた。
欲情を丸出しにした顔にとたんに吐き気がこみ上げるが根性で飲みこむ。
…目を逸らしたらやられる!
生理的嫌悪で潤んだ奏の真っ直ぐな眼差しに、別の意味で男が怯む。いわゆるやる気度、さらに倍。
大きな瞳が零れ落ちそうに瞬き、薄紅の唇がもの言いたげにふるふる震えている。色をなくした白い頬は陶器の如くすべらかで、怯えたように寄せられた眉は頼りなげな少年をさらにか弱く見せている。
「た、館花…」
ごくりと生唾を飲みこむ音が生々しく響いた。
さらになにか言いかけた男の言葉を遮り、奏は声を張り上げた。
「あのっ!…う、あ、う、うそだから!全部うそなんです!」
「…うそ…?」
「そ、そう!実は僕!国枝涼と、つ、つきあってるんです!だからっ!!」
「…やっぱり国枝が恋人だったのか…」
「そうです!だから、こんなことやめてください!!」
やけくそに叫びながら、奏はすぐ脇を全力疾走で駆け抜けて行く勝機の神様の後ろ髪に、必死に手を伸ばした。
…が、神様は禿げていた。
「大丈夫、僕はうまいよ。彼よりも気持ち良くしてあげるからね…」
…そんなこと聞いてない
男は、顔色を青から白に変えた奏を宥めるように笑った。優しげにしようとしたつもりだろうがそれは必ずしも成功はしなかった。ぎらぎらした光を放ちながら微笑んだところで何の慰めになるはずもない。
「うわあっバカ!触るなよそんなとこ!」
万策尽きた奏はもはやなりふりかまわず半泣きになった。
もうダメだ…!
絶望にかられぎゅっと目をつぶった時、頭上のほうでかたん、と小さな音がした。
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