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第1話
「君のことが好きだから。――好きな人のために、できることがあるのならしたいって思うのは、そんなにおかしいこと?」
……その、言葉が。
どんなにおれの胸を騒がせたかなんて、きっとこいつは知らないのだ。
空が青い。
快適な温度に保たれている室内から、過剰なまでに燦燦と陽の光が降り注ぐ屋外を見る。
クーラーがないどころか扇風機すら兄たちにぶんどられる自宅と比べたら天国のような環境で、おれはのんびり受験勉強なんてやっていた。
「そろそろ休憩したら?」
そんな天国な環境を提供してくれた友人が、飲み物と茶菓子なんて持ってやってきた。ここに来てから事あるごとに思っているが、甲斐甲斐しい。
今まで縁のなかった高級品を、これでもかというくらい浴びせられている。とはいえ、友人――翠はもらいものを持ってきただけだと言っていたので、たぶん価値とかよくわかってない。
高三の夏休み。
受験をするならそろそろ勉強漬けにならないとやばい、そんな時期だ。
高校最後の夏、青春を謳歌するなんていうのは余裕があるやつだけが口にできる夢想である。
そういうわけで可もなく不可もなくな頭を志望校に受かれる程度まで引き上げるために、おれは努力をしなければならなかったが、――悲しいかな、自宅はそれに全く向いていなかった。
物質的に快適な環境じゃないのはもちろんのこと、何かにつけては弟をパシりたがる兄たちによって、満足に集中する時間すら得られない。
それをぐちぐち嘆いていたら、仕事関係で両親が不在、金には不自由しない、豪邸ではないがめちゃくちゃ設備の整った家に住む友人・翠が「だったら僕の家に来る?」と提案してきたのだった。
翠の父親は有名な作曲家で、インスピレーションを求めて各地を放浪しているとかでめったに帰ってこないらしいし、母親は海外にも呼ばれるような演奏家で、これまた家を空けていることの方が多いらしい。
そういう両親の元で育ったからなのか、翠は少し……いやだいぶ浮世離れしている。
おれはそんな翠の数少ない友人であり、おれの側からしても翠は最も親しいといってもいい。
とはいえ、夏休みまるまる世話になるというのは如何なものかと思ったが、表情が乏しいながらも妙に熱心に押してくる翠に、遠慮は置いておくことにした。
そんなこんなで翠の家で過ごす日々も早二週間。快適すぎて自宅に帰りたくない。
世話になっているので家事くらいはやらせてもらってるが、それは自宅での通常だし、むしろ人数が少ないので楽である。
……まあ、店屋物とヘルパーさんでなんとかしてきたという翠の家事能力が壊滅すぎて、これ放って帰って大丈夫だろうかという気持ちにもなるし。
おれに茶と菓子を勧めて、向かいに座って自分も持ってきた水ようかんをもぐもぐし始めた翠は、大学進学組じゃなく就職組だ。というか、今ももう就職してるようなもんだと思う。
父親と同じ作曲家という道で既にある程度の基盤を築いているらしい翠は、別に学校が好きだというわけでもないので、あるいは高校を辞めてしまってもいいのだろう。
それでも学校に通い続ける理由を、翠はかつて「学校に来れば君に会えるから」と言った。
そういう、他者への好意を率直に表すようなところとか、集団の中での暗黙のルールみたいなものに頓着しないところが、翠を大多数から浮き上がらせているけれど、おれはそれを好ましいと思う。
思うから、友達をやっているし、――ずっとこの関係を続けられたらと、そんなことを思ったりもする。
学生時代の友人関係なんて、わりと脆い。それは、進級で自然消滅していく人間関係で痛感している。双方が繋ぎ続けたいと思わなければ、簡単に縁は切れてしまう。
進学と就職で道が分かたれればなおさらだろう。家が近い――生活圏内が被るというわけでもないので余計に。
それでも、翠との縁を切らないでいたいと、生涯の繋がりを持ちたいと思う、この気持ちが友愛を逸脱しているのかどうかは、自分でもちょっとよくわからないでいる。
「彼方? せっかく冷たいの持ってきたのに、ぬるくなるよ」
「あ、うん。ありがとな。いただきます」
「うん、どうぞ。召し上がれ」
翠の口元が僅かに緩む。生まれつき表情筋が死滅しているかのごとく表情の変わり難い翠の、これが笑顔だ。
このまま時が止まればいいのに。
ふいに頭をよぎるのは、そんなセンチメンタルな思考。
夏が終わって、秋が過ぎて、冬が去って、――春が来たら。
絶対的に道が分かたれるとわかっているから、そんなことを思ってしまう。
当たり前のように翠が口にする、友人への好意に心臓が跳ねるようになったのはいつからだったか。
出会って、知り合って、仲良くなって。そのときから翠にはさしたる変わりはないのだから、おれの気持ちだけが変わってしまったのに。
それを知らせないまま、近しい友人でいたいと思う、これは裏切りなのかもしれないけれど。
一番になりたいとは言わない。
ただ、せめて友人という立場にい続けたい。
そんな女々しい気持ちを、少しぬるくなった水ようかんと一緒に飲み込んだ。
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