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世界の終わる朝には
正午の予報が、90%の確率で明日世界が終わることを告げていた。
窓の外の空はよく晴れて、白く洗い上がったシャツが風にはためいている。
「呑気に飯食ってる場合なの、俺ら」
「さあ?」
コンビニのペペロンチーノを掻き混ぜながらつぶやく紘一 に、巧 は肩をすくめて見せる。
「まあ、明日のことは明日考えたらいいんじゃね?」
「えええー……」
「ごっそさま。そうだなあ、残り10%に賭けようぜ」
一足先に弁当を食べ終えて割り箸を折りながら、巧はにっと笑う。この人のこの楽観はどこに根拠があるのだろうと思いはするけれど、紘一の緊張も少しほぐれる。
「巧さん、バイトはどうするの?」
「ん? フツウに出勤しますよ」
「明日世界が終わるかもしれないってのに?」
「だからってみんなが働かなかったら、今日の世界が立ちゆかないだろ」
「そういうものかぁ」
そういうものです、と真面目くさってうなずきながら巧は立ち上がり、首をかしげるようにして紘一を見下ろす。
「おまえはどうするの? このあと」
「待っててもいいよね?」
巧は笑ってうなずき、ポケットから鍵を取り出して卓袱台に置いた。
「日付けが変わる前には戻る」
「ん」
なんとなく立ち上がって玄関まで見送りに出たら、いい子にしてろよ、と頬にキスされた。
憮然とした顔で頬をこする紘一がよほどツボに入ったのか、くっくっと喉で笑いながら巧は階段を降りていった。
終末予報で持ちきりのテレビもラジオも視聴する気になれなくて、床に積まれたCDの中から適当に選んでコンポに突っ込む。ボリュームを上げると、前世紀の終わりにけっこう売れたアーティストの曲が大音量で流れはじめた。
「うっわ、懐かし!」
聴いているうちに思い出してきた。巧がどういうつもりでこのCDを今も手許に残しているのか知らないが、ちょうどこの曲が流行ったころに出会ったのだ。紘一は十五、巧が十七、二人とも高校生だった。
「そろそろ七年?」
ジャケットの裏の発売年を確かめながら、紘一の喉からは思わず嘆息が漏れる。
若いという形容すら弾き飛ばして笑えるくらい、自分たちは若かった。むしろ幼かった。学校と友だちと音楽が世界のすべてで、未来は光る滑走路のようにずっと向こうまで用意されていると信じていた。
あのころ。
世界に終わりが来ることも、そのときまだ巧と一緒にいることも、予想すらしえないことだった。
「人生って分かんねぇよなあ……」
鼓膜を叩く音に合わせてリズムを取りながら、紘一は床に伏した。そこから仰向けに見上げる窓は、青いスクリーンのようだ。
(こんなに晴れてても、終わるんだなあ)
映画ならここからどんどん話が盛り上がるのだろうと思いながら、紘一はふたたび反転して床に頬をつける。十一月も間近だ、フローリングの床はしんと冷えきっている。
皮膚を服を通して染み入ってくる冷たさを、不快に感じながらも起き上がる気になれない。つくづく、バイトに出かけられる巧はすごい。
スピーカーから、きゅっと軋むようなアコースティックギターの音が聴こえて、紘一の好きなバラード曲が始まった。
サビのメロディに合わせて口ずさんでいたら、無性に人恋しくなった。頭だけ起こして見渡してみると、部屋の隅に巧が脱ぎ捨ててあるジャージの上着が目に入った。ずるずると這っていって引っ張り寄せ、枕の代わりに頭の下に敷く。目を閉じて深呼吸をすると馴染んだ匂いが鼻腔を突いて、いくらか気持ちが落ち着いた。
遠い国の事件や遠い過去の出来事が身に迫って感じられないように、紘一にとっては終末予報もまた、同じくらい実感を伴わないものだった。それでも90%と聞けば胸がざわめくのは、どうしてだろう。
「早く帰ってきてよ、巧さん」
不安になって弱音を吐く自分を、心配ないと笑い飛ばしてほしい。オレがここにいるだろ?と自信満々に言い放ってくれればいい。その言葉さえあれば自分は、予報なんか気にならないくらい安心してしまえるに違いないのだ。
せつなげに尾をひくギターの音が消えて、一瞬の空白。
七階建てマンション三階の窓の下で、街は驚くほどいつもと変わらない。潮騒のようなざわめき、信号の電子音、どこか遠くで車のクラクション。
(あ、猫が鳴いてる)
続く曲のイントロにごく小さく鋭い音がかぶって、紘一はそれを猫の声と聞いたけれど、実際のところ何の音だったのかは定かでない。
夕方六時ごろ、巧から携帯に電話がかかってきた。
「これから帰る。飯、まだだよな?」
「ずいぶん早いね」
「今日は店も早仕舞い」
昼に別れてから数時間しか経っていないのに、雑音混じりの巧の声がやたらと懐かしく感じられる。
「駅前で待ってるから、出てこいよ。寿司でも食おうぜ、寿司」
紘一は携帯電話と鍵と財布をポケットに突っ込んで部屋を出た。マンションの階段を一段飛ばしで降りて表通りへ向かう。自然と急ぎ足になる。角を曲がって駅が見えてきた辺りから、我慢できずに走った。
息を切らして走ってきた紘一を見て、巧はまぶしそうに目を細めた。頬に手が伸びてきて、ぺしぺしと軽くはたかれる。
「ンなに急いで来なくても」
「早く顔見たかったから」
こんなときくらい構わないだろうと、紘一は直球で返してみた。巧はさすがに驚いたように目を見開き、それから破顔した。紘一の好きな、今このときのすべてが楽しくて仕方ないとでも言いたげな笑顔。手が紘一の後頭部に移動して、髪をわしわしと掻き回す。
「ちょ、何す……」
「ははは」
そうやって引き寄せられると、わずかにだが背の高い紘一が自然とうつむく格好になる。その顔を下から覗き込むように見上げて、巧は冗談ぽく囁くのだ。まったく人の気も知らないで。
「嬉しいよ」
バイト代を前払いでもらったという巧の奢りで寿司を食って部屋に戻る途中、少し遠回りして帰ろうかと巧が言い出して二人で公園を歩いた。
夜目にも鮮やかな明るい黄金色の葉が散り敷いている道は、高校時代の通学路に似ていた。
「綺麗だね、なんか」
「ニオイはすごいけどな」
「あはは……明るかったらギンナン拾えたのにねえ」
分厚く積もった落ち葉を蹴散らしながら肩を並べて歩く。
夜はもう寒いなあとつぶやいて、巧が紘一に身を寄せてくる。
ずっとこうしてこの人の隣を歩いてゆけたらなあ、と明日世界が終わるかもしれないことも忘れて紘一は思う。
紘一がシャワーを浴びているあいだ終末予報を見ていたらしい巧が、世界中お祭り騒ぎだよ、と笑う。
折しも窓の外でどぉんと音がしたのでカーテンを開けてみたら、向こうの山のほうで花火が上がっていた。せっかくなのでテレビも部屋の灯りも消して窓からの眺めを楽しむことにする。
巧が冷蔵庫から缶ビールを出してきて、紘一に放って寄越す。
「世界の終わりに、乾杯?」
「おう。ドン・ペリのつもりで飲めよー?」
不謹慎だよなあと笑いながら、巧が美味そうにビールを飲む。あまり酒に強くない紘一は、寿司屋で一口飲まされた日本酒と缶ビール半分で早くもほろ酔いだ。
「冷たくて気持ちいい……」
ついに寝転がって床にぺったりと頬をつけた紘一の脇腹を、巧が足先で軽く押してくる。
「紘、こっちにおいで」
「うん?」
呼ばれて紘一は、素直に巧の傍へ這い寄った。床に腹をつけたまま、頭だけ起こして巧を見上げる。
「なに?」
巧は黙って手を伸ばし、風呂上がりでまだ湿っている紘一の髪に触れてきた。こめかみの髪を引っ張られたので「痛いよ」と抗議したが、笑っているだけだ。
その笑い顔がなんとなくはかなげに見えて、紘一はちょっと胸を突かれる。巧の手を掴まえて、床から身体を起こす。
「巧さん?」
「ありがとうな」
顔を覗き込もうとしたら、珍しく真面目な表情でいきなり礼を言われた。紘一は面食らう。
「え、え……? なに?」
「今日、ここにいてくれて。世界の終わりにおまえと過ごせてよかった」
つないだままの手が、巧のほうへ引き寄せられる。そのまま、手の甲にキスされた。
「あ、うん、それは、……俺も」
頬が熱くなるのが分かる。しどろもどろの紘一に、巧が顔を寄せてきた。
「しようよ」
「えっ」
今にも唇が触れそうな距離で囁かれて、紘一は思わずのけぞる。その肩を掴まれて、床に押し倒された。
「わっ、ちょ……」
ちょっと待って、と言おうとした唇を唇でふさがれて、紘一の全身から一気に力が抜けた。
頬や額への軽いキスなら、これまでに何度もされたことがある。巧はもともとスキンシップ魔で、付き合う相手も男女を問わない。最初こそ驚いたものだが、繰り返されるうちに慣れてしまって今に至る。
だが、これは。
わずかに開いた唇の隙間から、巧が器用に舌を差し入れてくる。歯列を割られ、舌を絡め取られた。
唾液が混じり合う。頭に血が昇る。息ができない。
やがて巧の唇が首筋に降りてきた。紘一はくすぐったさに身をよじった。その動きを抑えようとするかのように、巧の手が紘一の胸を撫でる。Tシャツ越しだというのにぞくっと背筋が慄えた。
「た、くみ……さ……」
「嫌なら突き飛ばせよ」
できないと分かってて言ってるだろう、と思いながら紘一は目を閉じて唇を噛む。
初めてのときから、驚きはしても嫌ではなかったのだ。だから紘一は認めざるをえなかった。自分の中に、巧から仕掛けられる行為を望む気持ちがあることを。
そのままじっとしていたら、巧の動きも止まった。紘一は薄目を開けて巧を見る。
巧は、困っているとも怒っているともつかない複雑な表情をしていた。紘一の視線に気づくと、目を合わせるのをためらうように何度か瞬きをしてから、ぼそっとつぶやいた。
「おまえがほんとうに嫌なら、ここでやめる」
紘一にまたがったままうつむいてしまった巧の姿に、こんなに弱気なこの人は初めて見る、と紘一はぼんやり思う。
巧が本命を作らない主義だということに、紘一はいつからか気づいていた。たくさんの男女が、巧のもとへやってきては去ってゆくのを見た。巧はどうやら、相手が本気の素振りを見せると切ってしまうらしかった。
紘一は、巧から離れたくなかった。だから、巧を好きだと感じる自分の気持ちは腹の底に沈めたまま、傍にいつづけるほうを選んだのだ。
けれど、明日で世界が終わるなら。
紘一は手をもたげ、巧の頬に触れてみた。巧がかすかに身を震わせる。両手を巧の首の後ろにかけ、自分のほうへ引き寄せた。
「いやじゃ、ない」
初めて、自分から巧の唇に触れる。ごく軽く。それだけで、痺れるような快感が走った。
一度離れて巧の顔を見る。
戸惑いの表情を浮かべて巧は紘一を見下ろしていた。紘一はうなずいた。巧の手がそうっと紘一の頬に添えられ、乾いた指先が唇をなぞる。
「いいのか?」
「いい。したい。俺は今、あんたとセックスがしたい」
自分を縛っていた鎖があっけなくほどけるのを感じて、紘一は少し笑う。こんなに簡単なことだったのか。
「好きなんだ、あんたのことが」
「——知ってたよ」
巧もかすかに微笑んで、二人はふたたび唇を寄せ合う。
何度も何度も繰り返し、絶頂に連れ去られ谷底まで落とされる。
泣いても許しを乞うても、波にさらわれ呆気なく達かされる。
限界まで求め合った。
「巧さん、巧さん……、好き、すげぇ好き……」
残された時間がわずかなものかもしれないなら、一分一秒が惜しかった。
明日で世界が終わるなら、互いに溶け合って二度と離れたくない。
おまえはオレのものだ、と巧が耳許で囁いてくる。
食い入る痛みが、存在を確かにしてくれる気がする。
いっそこのまま最後の瞬間まで、と薄れてゆく意識のもとで願った。
ほとんど祈りとも呼べるくらい烈しく、つよく。
(世界の終わる朝には、あんたの隣で目覚めたい――)
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