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第1話

これから暑い夏を思わせる梅雨の晴れ間にそれは起こったのだった。 その日も、普段と同じようなありふれた日になるはずだった。 少なくとも、僕はそう疑いもせずに考えていた。 いつものように朝起きて、眠い目をこすりながら顔を洗った。 冷たい水に指先を痺れさせながら乱暴にタオルで顔を拭い、 なにも考えずに歯ブラシをくわえる。 もぐもぐと歯を磨きながらふと目の前の鏡を見ると、なにか違和感を感じた。 青いパジャマを着た上にある、やや不機嫌そうな寝ぼけた顔。 ちょっと跳ねている髪の毛……なおすのメンドクサイなあ…… さらに、その上にある─── 「……???」 ───上にある……? (………まだ寝ぼけてるのかな?) 目をぎゅっと瞑り、再び開き、瞬きを数回繰りかえす。 …………そして、僕は自らが間違いなく覚醒していることを確信し、 ごきゅんと音を立てて口の中のものを飲みこんだ。 「………おぇ……」 …………苦い……そして辛い しかし、今はそれどころではない。 眉を寄せて鏡に顔を近づけ、覗きこむ。 恐る恐るその異様なものに手をやると、 鏡の中の僕も同じようにそれに手を伸ばした。(当たり前だ) 「なに、これ……」 どう見ても、耳。 動物の耳。………犬の耳? 茶色い、耳。 ………それがどうして僕の頭から生えてるんだ? 「……誰かが……」 誰かが、僕が寝てる間につけた? 誰がだよ。 ………一人ツッコミができることを考えると、僕は冷静だ。おそらく。 ………それにこれは作り物じゃないような気がする…… ビロウドのような滑らかな毛触り。 ……毛……毛だよ、ね……これ…… 僕は、なにかの宴会芸よろしく喜劇的に変化した姿を、悪夢をみる思いで凝視した。 けれど、その夢は決して覚めることはなく。 何秒たっても、鏡の中には両手で頭から突き出た二つのそれを掴み、 色をなくした表情で口をぽかんと半開きにしている見慣れた顔があった。 しかもこれには恐ろしいことに感覚がある。 体になにか物が触れた時と同じように、ちゃんとそれに触れていると神経の感覚でわかるのだ。 作り物じゃなかったら、───ならば、それはどういうこと? 「………ほんものの耳……」 ウソだろう? 我知らず呟いた言葉に返る言葉はもちろんなかった。 茶色い耳は所有者の意思に関係なくぴるぴると震え、僕はますます真っ白になってしまった。 「おはよう優斗………なかなか斬新なファッションだ」 「……………貴一君、そういう心にも無いことを言うのは止めて」 おや、と器用に片眉を上げて、貴一君はドアを大きく開けながら僕を家の中に誘った。 ズカズカと人のうちの玄関に上がりこむ僕の姿とは言えば、 ……頭をバスタオルで包み顎の下で無理矢理結わいていた。 着ているものは家にあった誰のものかもわからない黒いロングコート。 おそらく父さん…さすがにこのセンス、兄さんのではないハズ。 僕はお世辞にも体格が良いとは言えないから、それを着るとほとんど地面を引きずるような格好になってしまっていた。 はっきり言って、我ながら超アヤシイ。 思いきり曲解してみたりしたら、「斬新」という単語もあてはまらなくもないけれど。 でも、僕にはそんな格好をしなければならない、のっぴきならない事情があったわけで……… 「こんな朝早くに、いったいどうした?しかもそんな格好で…暑くないの?」 もちろん暑いに決まっている。もう梅雨入りしてしばらく経った。 むっとする暑さの続くこの時期の日本でこんな恰好するなんてまったくの自殺行為だ。  勝手知ったる家ということもあって、家主より先に室内に乗りこんだ僕を追って、貴一君が不思議そうに尋ねてきた。 それはそうだ。まだ登校時間までかなりある。 朝陽の燦々と射しこむダイニングで、僕はくるりと振り向いた。 「貴一君……」 我知らず情けない声。………僕は結構動揺してるのかもしれない。 「ん?どうしたの?」 貴一君は柔らかく微笑んだ。 「……………」 「そんな格好して……なにかあったんだろう?」 ………幼馴染で一つ年上の貴一君は我侭で意地悪で厳しくて冷たいところもある人だけど、 でも本質はすごく優しい。 僕がほんとうに困った時とかなにか不安な時とか、どうしようもなく迷った時とか、手を差しだせば必ずその手を取ってくれる人。 僕はその優しい声に促されるように、もそもそと顎の結び目を解き、目を瞑ってバッとバスタオルを外す。 ずっと押し込められて寝ていた耳が立ちあがり、血行が良くなった気がして、僕は下を向いたままほっと息をついた。 すでに僕の神経と一体化している耳の感触はとても敏感なのだ。 唇を引き締めて貴一君の反応をうかがうと、彼はぽかんとした顔をしていた。 「へえ、よくできてる」 貴一君の反応は想像済みだ。 普通はこれを見たら作り物だと思うだろう。 っていうか、そうとしか考えないだろう。 だって、どこの世界に犬耳をもった人間がいる? 近寄ってきた彼は、そっと手を伸ばしてきた。 指が触れた、と感じた途端、ぴくりと耳が反応した。 「えっ……?」 ぎょっとしたように、貴一君が手を引く。 僕も吃驚した。 耳が動いた時、思わず体もびくりと跳ねてしまった。 だって、他人に触られる感触って、自分で触るのと違う。 なんか、思ったよりも、なんていうか………くすぐったいっていうか……… 「う、動いたよ……これ?」 「………うん」 「どういう仕掛けなの?」 ………まだ言うか 僕は今度ははっきりと耳を動かしてみせた。 どうあっても、機械とか人工物じゃあこんなことはできないよね。 挑むように見上げると、貴一君はきょとんとしていた。 「………それって……」 「………作り物じゃないんだ」 「え……」 意味を捉え損ねたのか、目を真ん丸く見開く貴一君に、更に付け加える。 「僕にもわからないんだけど、朝起きたら生えてた……」 「生えて………」 「ほんものの耳なんだよ」 「ほんもの……」 耳を見つめたままオウムのように繰り返す貴一君は、呆然としているように見える。 その反応の鈍さに、僕はちょっと焦ってしまう。 ………そういえば彼は低血圧だった…… (もしかしたら良く頭が働いていないのかもしれない……) でも僕は貴一君を頼るつもりで来たんだから、 ………貴一君なら、なんとかしてくれるんじゃないかって思って来たんだから、 きっと、貴一君ならって………だから…… そんな気合いを入れてじっと見つめていると、貴一君がこくりと息を飲んだ。 「も、もう一度触っていい?」 「う、うん……」 恐る恐るといった感じで、貴一君は僕の耳を撫でた。 触れて、撫でて、そっとつまんで。 ………やっぱり、なんか、気持ち悪い…… ちょうど、うなじのあたりを撫上げられているような、そんな感じ。 皮膚がざわざわして鳥肌が立ちそう。 「あたたかいね……」 貴一君は感嘆したように、溜息をついた。 その息がかかり、僕はびくりと身を竦めた。 吐息に微かになびく毛の動きさえ感じらてしまうような気がする。 「う、うん、……貴一君、………あのね……もうひとつあるんだけど……」 僕は多いに動揺しながら一歩身を引いた。 それでも貴一君の手が離れなかったので、もう一歩後ずさった。 ………離れない 「ちょ、ちょっと離してくれる?」 貴一君の表情が、どこか残念そうに見えるのは気のせいか? 名残惜しげに指をこすり合わせ、貴一君は離れた。 「なに?」 ───実は。 もうひとつ、あるのだ。 コートのボタンをグリグリといじくり回しながらもじもじする僕に、 貴一君は先を促すようにちょっと首を傾げた。 耳を見せておいて今更な気もするのだが…… でもちょっと、これを見せると決定的になってしまうような気がして…… 「あのね……」 僕は一瞬躊躇った後、着ていたロングコートをえいやっと脱ぎ捨てた。 こんなものを着なければならなかった訳。 「な………」 絶句した彼に、僕はシャツの下から伸びる尻尾を、ことさらゆっくりと揺らしてみせた。

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