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第1話
夜も更けはじめた住宅街は人一人通らず静かなものだった。
一日の疲れで漏れ出るあくびを繰りかえしながら、夜道を歩く。
自宅からコンビニへ続くる道は、歩きなれた通学路と同じく馴染み深い。
高校に入ってから二年と少し。いい加減、厭きたといってもいいのかもしれない。
狭い世界だ。
そして狭いなりに安定したこの小さな世界の片隅に、それはいた。
気づかないふりをして通り過ぎてしまうのは簡単だった。
でも心を留めて、目にしてしまった後に振りきるのはむずかしい。
巣食う後ろめたさ、苦々しさ。
立ち止まってしまえば、見過ごすことはきっと困難になる。
「どうしたの」
そうして、声をかけてみた。
かがみこんで、地面にうずくまる猫に手を伸ばす。
あたたかい。
ほっとしながらそっと頭を撫でると、ぴくりと耳が震えた。
しかし、その反応は鈍い。
「けがしてるのか」
ざっと見たところは大丈夫そうだが、もしかしたらうずくまっているせいで見えない箇所が傷ついているのかもしれない。
あるいは病気で動けないとか。
この寒空だから、寒さで衰弱してしまっているのかも。
細い手足。ロクなもの食べてないんじゃないのかな。
可哀想に。病院につれて行くべきか。厄介だな。だから行ってしまえばよかったのに。このまま放っておいたら死ぬかな。死ぬかもしれない。でも俺のせいじゃないし。
様々な思いが寸時に脳裏をかけめぐり、とりあえず途方に暮れる。
すると、壁に背を預けていた猫が、ゆっくりと顔を上げた。
「あ…」
思わず息を飲んで、手を引っ込めた。
暗闇に光る目が真っ直ぐに俺を射る。
動物と目が合ってしまった時にとっさに感じる、離しがたい感覚に縫いとめられる。
「…なに?」
猫は気だるげに目を細めた。
「…こんなとこいると、風邪をひくよ?」
「別にいたくているわけじゃない」
「ああ、そう…」
それはその。まあそうだろうね。普通はそうだ。
意味もないことを口ごもりながら、身じろぎを繰りかえす。
「…おなかすいてる?俺、おにぎりとか持ってるんだけど」
貼りつくような視線が全く離れないのがたいへん気になったが、俺は手にしたビニール袋のなかをガサガサと探った。
しかし、今晩の夜食を提供しようとした俺の好意をさえぎり、猫は言った。
「量産品、好きじゃない」
「…そう」
それはまた。
美食家の猫には係わらない。これは家訓だ。今日この時からの。
ツナおにぎりをしまいこむ。海苔の匂いが食欲をそそる。もしや鮭だったら食べたのだろうかとも思ったが、それはすぐさま打ち消した。
なんにせよ、これだけ自分を主張できる猫なら大丈夫だろう。
なんだか図々しいし。態度でかいし。そういうのが好きな人もいるだろうし。俺が気にかけることじゃなかった。うんうんよかったよかった。さあ帰ってごはん食べて課題の続きをしよう。
立ち上がろうとすると、くっとなにかが服の裾を引っ張った。
かまわずに行こうとすると、さらに強い力で引っ張られた。
さすがに振り向くと、くるりと光った赤い目が、俺を凝視していた。
「どこに行くんだ」
「家に帰るんだよ」
「ふーん、そう」
長い間があった。
コートに食いこんだ爪はまだ離れない。
変な姿勢だから腰が痛い。
「家に帰るの?」
「うん」
「そう」
猫は黙った。俺も黙った。腰が痛い。ため息をつきたくなった。
再びしゃがみこみ、服の裾を引っ張ると、猫の手は離れた。
ああ、穴が開いてる…
ため息をついた。
「…うち、来る?」
「俺を拾うのか」
「え?…と、その、いや、別に」
上目で見つめられて、口ごもる。
そうか、それは拾うという意味になるのか。俺が責任を持つという意味か。
ちょっとの間があき、その間にどうしようかと考えたがその努力は結局実を結ばず、俺は猫の薄い唇を見た。
「…拾わないのか?」
「…ええーと…」
路地の闇は排気のせいでわずかにあたたかかった。
ビルの裏側、薄汚れた壁に貼りついている室外機のモーターが無機質な音をたてる。
ゆっくりと身を起こし、猫は立てひざに肘をつき、軽く首を傾げた。
尊大な仕草。無邪気な態度。自由気ままな猫には良く似合う。
なんだかな。そんな風に言いたげに。
───言いたいのは、俺のほうだが。
「…うち、おいで」
「いいの?」
「……」
なにをいまさら。そんな思いが胸を過る。
「家のやつになにか言われないか?」
「あ、俺、ひとり暮らしだから」
「うん、知ってる」
「…は?」
にこりと笑いながら立ち上がる猫を、呆気にとられて見あげた。
猫はパタパタと服の埃を払い、パタパタと尻尾を揺らし、体をぐんと伸ばすと、髪をかきあげ、耳をピルピルふるわせた。
そして、つられて立ち上がった俺の顔をさも楽しそうに目を細めて眺め、その猫は、にこやかに手をさし出した。
「俺は──。よろしく。末永く」
「…聞き取れなかった、なんて?」
「まあまあ。おいおいでいーから」
じゃあ、さっそく。
猫は、俺の手を取って軽やかに歩み出した。
夜に落ちていた小動物の手は、俺の手より暖かかった。
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