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第1話

「……ホント?」 「本当です。いつも振られてんだ」  公園のベンチで隣に並んで、穏やかに澄んでいた心が音を立てて騒ぎだした。  公園に入るところのワゴン車の、ホットドッグ屋を営む夫婦とは既に顔なじみだ。  毎週日曜朝八時。休みの日なんてずっと朝寝坊のためにあると思っていたのに、その考えはもう百八十度回転して、完全に翻っている。  日曜日だけはもう逆だ。絶対に寝坊なんか出来ないし、というよりも、 体が先におぼえた。時計をうっかりかけわすれても、絶対日曜日だけは勝手に目が覚める。体が先に目を覚ます。  あのひとに会える日。 「いらっしゃい。ホットドッグとコーヒー?」 「はい。おはようございます」 「まだ来てないよ」 「はい」  顔が輝いている自信がある。犬の散歩をする中年の女性や、トレーニングをする中学生をみながら、ホットドッグを囓って、コーヒーを飲みながらあのひとを 待つ。  人間観察の趣味はいまだ実行中で、その上あのひとに会えるのだから毎週毎週この日が楽しみで仕方ない。  九時前後になるとやってくるあのひとは、いつもいつも初めてあったときと同じ笑顔を浮かべてくれる。免疫が出来るまで少し時間がかかった。けれどずっと 待っていてくれたから、もっとうれしくなった。 「――はい、どうぞ」 「ありがとう。いつもお世話になってます」  トレイとコップ、そしておまけだと言って付け加えてくれたブドウの粒。気のいい夫婦は手を振ってくれたりして、名前も知らない他人どうしでも交流は少し ずつ深まっている。  公園の中の白いベンチ、腰掛けて食べながら人の流れを飽きることなく見続ける。時間が近づくと少しそわそわする。とっくに食べ終わったホットドッグのト レイはきちんとゴミ籠に捨ててきたのに、捨てに 行っている間に来られたりなんかしたら大変だからなんて思って、ちゃんと捨てたよなと何度も周りを見渡して。幾分冷めたコーヒーを飲み損ねて気管に詰まらせた りする。  そうこう莫迦みたいにひとりで慌てていると、押し殺した笑い声がきこえてきた。 「……いつからみてたの?」 「たった今だ。おはよう」 「おはよう」  もう泣かなくなったな、と相変わらずの笑顔で、一人分開けてある僕の左側のベンチへ腰掛ける。足を投げ出して背もたれに少し背をかけて、横目でにやり と。 「ハンカチは常備してるぞ」 「意地が悪いな、――すきだよ」 「このタイミングでそれかな……」  ありがとう、とぼそぼそと返ってきた応えで幸せになれる。  コーヒーを飲み干して、コップを右側に軽く置くと、タイミングを見計らったように缶コーヒーが出てきた。しかも無糖。 「飲む? オゴリ」 「うん、ありがとう。嬉しい」 「どういたしまして。――あのホットドッグ屋のご夫婦、雰囲気が良いよな」 「あ、やっぱりそう思うよね。だから毎週買っちゃうんだよ」 「今日は自販機のお世話になったけどな」  くすくすと二人で笑い会って、そのままのんびりと空を見上げながら話を続ける。二人でいるときの時間はとてもゆったりとして穏やかでいる。 「ああいうふうに、いつか家庭を築けたらと思うんだ。隣の芝生でもさ」 「憧れ?」 「うん、まあガキの言い分なんだけど」  ちょっと苦笑して、おそろいの缶コーヒーを傾ける。 「まあ、それにはまずきちんとしたお付き合いをすることが大事なんだろうけど」 「……ないの?」 「あるよ。でも必ず振られるんだ」  落ち着いていた心が、急に騒ぎ始めた。だって有り得ない。このひとが振られるだなんて、このひとを振るだなんて。 「告白してもされても結果は変わらないし、みんな言うことも同じなんだ。俺のこと好き?」 「すきだよ。ひょっとして信じられないの?」 「いいや。ごめんいま聞いたのは何となくなんだけど。ありがとう。……で、みんな距離が変わらないから嫌だっていうんだ。はじめからおしまいまで態度が変 わらないからって。特別になれないならその冠は自分には相応しくないっ てさ」  ずいぶん素敵な振り台詞だ。  感動すると同時に、すこしさみしくなった。――特別を望むのは、僕だって同じだ。あのタイミングで出会えて、そしてこうしてしょっちゅう会えることが、 今は堪らないほど幸せだけれど。  いつかもっと僕も特別を望んでしまうのだろうか。いまでさえ十分なのに、これ以上を望む? 「うん、自分でも思うんだよ」  ひとりうなづいて、僕と同じ無糖のコーヒーを傾けて、かすかに笑みさえ含んで、言葉は紡がれる。 「確かに特別扱いしなかったなって。言われればデートもしたけど、それなりにエスコートとかしたけど、多分だれにも同じことは 出来るだろうって思う」 「……うん」 「だから、今は凄く不思議だ。朝が駄目な訳じゃないけど、早起きが好きなわけでもない。基本的に外出もしない方だ。なのに朝っぱらからこうやって家出たり して。毎週毎週、日曜日がた のしみなんだ」  心臓が止まったかと思った。逆だ。早い。  絶対今、小動物と同じかそれ以上だ。寿命が縮まる。勿体ない、でもこの言葉を聞けなかったら一生後悔する。  手にしている缶コーヒーを強く握りしめて、目をとなりにむける。  空を仰いでいるだろうと思ったのに、その目はまっすぐこちらを向いていた。 「お前に会うのが」  沈黙が数秒。答えを咄嗟に思いつかなくて、とにかく何かで応えたかった。そして息を吸った瞬間、――しそこねた。  ごほごほと気管に詰まらせて咳き込む僕の背中を、慌てたように撫でてくれる。  この手がすき、初めて触れてくれた。 「すきだよ」  この目がすき、まっすぐ僕を見てくれる。 「僕を特別に思ってくれるのがとても嬉しい、そういいたかったんだ。僕はとても好きだよ」  笑顔が好き、初めて見たとき喜びで涙が溢れた。 「振るとか振らないとか、冗談にしかならないくらい長く付き合おうよ」  存在が好き。僕の好きな飲み物を知ってくれてた。 「好きだよ」 「……そりゃ、よかった」  あのときと同じ返事、でも今度は本当に嬉しそうに笑ってくれたから。 「もう泣かないよ、今度は僕が泣かせてあげる」  そうしたら今度は僕が、ハンカチを常備する番だね。  この喜びを伝える相手は、きっとあなたしか居ないんだ。

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