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第1話

   6月の始め。本来なら梅雨が始まっているはずだが空はまったくの快晴であり日差しは初夏のそれである。  夏服で登校することをまだ許されていない学生たちは「もう夏じゃん」「梅雨はどーした」などと嘆きながらやぼったい長袖をまくるが、去年も同じ気候に見舞われたことは忘却の彼方である。  しかしその熱さを補うように流れる風は涼しい。特に最近は台風が近づいているためか突風に近く、女生徒たちの叫び声がそこかしこであがっている。雨がごぶさたなため乾ききっている地面から土ぼこりを舞い上げて人々の髪をかき回す。そんな荒れ狂った風が闊歩する戸外にいるよりもクーラーのきいた教室に居るほうがマシだと考えるのか、昼休みだというのに校庭を走り回る生徒の姿はまばらである。そんな少数の生徒たちはほこりと汗まみれで教室に入ることになることを考えると周囲から嫌われるのは間違いない。  そして、日差しと風が吹き荒れる中、ここ屋上で昼食を食べるモノグサな学生が二人いた。言わずと知れた幸村貴と和泉司である。二人は突風で髪がぐちゃぐちゃになるのもかまわずに、駅前のパン屋で買ってきた数個のパンを粗食している。  両者のうち、よりヘアセットに苦労したと思われる和泉は、最初いつもどおり屋上へ向かう幸村に酔狂な奴めなどと他人面をしていたが、教室の不健康な涼しさに中って早々と屋上に逃げおおせてきたのだった。  風の激しさにはじめは辟易していたものの、慣れてしまえば、また心地よいものである。あー崩れる…とは思っても、全身ホコリと砂利だらけになることには頓着せず、背をフェンスにあずけて下から吹きあがる風をもろに受けていた。つまりは無気力に身を任せて、ふたりは言葉もなくパンをかじっているのだった。  幸村は3個目のパンを飲み込んで、軽くため息をついた。  空を見上げると曇っているのか晴れているのか定かではない灰青色であるのに、真上に掲げる太陽は容赦なくぼやけた日差しを発している。そのうえはだけた学ランの内に湿気がこもっているようで気持ちが悪い。  肌を風にさらすために幸村は上着を脱ぐが、如何せん日も強いためこれではあまり意味がない、と、また息を吐き出した。  おまけにまだ食い足りない気がする。  いや、はっきりきっぱり腹が減っている。  幸村はどれだけ食べてもあっさり消化する自分の平たい腹をさすって、隣に放ってある和泉のパンに手を伸ばした。和泉は暑苦しい制服をとっくに脱ぎ捨て、シャツの前をはだけさせている。  風にあおられて飛ばれ誘うになる雑誌のページを手で押さえつつ、ゆっくりと2個目のパンをかじっている。  読みにくいのだからわざわざここで読む必要もないだろうに、と幸村は思うがそれは和泉の勝手である。  パンを掴んでビリとビニールを破く。  途端に、今まで沈黙していた和泉が素早く手を伸ばして幸村の手の内から己のパンを奪い返した。  そして安全なところへパンを避難させようとするのを、幸村がその端を掴んで引っ張る。 「こら離せ。」  和泉が雑誌から目をあげて幸村をにらむ。 「半分でいいからくれ。」  つべこべ言わずに素直に幸村は希望を口出した。  同じ育ち盛りとわいえ幸村ほど飢えているわけではなく、また食い意地もはっているわけではない懐の深い和泉は、仕方ねぇなと呟きつつ食べかけのヤキソバパンを大きく一口かじってから幸村に差し出してやる。 「おら。」 「おお。」  ありがたやありがたや、と大仰に拝んでから幸村はぱくりとパンを飲み込んだ。えさを与えた和泉はこれで安心と再び雑誌に目を落とす。  だが一口二口と食べるうちにあっというまになくなってしまったヤキソバパンに幸村はがっかりして、再び和泉にねだるような視線を向け始める。 「何だよ。半分やっただろうが。」  新しくクリームパンに口をつけていた和泉は幸村をじろりと横目で見ると、我関せずとパンにかぶりつく。  幸村は不服げに舌打ちをしてフェンスにもたれかかった。  褪せた金糸がパタパタと風にもてあそばれる。指を通すとバサバサと砂っぽい感触が伝わる。  学ランの上着を引き上げて腹の上にかけ、あーと口を開ける。太陽は厚いもやのような雲に隠され、辺りは照明を絞るようにぼんやりと暗くなる。  横風に不意をつかれて雑誌が飛ばされそうになる。おっと、とそれを掴んで、バサバサになった髪を少しかきあげ、またパンを口に運ぶ。  すると幸村はニョッと手を伸ばして、パンをもつ和泉の手に重ねた。  なんだよと驚いた和泉は、手に圧力を感じた次の瞬間、口元一帯がクリームまみれになっていた。 「なっ、お、前、なあ…。」  怒った和泉は口元をぬぐうより先に幸村をおもくそはたこうとする。幸村はそれを受け流して素早く和泉に詰め寄った。目の前に迫る幸村に目を瞠る間もなく、和泉は叫び声を上げた。  ざらりとした感触を唇に感じた事実に気づいた恐怖の悲鳴である。  わあっ!と腕を突っぱねて幸村を退けようとする和泉の顔は青から赤へ呆然から驚愕へとめまぐるしく変わる。 「何考えてんだこんのばか!」  フェンスに押し付けられた和泉は幸村の背を足でけりつけ自由になろうともがくが、幸村は尚も和泉の方を押さえつける。  瞬間ぶわっと吹き付けてきた風に混じった塵が和泉の目に入る。  思わず目をつぶった和泉の隙をついて、幸村は和泉の両腕を押さえつけた。 「むっ・・!」  むさぼるように舌を絡め取られ、和泉は酸欠と混乱で頭がクラクラするのを感じる。自分の腕を押さえる幸村の腕に手をかけるが力が入らない。奇襲の激しさに、あふれる唾液が口の端から伝い落ちる。 「はっ…、」  始まりと同じように唐突に離された唇に、和泉はしばし呆然と荒い呼吸を吐いていた。  幸村はその間に立ち上がってが上着を肩に引っ掛ける。  彼方へいざなおうとするように突風が駆け抜け、幸村は学ランのすそをはためかせながら、ずいっと蒼白な和泉の顔を覗き込んだ。 「もーそろそろ、空腹も限界だぜ。」  そういい残して幸村はさっさと踵を返した。  後に残されたのは口を開けたまま石造のように固まった和泉と荒れ狂う熱風だけであった。  和泉の冷や汗を風が奪っていく。    あーうん、風まじきもちい…。  まったくもって現実逃避だった。

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