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第1話

チャイルドリプレイ  こんなはずじゃなかった、という台詞の似合う人生を送ってきた。  どこで間違ったのかなんて自分でも分からないし、そもそもミスを犯した覚えもない。信心深い人間がたとえて言うなら神様の采配とやらが常に最悪のものばかりだっただけだろう。苦難の後には必ず幸福が訪れますだなんて、子供だましもいいところだ。  俺の苦難だらけの人生は、どうやら幸福という甘い蜜を吸う前に閉幕しそうなんだけど、そのところどうなんですか神様とやら。 「さて、どうしようか」  目の前の男は俺を見下ろすとまるで今日のディナーのメニューを決めるような気軽さでそう言った。彩度の低い金髪の青年は、髪の色によく映えた翡翠色の瞳を細める。 「……殺せよ」  切りそろえて磨かれた爪と、まるで苦労のひとつも知らなさそうな綺麗な指、白い手。そして握っているのは拳銃。  初めて見た。人殺しというやつはこんな手をしているのか。  後ろ手に縛られ床に転がされたまま、俺は男をにらみつけた。 「殺すのは最後」  煙草の脂で汚れた壁紙も、一度も磨いたことのない曇ったガラス窓も、右上の隅が欠けた壁掛けの鏡や擦り切れそうなタオル、毛羽立った灰色の絨毯、どれもこれも俺の日常にあるものだ。そう、昨日から何一つ変わっていないし明日も明後日も多分変わることがない世界。  そこに土足で進入してきた男は、俺の目前に銃をつきつけたまま笑った。 「誰に命令されてあんなことしたの」  何一つ変わりのない一日のはずだった。  空が明るくなる前だからかろうじて夜と言えるような時間に仕事を切り上げ、いつもの店で朝飯だか夕飯だか分からないまずい食事を食べて、家に帰ってとりあえず寝るつもりでいた。夕方ごろから妙に頭が重かったのだが、いつもの頭痛の予兆だろう。こういう時は薬を飲んで早く寝るに限ると、アパートの階段を上りながらこめかみを押さえ、多分買い置きがまだ残っていたから――  そう思いながら部屋のドアを開けた。  次の瞬間、俺はものすごい力で腕をつかまれ室内に引きずり込まれた。そのまま叩きつけられるように押された。とっさのことで声も出なかった。頬に鈍い衝撃が走り、頭を押さえつけられてようやく自分が床に倒されたのだと分かった。何が起きたのかは分からない。ただ強いパニック状態になって悲鳴をあげそうになった。そして喉から声がもれそうになった時、今度は腹部に衝撃を受けた。仰向けに転がる。次は肩。 「動くな」  そこにいるのはありふれた黒いスーツを着た金髪の男だった。片足で俺の肩を踏みつけている。表情は良く見えない。ただその手に握られた銃が真っ直ぐに俺の額に向いていた。 「やっと会えたね、仔猫ちゃん」  盗んだものを返してもらいに来たよ。  男はいっそ楽しそうな声で、そう告げた。  多分俺の何一つ変わりのない一日はここで終わったのだろう。  そして多分、このくそくらえな人生も。 「誰に命令されたかも言わない、金はどこにもない」  男は空いたほうの手で俺の前髪を無造作につかむと、無理やり顔を引き起こさせた。 「そんな言い分が通用するとでと思ってるの」  間近でみる男はとても綺麗な顔立ちをしていた。甘いマスクというやつだろう。もし俺が女だったら、こんな至近距離で見つめられたらきっとどうにかなってしまいそうな、そんな笑顔を浮かべている。 「早く言った方が身のためだと思うけど」  言っても言わなくても同じだろう。  そう思ったが口には出さなかった。けれど俺の態度から何か感づいたらしい。男は銃を握っている方の手を振り上げた。  前髪をつかまれたままだったから、よけることはできなかった。男は実に無造作に、銃底で俺の頬を殴りつけた。横倒しに吹っ飛ばされる。頬は痛いというよりただ熱かった。 目の前に見えるのはくすんだ色の絨毯。それから小さく鈍く光る何か。  あれはなんだろう。  俺の視線に気がついたのだろうか。男のつま先がそちらの方を向いた。そしてその白い手でそれをつまみあげる。指の端から銀色の鎖が伸びている。  なんだ。  それを見た瞬間、体から力が抜けた。何でこんなときに。  信心深い母さんがいつも身に着けていた十字架とマリアのメダイ。今わの際に母さんはその十字架を俺にくれた。そして神様の信心のためではなく、約束のために今日の今日までそれを身につけていた。  殴られた頬がしびれている。男は手の中の十字架を見ている。  そして、笑った、ようだった。  こんな人間に神様だって救いの手をさしのべてくれるはずないと、嘲笑しているのだろうか。男は十字架を床に落とすと、こちらを向き直った。 「いいことを考えたよ」  そしてしゃがみこみ、俺の顔を覗き込んでくる。男の指が頬に触れているようだったが、感覚もなかった。指は何度かゆっくりと俺の頬を撫で、止まる。 「死にたくなるような目にあわせてあげる」  そしたら少しは喋りたくなるかもね、と男は甘くささやくように言った。  背中に男の体重を感じる。立てた両膝と床に押し付けた頬だけでそれを支えるのはひどく負担だった。這いつくばったまま背後から男に無理やり侵入されて、繋がった場所からは痛みしか感じなかった。無意識に逃げようとする腰を片手で抱えられ、何度も単調な抽送を繰り返される。  性的なものをまったく感じず、純粋な暴力を受けているようだった。男に犯されるという屈辱も痛みの前にだんだん麻痺してくる。後ろにしばられた手首や叩かれた頬、男に無理矢理広げられた部分。頭の芯が重い。  目は開いているのにものを見ているという意識がなかった。視界の中にさっき千切れ落ちた十字架が見えていたけれど、何も感じなかった。まるで痛みを前に感覚が麻痺するように、心が麻痺したようだった。  されるがままに男を受け入れながら、このまま殺されるのだろうかと考えていた時だった。深く貫かれ、とっさに声があがる。背後で微かに男が笑ったようだった。 「ねえ、どんな気分」  耳元に唇を寄せてささやかれる。その息に震えを覚えて目を堅く閉じた。そのまま男は頬擦りするように顔を動かすと、俺の唇の端を舐める。  そして顔を離すと、動きを止めた。 「俺は」  そのまま、繋がったまままるで抱きしめられるように体に腕が伸ばされる。 「俺は神様なんて信じてなかったよ――今日まで、ね」  一瞬、男が何を言っているのか分からなかった。 「でも今日からは信じてもいい」  そして俺の耳の上のあたりの髪をかきあげて、またささやいた。  目を開けて。  その声に、嫌な予感がした。目を開けたところにあるのが自分の汚いアパートの部屋の光景だと分かっていても、嫌な予感がした。脳裏に、床に落ちた十字架の鈍い銀色が浮かぶ。  信心深い母さんがいつも身に着けていた十字架とマリアのメダイ。今わの際に母さんはその十字架を俺にくれた。そして神様の信心のためではなく、約束のために今日の今日までそれを身につけていた。  神様に向けられたものではなかったけれど、俺は信じるためにそれをずっと身に着けていた。  今わの際に母さんは十字架の方を俺にくれた。そこにマリアのメダイはなかった。あれは約束と共に分けられた。離れ離れにならないように、離れてもきっとまた逢えるようにという約束を誓うために、2人で。いつも母さんの胸元にあったマリアの顔を、よく覚えている。見間違えることなんて絶対無いだろう。  目を開けてはいけない。分かっている。けれどもう一度小さな声で言われて、震えるまぶたを恐る恐る開けた。  視界にあるのは薄汚れた絨毯、転がった十字架、変色した壁紙。その手前に背後から俺を犯す男の、胸元。  それを見た瞬間思考が止まった。 「死にたくなるような目にあわせてあげるって言ったでしょ」  男はスーツの胸元をゆるくあけていた。首筋から床にまっすぐぶら下がっているのは、銀色の鎖。そこに通されたマリアのメダイ。  どうしてそれを、お前が。  見間違えることなんて絶対無い。あの日母さんがくれた十字架の片割れ。どことなく母さんに似た面影のマリア。そう、お前は小さい頃からそれが好きだった。だから母さんはそれをお前に与えたんだ。 「ねえ、弟に犯されるのはどんな気分――兄さん」  喉の奥に何か熱い塊がこみ上げてくる。吐き出そうとしても吐き出せない。口を開けても呼吸すら満足にできない。どうして、どうしてどうしてどうして。  そして俺は意識を失った。

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