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第1話
車のクラクションの音で目が覚めた。
半分以上眠っているような頭で確認すれば、まだ時計は明け方を示している。春のこの時期だと日の出にはまだ時間があった。それでもかなり日が長くなった窓の外は、暗闇にはほど遠い。
枕元の時計を確認するために伸ばした腕に、明け方の冷えた空気が染みこむ。さみ、と音には出さずに呟き、そのまま眠っている隣で眠っている恋人を抱き込んだ。眠る体のあたたかさが染みこむようで、縮こまっていた体から力が抜ける。
全く、こんな時間に住宅街でクラクション鳴らす馬鹿は、何を考えてるのだろう。おかげでまだまだ眠れたはずだというのに、変な時間に目が覚めてしまった。
午前四時。カーテンの隙間からもれる光は、まだやわらかくて弱い。
寝直すにしても、腕を冷やした寒さのせいで妙に目が冴えてしまった。ここ数日続いた五月らしくない気温の名残を引きずって、気温はかなり低い。
昨日眠ったのは相当遅く、例えそうでなくても熟睡しているような時間帯だ。さっさと寝直そうと、抱え込んだ体ごと改めて布団に潜り込む。
その動きに反応したらしく、隣で眠る体がわずかに身じろいだ。
「ん……」
寝言にも満たない声を上げて、恋人の体がすり寄ってくる。恋人──槇原玲。ようやく部活仲間から一歩進展して恋人などという大層な関係に当てはめることができるようになった。
今まで抱え込むようにしていた体温が、体を動かした拍子に離れて寒さを感じたらしい。散々寝る直前まで体力を使っていたおかげか、玲が起きる気配はないようだ。よかった。ほっとした気持ちで、抱え込んだ至近距離の寝顔を見つめた。
連日の練習で鍛えられているはずの体は、それでもまだ細い。そう大きくもない自分の腕に納まる程度だ。
細い、同性の体。他の何よりも欲情する。
初めてこの体を抱いたのは、甘い感傷などではなく、青臭い衝動とどうしようもないほどせっぱ詰まった感情が怖かったからだ。もし抱いたなら、体で即物的に繋がったなら、何かが変わると信じていた。
だけど抱いて知ったものは、どうしようもないほど絶望に似た何かだった。
どうにもならない。その事実を思い知っただけだ。
どれだけ抱いても、内側まで侵しても、結局熱が過ぎ去ってしまえば何も変わらない。それなのに取り返しが付かなくなった。そして引き返すことができなくなった。その恐怖。筆舌に尽くしがたい。
「玲」
起こさない程度の声で、腕の中の愛しい存在の名前を呼ぶ。絡めた脚も、すがりつくように回した腕も、規則正しい呼吸と体温を伝えてくるだけだ。
もう肌に触れることを知ってしまった。だから、状況と時間が許す限り、玲に手を伸ばす。そして触れてその熱に溺れて、いつしか失うことに怯える。
いつか、この恋は終わる。知った誰かに終わらせられる。
そんなものに怯えていた頃が、どんなに幸せだったか。
きっともう自分は、どうしてもこの関係を自分から終わらせることができないだろう。
玲の幸せを考えるなら、どう考えてもふさわしくないこの関係を、わかっていてもどうしても終わらせることができない。越えてしまう前なら、青春の過ちだったとでも言ってやり過ごせたはずのものは、もうどこにもなかった。
「――――れい」
わずかに抱いた手に力を込める。
いつか。
玲の家族が泣いても、走ることを玲から奪う結果になっても。
この手を離すことはもうできないのだろう。もういいよ、と解放なんてしてやれない。離そうとする手をつかみ取って、何もないところへ逃げ出すだろう。
何もない場所なら、二人きりになれる。他に何もない、その空虚さがもたらすのはどんな甘さだろう。
『おまえと一緒にいられるの、嬉しい』
昨日、そう言って玲は笑った。
こんな薄暗い感情など知らない、そんな表情で。
それがおかしくないほど、自分たちは子供だ。一つのことに夢中になって、ただ与えられる物を当たり前だと享受することを許されている。
もう戻れない。ならば、どこなら引き返せたのだろう。
目の前で繰り返される穏やかな呼吸を、どこか泣きそうな気持ちで聞いた。
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