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第1話
「もう大丈夫だな」
そんな捨て台詞を吐いて男は姿を消した。
ガチャンと体を重厚な扉がドア枠に擦れる金属音がやけに永く響いて聴こえて。
どうして?
喉がかすれて声にならなくて、腰の抜けた足はペタリと冷たいフローリングの床に張りついてしまったよう。
身動きも取れないまま閉まったあの冷たい扉をただただ眺めていた。
ほんのりと温かさが混じり始めた頃、すでにスズメは鳴きながらエサを探し、テレビは爽やかにお決まりの挨拶を告げ昨日起こった衝撃的なニュースを淡々と話す。
やがて、ベッドのヘッドボードに置いた目覚ましが眠りから目覚めるためのタイムアップを指し示しキリキリと耳に痛い声を上げるから、重い体を引きずって僕はようやく動いた。
本体から少し出っぱった頭頂部にカチリと軽く触れれば、あれほどやかましげに鳴いて動きは身を潜め、再び静かさの訪れた世界の中で目的を失った身体を目の前のベッドへと投げた。
少しした後、パーカーのポケットに入れた携帯がそろそろ出かける時間と声をあげ、かろうじて職場に掛けた電話に賞賛を贈りたい。
それだけやれれば上出来だ。
だってなにをする気にもなれない。
なにをすることもできない。
無気力な身体は息をすることさえも苦しい。
食欲はまるでなくて、トイレに行くことすら億劫で、ただただひたすらに今までのことを思い出したり、なにが悪かったのか考えたり、ぼんやりと過去を探ることしかできなくて、どうしても取り戻せないなにかを想像する。
貴方がいないことをまだ信じられなくて、本当は嘘だよ、って今にも扉を開けてくれるんじゃないか、ってそんなしあわせな想像をしている最中、頭の何処かにいる冷静な自分が、おめでたい奴だな、と冷たく切り捨てるのだ。
もうここには戻ってこないんだと思う。
もしかしたら飛んだ奇跡が起きて街中でバッタリと会えるかもしれないけれど、きっと望んで会うことは出来ない。
そういうつもりなんでしょ。
昔見た他の男に向けた背中を今度は僕が見る番だっただけ。
ズタズタにされてぼろぼろの僕を拾い上げて、優しく微笑んでくれた貴方に大切に守られていた幸せなあの頃、血走った目で貴方にすがりついたあの人の不幸は、僕へと重なってゆく。
きっと君も捨てられるよ。
口の端を歪めて笑ったあの人のまるで悪魔の予言のような言葉に、震えた身体を擦りつけて甘えていた僕は信じられなかった。
けれど、あの人の言葉が僕の胸の奥底に突き刺さり離れられないまま、やがて来る昨日にずっとずっとずーっと暗い影を落としていた。
明るい日差しは影を差し、暮れ始める空のまばらな色合いは輝きを変え、どっぷりと終わりを告げる夜が来る。
そんな日々か当たり前になって、貴方の優しい眼差しの微かな違和感に触れて思い出す。
いつ来るかわからない決定的なその日まで、訪れる恐怖に怯えていたんだ。
離さないでギュッと手を握ってくれたあの日、僕はゆっくりと動き歩き始めたように、また明日を迎えられるだろうか。
ほんの少しだけ貴方がいなくなる日を待ち続ける日々は終止符を終え、いなくなることを怖がることはなくなって、代わりに空虚な思いが支配する。
今は在りし日の思い出にただ一人しがみつくことで、今日もまた今日という日を終えられる。
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