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第1話
「・・・俺、このシーン大好き」
真っ暗な部屋。音のないテレビの明かりだけが、ちらちらと瞬いている。画面に大写しになった顔は、鏡で見慣れたものではあるのだが、テレビの画面越しに見ると少し違って見える。最初の頃は、ひどい違和感があった。今は・・・今はよく分からない。多分、あれが自分だと思えなくなったからだ。演じる自分。演じる者を演じる自分。
まぁ、それを抜きにしても、自分はこんな顔はしない。
「みっともない顔」
女を追って涙をこぼす男。唇の端で嘲笑う。ひどい顔だ。ひどいシナリオ。泣き落としなんて、バカみたいだ。追いすがって、捨てないでとわめいて見せる。馬鹿馬鹿しい。
「そう?可愛いけどな」
「泣いてるのが?」
「んーん?・・・まぁ、泣いてるのも?」
ベッド脇で紫煙を燻らせているのがこの家の主で、この趣味の悪いドラマはこの男のお気に入りだった。別に、直接聞いたわけではない。ただ、この家に籠っていたここ数日間、昼夜構わずこのドラマのDVDをながし続けていたという事実があるだけだ。数年前のドラマで、俳優になって初めての主演作品だった。この撮影は、だからよく覚えている。このシーンの撮影に使った銀杏並木は穴場で、田舎の町の、静かな、美しい場所だった。虚構の中の、確かな現実。黄色い葉と、銀杏の香り。
「・・・実を言うと」
赤く燃えるタバコを口に加えたまま、男は言った。
「このシーンが好きなのは役者がどうのって話じゃなくて、このロケ地」
この銀杏並木、近所なんだ。母親の実家の。
彼はそう言って笑った。
単純な驚き。
「ここ?あんたんち、近いの?」
「俺のうち、っていうかばあちゃんの家だね。っていっても、ばあちゃんはもう亡くなっちゃってていないけど」
思い出がある、と男は言った。小さい頃、母親に連れていかれた祖母の家は、青っぽい畳の臭いがしていて。庭の隅の小さな畑でできた野菜を、祖母と一緒に収穫した。夕方になると、散歩にいく祖母のあとをついて、この銀杏並木を歩いた。
「そのすぐあとに両親は別れて、俺は父親に引き取られたから。ばあちゃん家に行ったのはそれが最初で最後だったんだけどね。なぜかめちゃめちゃ記憶に残ってて。特にこの銀杏並木はさ、すごい、綺麗だろ?」
別に、このドラマを最初から見ていたわけではなかったと、彼は言った。夜、たまたまつけたチャンネルで、記憶の通りの銀杏並木が写っているのを見つけて見入ってしまった。
「ドラマのDVDなんて買ったの、これが最初で最後だよ」
テレビから男に目を転じると、その瞳には黄色に色づく銀杏並木がいっぱいに写っていた。その横顔の吸い込まれそうな美しさは、記憶の中の銀杏並木の美しさと、よく似ていた。冬を目前に控えた冷たい風。風にさざめく銀杏の葉の、かさかさという葉擦れの音。一瞬、強さを増す風に煽られ、数枚の黄色い葉が枝から引き剥がされて落ちてくる。
「…見に、行きたいな」
「…なに?」
思わずこぼれ落ちた言葉に、男は少しの間を置いて応じる。画面の銀杏が消える。彼の瞳は、泣かないはずの男の顔を映し出す。誰でもない自分。誰にも求められない、ありのままの自分。その顔は、鏡で見るのとはやっぱり少し違っていて。それでも確かに、自分の顔だった。
「見に行きたい」
その目に映る銀杏並木を、オレも、見たい。
「…泣いてる?」
「感動してる」
「何に?」
「…なんだろう?」
分からない。けど、心が動く。暖かい、暖かさが、染みる。じわりじわりと染み出して、瞳から溢れ出る。演技なんかじゃない。これは、現実。溢れる涙を拭おうとして、手を動かしかけ、ガシャリと音がしてその動きを阻まれる。
「…これ、外して」
「手錠?ダメだよ。手錠を外したら、君は逃げる…そういう設定だって、言ったでしょ」
悪びれもせずそう言って、彼はタバコの火を消してぎしりとベッドを軋ませた。
「神原行人は誘拐されて行方知らず。俺は犯罪者」
両手をベッドに拘束され、裸体をベッドに横たえた神原に、誘拐犯は静かに覆いかぶさり、瞳から溢れた情動は、彼の熱い舌に絡め取られ飲み込まれる。
見られることに疲れて、評価されることに傷ついて。逃げ出したかった場所から救い出してくれたのは、この男だけだった。ひどいことをしてほしいと頼んだのは神原の方で、携帯も取り上げられたまま、自堕落に体をつなげ続けたここ数日の主導権は完全に自分が握っていた。
「…そういえばあんた、仕事なにしてるの?」
年齢も、名前も知らない。初めて会ったその日、ヤケになってグラスを煽っていた神原を止めたのが彼だった。何もかもから解放されたいと呟いた神原を、攫ってあげると連れ出したのは多分、この銀杏並木のおかげだったんだと、今知った。
「写真、撮ってる」
目元の雫をなめとった舌が、今度は首筋に触れ、微かに体が震える。ほとんど冷めかけていたはずの熱が、彼の動き一つで蠢きだす。
「っ、だからっ…こんな事してて大丈夫なんだ」
唇が首筋をなぞり、さらに下へ降りて行く。
「平気…ではない…けど、たまには…」
現実逃避もいいかなと思って。上目に見上げて囁く彼は、薄く笑んでいる。胸元の、今まで意識していなかった突起に熱い吐息が触れて、ゾクリとする。ここ数日で教え込まれた快感を、全神経が追っている。
見せつけるようにゆっくりと舌を伸ばすその動きに、体が震える。期待。与えられる心地よさに、体が、心が、歓喜する。
辞めよう。
演じることを辞めて、自由になりたい。
この男の前でなら、自由になれる。多分。予感がしている。
年齢は、20は違うだろうと目測をたてる。顔は悪くない。セックスも、ねちっこくてスマートで、好感が持てる。肌の質感が好きだった。油の抜けた、少しカサついた肌触り。
舌先が敏感な突起を弾く。喉奥から声が出た。はぁと、吐く息が熱い。
明日、朝が来たら。事務所に電話をして辞めさせてもらおう。旬を過ぎたタレント一人、止められることはないだろう。そうしたら、この男を食事に誘う。別に、特別いい店でなくていい。騒がしくて、酒の飲める店。気に入りの店がいくつかあるから、その中のどこか。明日は金曜日で混むだろうから、昼のうちに予約して。
2人で酒を飲んで、話をして。そうしたらもう一度、今度はちゃんと、頼んでみよう。あんたの思い出の銀杏並木を、一緒に見に行かせてほしい、と。
ただ、とりあえず今は、
「っ…あんた、名前…なんていうの?」
「……雨宮」
暖かく抱き入れてくれるこの温度に、呼び名が欲しいと思った。
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