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第1話
押入れの奥に体をねじ込み、はるか昔に使ったきりになっていた裁縫箱を探していた。しまい込んでいた一張羅は、袖のボタンが取れかけていて、できれば今日中にそれを直してしまいたかった。今週末、友人の結婚式に呼ばれている。
菓子の空き缶を入れ物がわりにした裁縫箱はすぐに見つかり、古川はそれを引っ張り出したが、その時、手前にあった別の箱に肘を引っ掛けた。
「あ、やば」
呟いた時にはすでに遅く、宙を舞う箱は目視したものの受け止めることは不可能で、これもまた菓子の空き箱を転用したらしい紙箱の蓋が空中で開き、中身が床に撒かれる様を、古川は苦々しい気持ちで眺めていた。その間1秒。
バサッと音を立てて四方に散ったのは、大小様々な便箋や封筒、それからハガキ。宛名は全て、戸塚優希。
少し、意外に思う。こういうの、取っておくタイプだったんだ。真面目なことは真面目だけれど、良くも悪くも遠慮のない振る舞いをする男で、人の機微には疎い方だと思っているから、なんとなく、人の想いのこもっていそうな手書きのメッセージを、大事に押入れにしまっておくというのは、意外な気がした。
とはいえ、他人宛の手紙など覗き見るものではない。見られたと思うのも気分が悪いだろうから、あいつが風呂から上がる前には元どおりにしておこうと、散らばった手紙をかき集めて箱に戻す。封筒に入れたままの手紙やハガキは、重さがあるため散らばりにくかったようで、ひっくり返った箱の下敷きになっているものがほとんどだった。おかげで、大方の手紙はほんの10秒ほどで元に戻った。遠くに散らばったのは全て、便箋のみで箱に収めてあった手紙たちで、空気抵抗に導かれるまま、ひらりひらりと宙を舞ったいくつかの手紙を、古川は一枚づつ拾って歩いた。
色も触り心地も大きさも様々な便箋の一枚一枚に、誰かの手が生み出した文字が書かれていて、それを拾い上げながら古川は何か少し、懐かしい気持ちになる。
手紙を書いていた。
もう10年も前になる。高校3年の夏。あの夏は猛暑で、日中熱せられたアスファルトの熱が、夜になっても地上を焼いていた。部活の引退から1週間。落ち込むことを許される期間はそれほど長くはなくて、そろそろ、受験に向けて切り替えなければならない時期だった。が、サッカーばかりしてきた身体が、机に一日中かじりつく生活に順応するまでにはまだ少し時間がかかりそうで、気力も集中力もしばしば途切れ、その度に、古川は窓の外をぼんやりと眺めていた。
あの頃はまだ、自分が他人と違うことを飲み込めていなくて、ただ何か食い違っている感じはしていて、でもそれを何とか普通の枠の中に収めようと、必死で戦っている最中だった。
女の子に、触りたいと思ったことがなかった。多分それはずっとそうで。中学生くらいまでは、他人も自分も難なくごまかせていた。別に、女の子に興味のない友達はたくさんいたし、そんな話ができなくても何も困らなかった。高校に入って、事情が少し変わってきて。周りの話についていけないことが増えた。けど、まぁ、もともとの性格的にごまかしたり合わせたりするのは得意だったから。他人は騙し続けることが出来た。けど、自分は。なかなか思うように騙されてくれなくなった。そして、高3の春のクラス替え。
『古川、哲郎?』
隣の席から古川の方を向いて。哲郎って感じじゃないよねぇ?といかにも優希な彼は笑った。
そうしてそれから、古川はもう、自分を欺くことが出来なくなった。
戸塚優希はバスケ部で、だからだろうか、年中生白い肌をしていた。明るくてフランクで、クラスで何かしようという時には、自然にみんなの真ん中にいるような、そんな感じ。
最初に座席が隣になったのはたまたまで、それからよく話すようになった。最初は小さな趣味の話、部活の話、進路の話。それから、恋の話。
『テツローは彼女ほしいとかないの?』
多分、二人きりの教室だった。外は梅雨時の冷たい大雨で、サッカー部の活動が急遽休みになった。バスケ部はもともと休養日で、部活くらいしかやる事を知らない二人、なんとなく、雨が降りしきる曇天を眺めていた。
『……彼女は、ない、かな』
嘘はついていないと、机の上の拳を少し、強めに握り込んだ。嘘は、ついていない。
『そっかー』
間延びした声で応じる戸塚は、古川の前の席の椅子を拝借して、背もたれを抱きかかえるようにして座っていた。顔は窓の外を向けたまま、古川は視界の隅で戸塚を窺い見る。外を眺める戸塚の横顔は無表情で、何を思っているのか、そこからは何も読み取れない。
何を考えているのか、古川には分からなかった。
『…優希は?』
ままよと思い口にした言葉は、古川の心情を映して、微かに震えていた。
『俺はねぇ…うーん、どうかなー…今はいい、かな』
前に彼女がいたことは知っていた。結構長く付き合っていたような話も聞いていて、だから、何も知らない、わけではないだろうと思う。
俺とは違って。…なんて、卑屈。
握りしめた拳はそのまま、口角を目一杯引き上げて、おどけた笑いを作ってみる。
『なんで?優希、すぐ彼女作れんじゃん』
『まー、そー、だけど』
『否定しないのね』
『否定する方が嫌味じゃね?』
こちらを向いて、ニヤリと笑う口元がセクシーだと思う。右目の下の泣きぼくろとか、体育の時にちらりと見えた、綺麗に筋肉が乗った背中とか。
触れたい、と思った。
茹だりそうな熱帯夜。地上は爛れそうな暑さなのに、月は青白く、涼しい顔をしていた。
あいつみたいだと、思っていた。白くて、綺麗で、遠い。焦がれている。
焦がれている、と書いた。
今日、学校帰りに立ち寄った文房具屋で、たまたま見つけた青い便箋に、古川は一言、そう書いた。
焦がれている。
いい感じだ。そんな感じ。ジリジリと表面を焼かれるような焦燥感は、まさにこの言葉がぴったり。それから…それから。
乾いている。
焦がれて、乾いて。砂漠のような場所にいる。君は蜃気楼。砂漠のオアシス。見えるけど、そこにない。手が届くことはない。
大切なもの。大切で、無くしたくないもの。
誰にも届くことのない手紙は、散文のようで。断片的な言葉に実体はなく、書いたそばからサラサラと流れ落ちていってしまうようだった。
それでも。誰にも知られず報われない想いがあまりにも不憫で、古川はただ、書いた。
誰にも渡る予定のない手紙。多分あれが、人生で初めての、最初で最後の、手紙だった。
そう言えば、あの時書いたあの手紙はどこへやったのだったか。
便箋を一杯一枚拾い上げながら、古川はふと考える。
確か、捨てようとして、捨てられなくて。教科書に挟んだような気がする。あの時は、とりあえず。それで、そのあとは…見た記憶がない。青い便箋一枚だった。
そう、ちょうど、こんな色の。
裏返しになって落ちていた便箋を拾い上げ、あぁこの色だと、セピアの記憶が一瞬、鮮明な色を湛えて閃いた。
この色の便箋だった。大きさもちょうど、このくらい。
「…テツのえっち」
突然、背後からするりと肩を組まれ、古川は思わず、びくりと肩を揺らす。風呂上がりの体温。石鹸の香り。
戸塚はくっと喉奥で笑った。
「……あ…ごめん。ちょっと落として」
ばら撒いちゃったと肩越しに振り向くと、至近距離の戸塚は締まりなくにやけた顔で古川を見返し、んー?と小首を傾げて一瞬、じっと古川の目を見返した。ほんの一瞬。漆黒の瞳の向こうの、甘やかな揺らぎ。
「…バカだなぁ」
戸塚の薄い唇がかすかに開き、そんな言葉を呟いた直後。彼のまぶたはふわりとその漆黒を覆い、古川の唇を、風呂上がりで柔らかくなった戸塚の唇がやんわりと包んだ。
こくりと、無意識に喉がなる。
唇で唇を食むのが戸塚のお気に入りで、ふわふわと触れるだけのキスの間、古川はされるがままになり、戸塚のいいように弄ばれる自身の肉に、微かな嫉妬すら覚える。耐えきれなくなり古川が主導権を握りかけると、戸塚が連れなく身を引くところまでが、一連の流れ。
「っ、いつも自分ばっか」
ははっと声を上げて笑う戸塚はもう、古川を向いてはおらず、ソファに向かう背中がひらりと振った手には、つい先ほどまで古川の手にあった、青い便箋がつままれていた。
「懐かしいな、コレ」
背の低いソファにボスンと音を立てて体を埋めて、戸塚はその便箋をライトにすかすようにして掲げ持った。
青い便箋に灰色の線が引かれているだけのシンプルな便箋に何が書かれているかはもう、疑うべくもなく。覚えのある字体で散文のように綴られたその言葉たちは、本来ここにあるべきものではないのだと、古川の手には知らず力が入り、握っていたいつくかの便箋がひしゃげて、くしゃりと微かな音がした。
「……何で、優希が持ってんの」
少し、息苦しい。秘密に、生身の肉の奥深くに、誰の目にも触れないように、小さく小さく丸めて埋めておいた最奥の秘密に、素手で触れられたような。綺麗な秘密ならまだいい。笑える秘密なら、まだいい。でも今、戸塚の手に握られているその秘密は、血肉に塗れてどろどろに汚れている。そしてそれが、古川が戸塚に向ける想いの正体で。恋というラベルをつけて、綺麗な紙で、豪奢なラッピングを施した見てくれだけの想いを渡して。古川はそれで良かった。それだけで良かった。…それなのに。あろうことか今、汚れた中身の根幹は、古川が一番それから遠ざけたかった当の本人に握られていた。
青い便箋。綺麗な指先に握られた、綺麗な空色の便箋。
「んー?拾った」
「……嘘」
「嘘じゃない」
けどまぁ、正確でもないかなと、こちらを向いて彼は笑い、ソファの背もたれに首を預けた姿勢のまま、こっちに来いと手招いた。
こんな状況でも、そらされた喉のラインが色っぽいとか、そんなことを考える自分が、なんだか笑える。ずるりと足を動かしてみる。ほんの数歩の距離が、今は何故だか、ひどく遠く感じた。
「…お前さー、言い逃げした日、学校に荷物全部置きっぱにしたじゃん。そんで俺持ってったの」
覚えてる?と問いかける男を見下ろして立つ。その古川自身の影が、便箋と戸塚に覆いかぶさる。影。黒い影。
その中で、相変わらず色白の彼は、お日様みたいに笑っている。
「あんときのテツひどかったよなー。好きって言って、俺のこと置いてっちゃうし。日直の日誌も途中だから俺が書いて、お前のと自分のと、リュック二つ背負って帰ったんだけど」
そう。そうだった。手紙を書いて、多分、それで。古川のタガは外れてしまって。
夏休み明け、残暑も厳しい9月のあの日。古川の日誌が出来上がるのを待っていた戸塚の横顔に、その姿に、溢れた思いが口をついて漏れ出して、訳が分からなくなって逃げ出した。絶対に言うつもりのなかった想いが溢れ出して、止まらなくて。両手で口を押さえて走ったら、今度は両目から、想いが溢れて止まらなくなった。
そう、ちょうど、今みたいに。
「…っ、なんで…優希が、持ってるの…っ」
見られたくなかった。こんな、独りよがりなラブレター。
好きで好きで好きで仕方ない。あなたも、俺のことを好きになればいいのに。あなたを普通から引き離したい。俺が、可愛い女の子なら良かったのかな。そうしたら、こんなに難しくなかったのかな。あなたを俺だけのものにしたい。俺だけのものになってほしい。鎖をつけて閉じ込めてしまいたい。俺以外の誰にも笑いかけないように。俺じゃない誰かを選ぶあなたなんて見たくない。でも、あなたはきっと俺を選びはしない。ならいっそ、あなたが存在しない世界に生まれたかった。
消えてしまえと、願った。願ったのだ、確かに。こんなに苦しい思いをするくらいなら、あいつの存在を、跡形もなく綺麗に、忘れ去りたい。忘れるだけじゃ足らない。俺の知らないところで、知らない誰かと共にある可能性が嫌だ。ならいっそ、消えてほしい。かけらも残さず、消えてほしい。そう、願った。
「…やっぱ、バカだよね、お前」
ぼろぼろと、涙が溢れて止まらない。
くいと服の裾を引かれて、古川は抗えずに、とさりと床に膝をつく。さりと戸塚の指先が、頬を伝う涙を拭い、ふっと笑うのが気配で分かった。涙のヴェール越しのぼんやりとした視界の中で、あの日消えろと願った男が、笑っている。
「なんでそんな顔すんの?俺がこの手紙持ってたの、そんな嫌だった?」
「っ、嫌、とかじゃなくて」
「じゃあなに」
「だっ、て…お前、やじゃないの…こんな」
こんな、呪いみたいな執着。呪いみたいな言葉。こんなものを向けられて、気分がいいはずがない。呪詛を吐き出す当の本人ですら、その禍々しさに怖気づくのに。
「なんで?嫌な訳ないじゃん。ていうか、俺、お前の告白オッケーしたの、これが決め手だし」
まさか、そんな。
「うそ、」
「嘘じゃない」
優しい声音で返されて。頬に触れていた手がそっと頭の後ろに回され、強くはない力で引き寄せられる。されるがままに体を倒すと、姿勢を崩して座った彼に抱き込まれるような体勢になった。戸塚の寝巻き用のトレーナーの肩口に、古川の涙がじわりとしみていく。
「…テツの教科書片付けてたらこの手紙が落ちてきて、そんで、拾ったの」
分かったよと、彼は言った。
お前がこの手紙を書きたくて書いた訳じゃないことも、俺が読んじゃいけないもんだってことも、読んだら分かった。
「分かったけど、でも、返したくなかったから。もらっちゃった」
ぐりぐりと頭を撫でられて、顔が埋まる。押し付けた鼻先に、戸塚の匂いが届く。クラクラする。
「俺ね、誰かを好きになるってよくわかんなくて。だってさ、他人のことなんてわかんないでしょ?人の腹ん中見える訳じゃないしさ。見えてんのは表面だけじゃん。だから結局相手がそいつである必然なんてないんじゃないのって」
そう、思ってたんだけどね。
そう言って、戸塚の声が止まる。近くで、かさりと、紙が擦れる音がした。手紙。手紙を見ている。
「…テツさぁ、何書いたか覚えてんの?」
「……大体」
戸塚のトレーナーに顔を押し付けたまま答えると、ふぅんと返しながら、手遊びに髪をゆるく梳かれ、くすぐったさに身をよじると、それに気づいた戸塚の指先がさりさりと頭皮を掻いた。
くすぐったい。くすぐったくて、ぞくぞくする。
「『幸せになりたい』」
「……なに」
「すとんて、落ちたの。ね。分かる?」
「…なにが?」
言っている意味が、本当に分からなくて。古川は思わず、首を回して戸塚を見上げた。古川を抱えているのとは逆の手に握られた手紙を見つめる戸塚の、つんと尖った顎のラインが、目の前にある。
「…多分ね、俺って結構ロマンチストでね」
トクベツになりたかったと、呟いた。誰かの、トクベツになりたかった。
「だからさぁ、これってすごいじゃんって思ったわけ。あぁテツは、俺がいなきゃ幸せになれないんだって。俺だけが、テツを幸せにできるんだって」
それってすごいトクベツじゃない?
そう言ってこちらを向いた戸塚の表情は驚くほど柔らかくて、古川の脳裏をよぎったのは、ルーベンスの無原罪懐胎に描かれたマリアの魂であり、矛盾を正当化する暴力的なまでに神聖な力の片鱗だった。
「だから、テツは俺の隣で幸せじゃなきゃだめなんだよ。不安な顔するのもダメだし、自己嫌悪もダメ」
だって、お前の幸せはここにあるのに。
戸塚の両手が古川の頬を包む。視線が絡み、戸塚が再度キスを仕掛ける。古川は目を閉じた。
「俺を好きになってくれてありがとう」
唇と唇の間で戸塚が囁き、思考が一瞬、赤く染まる。ざぁっと頭に血がのぼる感覚と、指先から震え出すような歓喜。
古川は、その囁きごと舌先で絡め取って吞み下す。甘く、甘い。蕩けるほどに甘やかな、彼の体液は媚薬のようで。
いいのか、と思った。いいのか、自分本位で。自分勝手で。それは、何か、目の前が開けるような感覚だった。多分、恋とか恨みとか、好きとか嫌いとか。そういう感情はみんな、すべからく自分勝手で独りよがりだ。幸せになりたいという古川の思いも、幸せにしたいという戸塚の思いも、全部。自分勝手な一人芝居。だけど。
とろとろと蕩かすように口内を嬲って。身を引きかける戸塚の舌を名残惜しく吸い上げて離すと、彼は小さく鼻にかかった声を上げ、その声音一つに煽られて、古川は少し強引に、その唇をもう一度塞いだ。
歯列をなぞり、上顎をこすり、その身体が震えだすまで。
「…っ、ボタン、直すんじゃないの?」
息継ぎする間も惜しい、性急なキスの合間。トレーナーの中に手を突っ込んで背中に触れると、戸塚は少し上気した顔で怪しく笑んだ。
「…明日で、いいかな」
優希が嫌ならやめるけどと、口では言ってみるものの、煽られた心と身体の熱がこのまま引くはずもないことは明らかで。
「テツは嘘つきだよね」
やめらんないくせにと綺麗な指先で唇を摘まれて、ほんとは俺も、準備万端なのでした、と耳元で囁かれればもう、古川の欲を止めるものは何もなかった。
けれどそう、今日は一つ、どうしても聞きたいことがある。
「…優希は、今、幸せ?」
古川が触れると、条件反射のようにとろけ出す身体が、まだ、戸塚優希の意思を保っているうちに。
「そういうの聞くとこが、バカだなぁって思ってる、けど」
当然でしょと格好良く笑う恋人は、出会った瞬間からずっと、古川のトクベツで。
「ほら、早く」
甘やかな声で誘われて。戸塚の手が古川の背中に回り、緩く緩く引き寄せられる。ソファの上に置き去りにされた青い便箋が、視界の隅で揺れている。
ー好きになってくれてありがとう
こちらこそ、幸せにしてくれてありがとう。
自分本位を向け合って。想い合う在り方は、多分、これで正しい。
「…俺も、すごい、幸せ」
今日は。彼が泣き出すまで甘やかして。
2人の境がわからなくなるまで溶け合いたいと、そう、願った。
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