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選び選ばれて 8
玄関を開けると、作りかけの夕食のいい匂いがし、部屋の電気も付けっ放しだった。
宗吾さんと芽生くんは、どうやら思い立ってふらりと迎えに来てくれたようで、まだ温かいままの空間が、家族の確かな存在を示し『お帰り』と言ってくれているようだ。
あぁ僕の家に帰って来たのだと思うと、また涙が滲み出そうになる。
しあわせ過ぎて、涙腺が弱くなった。
スーツのジャケットを自分の部屋で脱いでいると、宗吾さんがノックして入って来た。
白いシャツを腕まくりして、その上に黒いエプロンをしている姿が、様になってカッコいい。
「改めて、お帰り」
「改めて……ただいま」
宗吾さんが身体を少し屈めて、僕に軽いキスをしたので照れ臭くなった。
そのまま抱き寄せられそうになったので、逃げてしまった。だって扉の一枚向こう側には芽生くんがいるわけだから、触れるのはダメだ。
一度触れると……僕が宗吾さんにもっと触れてもらいたくなって……止まらなくなる!
「だっ、駄目ですって。今日は汚れていてっ」
「そんなことない!」
宗吾さんが苦悶の表情で語る。
「瑞樹……」
「はい?」
「仕事帰りの君の匂いって、結構ヤバイな」
「えっすみません」
ヤバイって……やっぱり汗臭いのかも。今日は結構動き回ったから。
慌てて身を翻そうとすると、逆にもっと深く抱きしめられてしまい焦った。
「……嫉妬するよ」
「えっ何にですか」
「ごめん。こんなにいい香りを漂わせていると困るし煽られる」
一瞬だけ一馬を思い出したが、すぐに記憶の底に沈めた。
もしかして宗吾さんにもそんな気持ちを抱かせてしまったのではと不安になる。
「これは花の香りだな」
「はい……」
宗吾さんにそのまま顎を掬われ、深い深い口づけを受ける。
「んんっ……っつ……」
「瑞樹、頑張ったな。花の香りは……今日1日頑張ってきた証だな」
「あっ……はい。今日はいろいろあったのですが、頑張りました」
「よし、偉かったぞ。あとで色々話してくれ、今日あったこと、頑張ったことを」
宗吾さんは唇を名残り惜しそうに離し、彼自身の心と躰の高まりを落ち着かせるように、僕の髪を何度も何度も撫でてくれた。
僕はこうされると、なんだか子供みたいに甘えたくなる。
あなたにだけは……そんな素直な僕でありたい。
それから二人で「ふぅ……はぁ……」と、深呼吸した。
いい歳した二人が、高校生のようにドギマギ、コソコソしているのが、なんだかおかしくて、コツンと額を合わせ、やっぱり笑ってしまった。
僕たち、いい関係になっている。
一馬とは築けなかった世界を、僕は進んでいると実感した。
「パパーごはんのじゅんび、いいのー?」
扉の向こうから芽生くんの声がしたので、宗吾さんは僕を抱く手をパッと離した。
「さぁ瑞樹は、まず風呂に入ってこい。その間に夕食の支度をしておくから」
そのまま宗吾さんに背中を押され、風呂場に誘導された。
「汗もかいたので、お言葉に甘えてお先に」
「あぁそれがいい。もう次はパジャマでいいからな」
「あっはい」
照れくさいが、パジャマになろう。
心も身体もリラックスしたいから。
****
風呂からあがって髪を乾かすと、食卓には美味しそうな夕食がずらりと並んでいた。
こんがり焼き目のついた葱とマグロのぶつ切りがぷかぷか浮かぶ、和風の鍋だ。食欲をそそる出汁の良い香りが部屋中に立ち込めていた。
「うわぁ美味しそうですね! これって……何と言う名前でしたっけ?」
「『ねぎま鍋』だよ」
「あぁそうでしたね。一度だけ割烹料理屋で食べたような」
「意外と作るのは簡単だよ。さぁ食べよう。瑞樹は相当腹が減っているだろう」
「はい」
言われて初めて、空腹でペコペコだったことに気づいた。今日は昼食を食べる暇がなかったから。
鍋は……マグロの旨味を贅沢に味わえ、本当に美味しかった。
「すごく美味しいです! 宗吾さんって、やっぱりすごいです」
「そうか、今日は一日家にいたらから張り切ってみたぞ。マグロには筋があるが、この主成分はコラーゲンやたんぱく質なんだよ」
「そうなんですね。料理が上手なだけでなく知識も豊富ですね」
「熱を加えると筋が溶けて甘みが増して、それが旨味になるわけさ」
「あぁだからこんなに美味しい旨味が出ているのですね」
「そういうこと。瑞樹にはもっともっと栄養つけてもらわないとな。〆は蕎麦を用意しているから、腹を空けておけよ」
「分かりました」
宗吾さんの話すことは、いつも興味深い。世界中を仕事で旅したと聞いているし、興味と知識の広い人なんだな。一緒に住むにつれて、今まで知らなかった彼を知るのが嬉しい。
本当に精がつく料理だったので、空腹が満たされると同時に、疲れた身体もどんどん回復してきた。
「すごく元気になりました! ご馳走様でした」
「おにーちゃん、まだおわりじゃないよ」
「あっそうか『卵ボーロ』を焼いたんだったね」
「うん! 今日のデザートだよ」
「じゃあ、いただくよ」
芽生くんがお皿に盛って出してくれたのは紛れもない、あの『卵ボーロ』だった。
「うわぁすごい! 丸くて可愛いね! 本当に手作り出来るんだね」
「でしょ」
「綺麗な形に揃っているよ」
「うん、そこはパパがすごくこだわっていたもん」
「へぇ……宗吾さん、すごいです」
「そうか、食べてみてくれ」
「はい!」
指でつまんで口に放り込む。
その一部始終をじっと見られて、何故だか恥ずかしくなる。
「おにいちゃん、おいしい?」
「うん、とても優しい味だね」
「よかったぁ。こんどはボクが食べさせてあげるね。アーン」
芽生くんが小さな指で摘まんで、食べさせてくれる。
「また、芽生くんのおにいちゃんごっこかな」
「ふふっ、うん、そうだよー」
照れくさいが……素直に口を開ける。
そういえば以前バナナを食べた時も、こんなシーンなかったっけ?
宗吾さんと目が合うと、ちょっと妖しい感じだった。やっぱり不安だ。また変なこと考えているのかな。ちょと変な宗吾さんがそろそろやってきそうだ。
でも……いくらなんでも、卵ボーロとは結び付かないだろう。
「瑞樹、カタチはどうだ?」
お皿の上に並ぶボーロを見ると、本当に丁寧に綺麗に丸められていた。
「えぇ丸くて粒ぞろいで……とても綺麗です。これ全部宗吾さんが丸めたのですか」
「あぁ、そうだよ」
「すごいです! 今度ぜひコツを教えてください」
「今度と言わず……よかったら今晩教えてやるよ」
宗吾さんはどこまでも上機嫌だった。
「えっと、今からまたお菓子作りをするのですか」
「いや違う。シミレーションをするのさ」
「……?」
まったく謎は深まるばかりだが、結局僕もつられて楽しい気分になってしまった。
僕は本当に宗吾さんに弱いから……
「じゃあ……ぜひ教えて下さいね」
「任せておけ!」
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