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白銀の世界に羽ばたこう 10

「兄さん、俺、今から仕事をするから、園内は3人で楽しんで来てくれ」 「うん、分かった」  瑞樹はそう返事したくせに、さっきからずっと……庭の片隅でオレを見ている。  暖かい眼差しで見つめてくれているのが、こそばゆい。  まだ信じられないよ。  函館でオレの意地悪は度を過ぎて、歳を重ねるごとに執拗で明確な嫌がらせとなった。だから家の中で目が合いそうになると、瑞樹はいつも怯えきった様子で目を伏せ、逸らすようになってしまった。  その時になって、初めて後悔し、同時に願った。  どうしたら家にやってきた当初の、あの優しく暖かい眼差しに戻ってくれるのか。  やってしまったことは消えない。しかしこの先は変えられる。そう頭で理解はしていても、素直に実行できなかった。  そんなオレが兄さんに今、返せるのは、兄さんの大好きな花を育む土壌となることだ。だからオレは、がむしゃらに働いている。そんなオレの姿を見て欲しかった。  これって、まるで小さい子供が参観日に、ちらちらと親を盗み見する気分だ。  時折目が合うと、兄さんも気づいてニコッと微笑んでくれる。  猛烈に嬉しいクセに、猛烈に気恥ずかしくて、柄にもなく俯いた頬が火照った。 「瑞樹、まだそこにいたのか」 「あ、宗吾さん。あの、もう少しだけいいですか」 「くくっ、潤がブラコンなのは知っていたが、君も相当なブラコンだよな」 「え? そうでしょうか……でも、そうかもしれませんね……すみません」 「いや、潤は嬉しいだろうな。今は潤のために君の時間を使ってくれていい。俺は後でもらうから」 「は、はい」    宗吾さんに話し掛けらても、瑞樹はまだそこにいてくれた。  冬空の下、ずっと同じ場所で立つのはキツいだろうに……震えながらも、しっかり見守ってくれている。それが嬉しい。  もう瑞樹は大空に羽ばたいているのだろう? そう思うのに、今はオレの土壌で羽を休ませてくれている。それが溜まらない。  今日はこれから別行動になるが、明日、明後日はオレも休みをもらっている。おじゃま虫かもしれないが、現地コーディネーターとして一緒に白馬に遊びに行こう!  白馬は瑞樹が気に入りそうな場所だった。  俺たちの故郷を思い出す、白銀の世界だった。  見渡す限りの雪景色。  白銀の世界を、一緒に滑り降りたい。  **** 「潤、ありがとう。しっかり働いている姿を見て、兄さん、すごく感激したよ」 「なぁ……ちゃんと庭園を見たのか」 「うん、さっき、ざっと見たよ。でも今日は潤を見ていたかった。続きはまた今度にするよ」 「そうか。また来てくれるのか……四季を見て欲しいんだ。あ、そうだ。これ、イングリッシュガーデンの土産だ。オーナーから預かって……」  軽井沢イングリッシュガーデンの退場門で、潤から渡されたのは、小さな植木鉢だった。   「何かな?」 「日本すずらんの苗だ。香りの良い花が咲くよ」 「すずらん? わぁ……嬉しいよ」 「家に戻ったら、鉢に植え替えてくれ。きっと東京でも根付くよ。年月が経てば、株もしっかりしてくるだろうし」   すずらん……それは僕の誕生花であって、大沼でお母さんからブーケとして渡された想い出の花だ。 「ありがとう。これは、何よりのお土産だよ」 「去年から渡したくて……よけて置いたんだ。それで宗吾さんにはこれを」  ん? まさかその白いのって、練乳じゃないよな。そ、それは……まずい。 「おぉ! これは練乳じゃないか! いやぁ、実に気が利くなぁ! 潤」  潤の背中をバンバン叩く宗吾さんが怖いんですけど! 「気が利く? それ、オーナーの奥さんの手作りなんですよ。浅間牧場の牛乳で作った練乳と、こっちは、いちごのジャムです」 「サンキュ! ジャムはまだ未体験だ。美味しく頂くよ」 「?」 「瑞樹、良かったな。これは旨そうだぞ」 「え、えぇ」  潤は、芽生くんにもお土産を渡してくれた。 「芽生くんには『ラベンダーのアイピロー』だぞ」 「あいぴろぉ~?」 「そう、目隠しするみたいに目にあてて、香りを楽しむんだよ。新幹線や車の中で眠くなったら使ってみろよ」 「あぁ、それなら、ボクのお家にもあるよ」 「ん? そうなのか」 「パパのおへやにあったもん!」 「へ、へぇ」    それも、まずいって!  菅野からもらったあのアイピローを思いだして、顔が真っ赤になる。 「兄さん? 顔が赤いけど、どうした?」 「な、なんでもない」 「なぁ……兄さんの彼氏って、大丈夫か」 「な、なんで?」 「だってさぁ、男のくせに自宅でアイピローをするなんて。おおらかそうに見えて、実は結構なナルシストとか?」 「ち、違うって。だ、大丈夫だよ」  しどろもどろだ、僕……。  大丈夫だと思いたい‼  練乳とジャムとアイピローって、宗吾さんにとっての『三種の神器』じゃないよな? 「瑞樹、悪いな。急な仕事があって、本当は送る予定だったのに」 「大丈夫だよ。タクシーで移動するから、仕事に戻ってくれ」 「明日は朝早くに迎えに行くからな」 「分かった。じゅーん、一緒に滑ろうな!」 「おぅ!」  人懐っこい笑顔を浮かべてくれる潤を、いつまでも見守っていたい気分だった。  思い切って、ここまで来てよかった。  煙草や缶ビールばかり掴んでいた手は、土に塗れ、節々に逞しさを増していた。  潤は生きている。自分の力で……函館から遠く離れたこの土地で。  今日という日に向き合う真摯な態度、目つきに、心から感動した。  さぁ、行こう!  それぞれの宝物を嬉しそうに抱いて、次なる目的地へ。

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