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幸せな復讐 12

「ここですね」 「お兄ちゃん、ワクワクするね! どんなおへやかなぁ」  指定された『菖蒲』という部屋は、フロント棟から露天風呂棟やレストラン……客室を通り抜けた場所にある、独立した純和風の一軒家の佇まいだった。 「へぇ、立派な造りだな」 「えぇ、豪華ですね」  きっと、一馬が……この部屋を選んでくれたのだ。  玄関扉の左手には部屋の名前が木の板に書かれていた。『菖蒲』という黒い文字の上には、菖蒲の花姿が彫られていた。  年季の入った木の艶から……しみじみと、ここは老舗旅館で、歴史ある建造物なのだと思った。  そう言えば、通り過ぎた他の客室にも皆、それぞれ植物の名前が書いてあった。  『桜』『楓』『柊』……   いいね……どの植物も好きだよ。きっとこういう部分でも、一馬とは縁があったのだろう。 「瑞樹、鍵を開けてくれ」 「はい!」  部屋は10畳程のゆったりとした和室で、棚には苔玉や桜の植栽が置かれており、心が和んだ。とても落ち着いた、穏やかな空気が流れている。 「おー! ここが憧れの部屋付き温泉か!」  宗吾さんが真っ先に飛びついたのは、もちろん源泉掛け流しの温泉。  風呂は、和室のすぐ横にあった。  わ……これは確かに、ずっと入っていたくなる場所だ。 地中から自然に湧き出した温泉水を浴槽に直接供給し、浴槽からあふれ出た湯を排出しているので、お湯が絶えず流れ、蒸気がもくもくと上がる光景に、僕たちは目を奪われてしまった。  こんな温泉……見たことがない。確かに一刻も早く入ってみたい! 「わぁ! はやく、はやくはいりたいなぁ」 「そうだな。まずは味見するか」  宗吾さんの目が、キランと光る!    え! もう……? いやいや違う意味だ。なのに『味見』という言葉が、僕の脳内で暴れ出す。   「あ、味見って? あ……あの、まずはお茶でも」 「いや、それよりも温泉でリフレッシュしよう」 「おにいちゃんも、はやく、ぬいで!」 「わ! わ!」  芽生くんが靴下を脱がそうと、僕の足の裏を小さな手で触ったので、擽ったくて大きく笑ってしまった。 「ははっは……っ、ちょっと芽生くん、くすぐったいよ」 「えへ、おにいちゃんは、そんな風に笑った方がかわいいよ」 「おー、芽生、よく言った。パパもそう思うぞ!」 「じゃあ、もっと、こちょこちょ~」 「くくっ、こら! やったな」  何故だかテンションのあがる三人で、そのまま宗吾さんの目論見通り……お互い服を脱ぎ合って、脱がし合って、真っ裸で湯船にザブンっと浸かった。  檜の大風呂は、家族で入るのに充分な広さだった。 「気持ちいいな。やっぱり湯布院は名湯だな~、湯の質がいい」 「あ、はい……なんだか関東の温泉とはひと味違いますね。身体を包み込んでくれるようです」 「お兄ちゃん、でも……ちょっとあついよ」 「おいで、芽生くん、僕のお膝に座るといいよ」 「うん!」  先ほどまで、一馬との再会で緊張していた心も解れていくし、お湯が僕の皮膚に吸い付くようにまとわりついてきて、本当に心地良い。  あれ? 何だかこの感じって、何かと似ているような。  あぁ、そうだ。宗吾さんに抱かれている時みたいだ。僕の素肌が彼の素肌と重なると、包まれるような安心感が生まれて、本当に落ち着くのだ。 「あれ? おにいちゃん、またアチチになってるよ」 「え? そ、そんなことないよ」 「瑞樹、あんまり真っ昼間から煽るなぁー」 「そ、宗吾さん、落ち着いて下さいよ!」 「アオルってなんだろ? とにかく、パパ、どうどう~」 「はははっ!」 「も、もう!くすっ」 「えへへ」    真っ昼間……チェックインして客室に入るなりお風呂に飛び込んだ僕たちは、湯船で赤い顔を見合わせて笑っていた。  とても明るく、すっきりした気分だった。  **** 「カズくん、困ったわ」 「どうした?」 「仲居さんが、今日は急に二人も休みですって」 「え、そうなのか。参ったな……今日は今日は満室だからキツいな」 「よーし、お互い力を合わせて頑張ろう。春斗は、おばあちゃんが見てくれているから大丈夫よ」    そんな訳では、普段はしない仲居の仕事を、今日はやることになってしまった。よりによって瑞樹が泊まっている日に……まさか、こんな展開になるとは。  瑞樹が無事にチェックインした姿を見届け、チェックアウトするまで、会わないつもりだったが……そうもいかないのか。  神様は、俺に試練を与えているようだ。かつて俺が一方的に置いて来てしまった人の幸せを、もっとしっかり見届けろと。 「あー! 大変! さっきのご家族のお部屋に子供用の浴衣を置くの忘れていたわ。カズくん、早速届けてきてもらえるかしら?」 「さっきのご家族って?」 「ほら、菖蒲の部屋の」 「あ……分かった」  ほら来た。だが逃げるわけには行かない。 「あら? この浴衣は、あの坊やには少し大きすぎるみたい。幼児の甚平もあるけど、こっちが似合いそうね」 「これ?」 「元気いっぱいで、きっとお二人のムードメーカーみたいな存在なんでしょうね」 「そうだな。了解! 行ってくるよ」  お祭りの半被だなんて……大丈夫か。でも確かに元気そうなお子さんだったから似合うかもな。  離れへの道を、神妙な面持ちで歩いた。 『菖蒲』の部屋が近づくと、風呂場の高い位置にある小窓から聞こえて来たのは、底抜けに明るい、重なる笑い声だった。  小さな男の子の可愛い声と、低めで男らしい声。  そして、忘れるはずがない瑞樹の声だ。  それは初めて聞く、明るく跳ねるような可愛い笑い声だった。  あの瑞樹が、こんな声で笑うなんて。   腹の底から笑っている。    心から楽しそうに、心から幸せそうに――  俺との日々では、ここまで、こんな風には笑わせては、やれなかった。  瑞樹は……いつも、はにかむように控えめに微笑んでいた。  だから……今の瑞樹は、もう俺の知っている瑞樹ではない。  それでもフロントであんな風に優しく声を掛けてくれて……楚々とした鈴蘭のような瑞樹のままでいてくれたのが、嬉しかった。  彼は大きく成長したのだ。  よい水を得て……よい土壌で。  それは去りゆく日に、俺が願ったことだった。

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