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その後の三人『さらに……初々しい日々』5
「瑞樹、悪かったな」
「え?」
「いや……その、母さんがいきなり弁当なんて押しつけて、困ってないか」
「とんでもないです。僕……とても嬉しくて、じんわりしていました」
僕が電車の中で始終無言だったので、宗吾さんに気遣わせてしまったようだ。
まだ暖かいお弁当が嬉しくて、お母さんが朝から作ってくれた気持ちが嬉しくて溜まらなかった。
「函館の家は花屋だったので、朝は仕入れがあって特に忙しくて、手作りのお弁当はなかなか難しかったのです。だから……」
「ん、そうだな。仕事柄大変だったろうな。函館のお母さんも」
「そうなんです。母は本当に働き者でした」
「あぁ立派だよ。女手だけで3人の息子を育てあげたんだしな。しかもこんな可愛い子をさ!」
ぽかぽかなのは、お弁当なのか僕の心なのか分からなくなってきた。
「あ……あの行ってきます」
「ああ、頑張って来いよ」
「宗吾さんも頑張って下さい」
****
改札で瑞樹といつものように別れた。
瑞樹……満員電車の中で、母さんの弁当を大切そうに抱えて、蕩けそうな顔をずっとしていたな。
そんなに喜んでもらえるなんて、嬉しいよ。
瑞樹は本当に気持ちのいい男だと……彼の後ろ姿を目を細めて見送った。
「滝沢さん、おはようっす」
「あれ? 林さん、珍しいですね。こんな時間から」
「カメラマンといえども、俺の場合はフリーではなく会社専属の社畜ですからね。あれ? 珍しいですね。それ弁当ですか」
「あぁ、まぁな」
「へぇ~愛妻弁当?」
林さんは瑞樹とのことを知っているから、ニヤニヤと笑われた。
「いや、これは実家の母が持たせてくれたのさ」
「じゃあ『おふくろの味』って奴ですね。羨ましいな」
そこから話が意外な方向に行った。
「そうだ……ニューヨークで一緒になったインテリアデザイナーの陸さんを覚えています?」
「あぁ」
白馬で偶然会ったことは黙っておいた。あちらもプライベートだったしな。
「実は俺の恋人の辰起《タツキ》も元モデルで、事務所の先輩後輩関係なんですよ。たまに連絡を取り合っているみたいで、とんでもない美男同士でやけますよ。はは……俺、凡人だから」
「そんなことないぜ! 林さんもっと自信持てよ!」
林さんは人がいい顔を、綻ばせた。
あいつにはちゃんと恋人がいたから、いらぬ心配だ。
「いやぁ……滝沢さんにしか、こんなこと愚痴れなくて。それにしても滝沢さんは、今日はいつもより若く見えますね」
いつもは余計だぞ。しかし若返って見えるのなら良いことだ。
「そうか」
「何かいいことあったようですね。目尻の皺が深いですよ」
「皺ー!?」
おい! 上げたり下げたり忙しい奴だな。
「滝沢さん、離婚直後はここに深い皺、作っていましたよ」
眉間を指さされて……思い当たった。
玲子と別れてから、1年間は暗黒時代だった。芽生の面倒なんてろくに見たことがなかったから、右往左往してさ。それでも意固地になって一人で孤軍奮闘して……見かねた母がある日、今日みたいに弁当を届けてくれた。
玲子が出て行ってから、買ってきた惣菜や弁当でしのいでいたから、母の懐かしい味に涙が溢れた。そこからは肩の力を抜いて、人に教えを請い、人を頼り……やってきたのだ。失敗だらけだったが、まだ幼かった芽生も協力してくれた。
人はひとりで生きているわけでない。
気付かぬ所でも、誰かに支えられている。
周りからの愛情を感じる1年だった。
その後……あの公園で瑞樹に出逢った。
愛情を受けることを怖がっていた瑞樹、幸せになることに後向きだった瑞樹に、教えてやりたかった。俺が身をもって体験したことを。
時には甘えろ。
愛情を注いでもらうのは、悪いことではない。
俺が母や周りのお母さん方にしてもらったことを、瑞樹にしてやった。
愛情というものは、水をやればやるほど育つのか。瑞樹は持ち前の繊細な心で、ささくれ立っていた俺と芽生を優しさで包み潤してくれた。
俺も瑞樹の不安を包み込んだ。
まるで俺たちは一つの種子にでもなったような気分だったよ。
協力しあって、生きていく。そんな存在になったよな。
「耽ってますなぁ~」
「あ、いや……すまん。まぁその通りだ」
「はは、滝沢さんのそんな所がいいですね。目元の皺って『しあわせ皺』ですもんね。
今の彼と知り合ってから、沢山笑ったんですね」
「あぁその通りだ」
「また惚気 ていますね!」
今の俺が好きだ。
心からそう思える朝だった。
****
定刻通り改札を抜けると、前を葉山が歩いていた。
お? 何やら大事そうに抱えているな。
いつもならすぐに話し掛ける所だが、そっと様子を見守った。
葉山の足取りは軽かった。
背中に羽が生えているような、そんな雰囲気だった。
春風に舞う栗色の髪は、ふわりと軽く明るかった。
葉山……随分、雰囲気変わったよな。
入社した時から知っているが、気を抜くと俯いてしまう、寂しい笑顔が印象的だった。
一時期は見ていられない程、苦悩していたのも知っている。
そんな葉山が週末ごとに明るくなって行くのが嬉しい。
この週末は、特に良い事があったようだな。
ちらりと見える横顔は、口角が上がり、心から嬉しそうだ。
「葉山ー、遠足に行く子供みたいな顔だな」
あまり楽しそうなので、結局話し掛けてしまった。
「あ……菅野。オハヨ」
「それ、なに?」
手元の包みを指さすと、砂糖菓子みたいに甘い笑顔になった。
「お弁当なんだ」
「へぇ? 自分で作ってきたのか」
「いや……」
「じゃあ、滝沢さんの愛妻弁当?」
「くすっ、違うよ。これは……お母さんが作ってくれたんだ」
少し自慢気に言うところに、ズキュンと来る!
葉山、お前……可愛すぎだろ!
これじゃ、滝沢さんがデレデレになるのもわ・か・る!
「お母さんの弁当か、本当に遠足みたいだな」
「だね」
「あー、滝沢さんの皺がまた増えるやつだ」
「どういう意味?」
「しあわせ皺だよ~お前達って、いいな。いつも楽しそうだ」
「あ、うん、そうだね。宗吾さんの顔……好きだよ」
「おーい、朝から惚気んなぁ」
「ご、ごめん!」
「ほら、行くぞ」
同期の葉山は、男同士の恋をしている。
それはちっとも異質なものではなくて、俺にとっては幸せの塊みたいな部類だ。
「さぁ今週も頑張ろう!」
「よろしくな」
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