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花びら雪舞う、北の故郷 26

 旅行鞄から大沼のコテージで着る予定だった部屋着と肌着を取り出し、いっくんと脱衣場に向かうと、菫さんが心配そうにタオルを渡してくれた。 「潤くん、お風呂の使い方分かる?」  風呂場を覗くと、よくあるタイプの普通のユニットバスだった。 「あぁ、大丈夫そうだ」 「じゃ……じゃあ、ごゆっくり」 「あ、ありがとう」  すげー照れ臭いもんだな。  こんなシチュエーション初めてだ。    オレさ、まだ菫さんといっくん越しに、キスしかしてないでプロポーズしたんだな。  身体からではなく、心から入る恋なんだ。これは。  オレと菫さんといっくんは、もう心でしっかり結ばれている。 「よいしょ、よいしょっと」  いっくんは百面相するオレの横で、一生懸命、衣服を脱いでいた。トレーナーと下着は脱げたが、ズボンのボタンがどうやら難しいようだ。 「いっくん? 大変そうだな。てつだってあげるよ」 「え……いいの?」 「もちろんだ」  いっくんが不安そうな顔で、オレを見上げてくる。   「でも……ほんとうは、いそがしいんじゃない?」  そうか、菫さん一人の時はこんな風にママを気に掛けていたのか。  いっくんは優しい子だな。   「だいじょうぶだ。もう、いっくんにはママだけじゃないんだよ」 「あ、あのね……いっくんボタンとるの……いつもうまくいかないの」  何だか無性に切ない、切なくなるよ。  まだ小さい、いっくん……オレがしっかり支えてやりたいよ。   「いっくん、ほら、こうやって、ゆっくりやってごらん」 「うん……あっ、わぁ……できた」 「よしよし、偉いぞ」  いっくんの頭を撫でてやると、涙を堪えて見上げてきたので驚いた。  今度はどうした? この子はこんな風に、いつも寂しい気持ちを我慢していたのだな。  それにしても、この瞳、誰かに似ている。  そうか……家にやってきた頃の瑞樹だ。兄さんの目と似ているんだ。 「しゃむい」 「ごめんごめん、つかろうな」 「うん!」  いっくんは、クリスマスで3歳になったばかり。まだほんとうにあどけないな。  小さな身体を抱っこしてやり、一緒に湯船に浸かると、お湯が一気に流れ出した。 「わぁ、ザブーン! ザブーンだね」 「ははっ、嵐の舟みたいだな」 「きゃー」 「でもパパがいるから平気だぞ」 「パパぁ、パパぁ」  いっくんが必死にオレにしがみついてくる。 「この先、いっくんのことはパパが守る。だから舟は沈まないよ」 「ほんと? ほんとうに……?」  そうだ……もう少し聞いておきたいな。 「いっくん、パパには話せそうか。今日どうしてひとりで保育園を飛び出したんだ?」 「……あのね、いっくん、ほんとうは、いつも……ほいくえんで、ひとりぼっちなんだ。パパいないのへんって、みんないうの。ママがわるいって……」  酷い話だ。  菫さんは何も悪くないのに……病気で亡くなったご主人も、誰も悪くないのに。そういう運命だっただけなのに。    それは、いっくんがママに明かせなかった秘密だった。    都会なら珍しくないシングルマザーが、ここでは珍しいのだろうか。悪質な偏見だ。同時にオレの母さんも陰でそんな風に言われていたのかもしれないと思うと、やっぱり悔しくなった。  オレは性格がキツく強い子だったが、いっくんは心優しい性格だから、その度に……悲しみに暮れてしまうのだろう。  いっくんは、瑞樹と似ているな。  優しくて繊細で、自分の幸せより相手の幸せを願ってしまうオレの兄さんに。 「もうそんなこと絶対に言わせない! いっくんには、オレがいるんだから」 「パパっ、パパっ……あいたかったぁ」  いっくんがオレに抱きついて、ニコッとしてくれた。  オレの胸に耳をあてて、じっとしている。 「あ……パパのおとがするねぇ」 「パパは元気いっぱいだよ」 「うん! うれしい」 「よーし、今日はパパがあらってあげるからな」 「あとね……しゃんぷーこわいの」 「よしよし、コツがあるんだ。水に慣れるところから始めよう」 「がんばるよ」  全部、兄さんが芽生くんにしていたことの受け売りだが、これで合ってる。  そんな確信を持って、いっくんと接した。 ****  大沼のコテージ 「すみません……僕、泣いてしまいました」 「いいんだよ。昔を思い出したんだな」 「昔、夕暮れ時になると、無性に会いたくなって……小高い丘を駆け上がったんです。空に向かって手を伸ばして、ひとしきり泣くと、ちょっとだけすっきりして……そんな時、兄さんが探しに来てくれました、ねっ、兄さん」  広樹がハッとする。 「たまに姿が見えなくなるから、いつも探したんだぞ」 「ごめんね。でも……兄さんの顔を見ると、ホッとしたよ。帰ろうって思ったんだ。そうだ……兄さん、あの時もエプロンしていたね。懐かしいね」 「あー だいたい夕食作っている時に、お前の帰りが遅いと心配になってな」 「兄さんのエプロンからは、いつも美味しそうな匂いがして」 「はは、カレーがついていたりしたよな」  広樹兄さんは今日もエプロンをして、前ポケットの辺りに、カレーが飛び散っていた。   「うん。だから僕……お腹空いてきちゃって、兄さんと戻ったんだ」 「おー 食欲が勝ったんだな」 「くすっ、そうみたいだ」  よかった。和やかな雰囲気になってきた。  そうだ。僕はひとりじゃないと、その度に思えんだよ。  全部、兄さんのお陰だった。 「さぁ、お腹空いただろう? みんなでカレーを食べようぜ」 「軽井沢でも、潤……美味しい物を食べているかな?」 「アイツは食いしん坊で大食いだから、菫さんにドン引きされているかもな」 「確かに……今度、お米を送った方がいいかも」 「だな」  どんなに泣いても、最後は笑顔になれるといいね。  笑顔は人を癒やし、自分を元気にしてくれるから。 「美味しい! 美味しいよ、兄さんのカレー」 「ほんとうだ~」 「広樹、やるなぁ」 「あ、あの宗吾さんのカレーも大好きです。また作ってくださいね」 「お、おう!」  笑顔で食べるカレー。  みんなで集う食卓。  全部、僕の幸せ――  

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