1336 / 1738

幸せが集う場所 1

「美智、ここは私が計量しておくから」 「じゃあ彩芽を寝かしつけてきても大丈夫?」 「あぁ、計量は得意だ。1gたりとも間違わずにやるよ」 「そうね、憲吾さんは細かい仕事が得意だものね。じゃあ任せたわ」  ホームベーカリーを買ったのは私だ。後日芽生と話すためにも、私が作ってみたかった。 「憲吾、大丈夫? 何か手伝う?」 「母さんまで……なぁに大丈夫ですよ。この通り量って入れるだけでしょう」 「まぁそうだけど。そうね、憲吾は緻密な作業が得意だったわね」 「えぇ、だから任せて下さい」  強力粉に塩、砂糖、それから水にバターにスキムミルク。  よし! これで完璧だ。 「おっと危ない。ドライイーストを忘れるところだった。これで蓋をしてタイマーを入れてと……なんだ、案外簡単だな」  無事に動き出すのを確認してから、寝室に向かうと、彩芽がベビーベッドですやすやと眠っていた。そろそろベビーベッドも卒業だな。 「憲吾さん、ちょうど彩芽が眠ったので、手伝いに行こうと思っていたのよ」 「いや、もうセットしたから大丈夫だ。明日は焼き立てパンを食べられるぞ」 「素敵ね! 憲吾さん、ありがとう……大好きよ」  お? 美智が甘えてくれた。 「どういたしまして」 「嬉しかったわ。今までなら頭ごなしに駄目だったのに……本当に憲吾さんってば、変わったのね」 「……それは諸々悪かったな」 「いいの、私も冷たかったし……憲吾さん……」 「美智……」  芽生の退院を聞いて、美智も私もほっと一息つけた。だから久しぶりに夫婦の時間を過ごせそうだ。 「いいのか」 「えぇ……あのね……ちょうど妊娠しやすい時期みたい」 「そうか。そろそろ彩芽にも弟か妹が出来たらいいと思うんだが」 「私も賛成よ」 「……授かるといいな」 「えぇ」      大人の夜を過ごした翌朝。  私はワクワクと少年のように心を膨らませて目覚め、美智の布団をかけなおし、ぐっすり眠る彩芽の布団の整え、こっそりと台所に向かった。  タイマーが鳴るまで後15分か。きっと台所には焼き立てのパンの香りが充満しているだろう。  ところが……どうも様子が変だ。  おかしいな。焼き立て時間になっても香りがしない。  恐る恐る蓋を開けると、そこには……惨状が‼ 「なっ、なんだこれは……っ」  粉のままの物体がパンケースの中にあった。 「何故だ? きちんと計量したのに……まさかこの私が失敗をするとは」  ガクッと膝をついて項垂れてしまった。  美智や彩芽を喜ばせようと思ったのに、一体何をどう間違えたら、こんなことになるのだ! 取り返しが付かないことをしてしまった。 「あらやだ。憲吾ってば真っ青。一体どうしたの?」 「か、母さん……無念です……大失敗です」 「はぁ? 大袈裟ね。まぁ、粉のままね。もしかしてドライイーストを入れ忘れたの?」 「入れました! 分量通り全て!」  母さんはパンケースを覗き混んで、「あら?」と不思議そうな声を出した。 「これ、どうやって掻き混ぜたの?」 「それは底に根がついていて回転するようです」  説明書はしっかり読んだ。一度読んだら全て頭の中だ。  頭の中だが……羽根をセットした記憶が……ないぞ! 「あぁ……なんてことだ。箱、箱は?」 「これ?」 「貸して下さい」  箱を振ると、ポロッと羽根が出て来た。 「憲吾ってば、入れ忘れちゃったのね」 「私としたことが……大失敗です」  大人になって、こんな失敗は初めてだ  恥ずかしくて死にそうだ。  どうしたらいいのか途方に暮れていると、母さんが動き出した。 「憲吾、母さんに任せなさい。捨てるのはもったいないわ。なんとか朝食にしてみるわね」 「私も手伝います!」  母さんと一緒にパンケースから木べらで生地を取りだして必死に混ぜて、牛乳と砂糖と卵黄を入れて更に混ぜ込んだ。 「うーん、このままだとまだ固いわね。卵白のメレンゲも入れてみましょう」 「メレンゲ? なんだか分かりませんが任せます」 「たぶんパンケーキみたいになるはずよ」 「流石です」  白いふわふわの泡は、メレンゲというらしい。それをさっくり混ぜてフライパンで焼くと、ようやくこんがりいい匂いがしてきた。 「ふふ、芽生の好きなパンケーキだわ。これ」 「彩芽が好きな絵本にも出て来ます」 「じゃあ、あーちゃんも喜ぶわね」  起きてきた美智と彩芽は、朝から私と母さんがパンケーキを焼いている姿に驚いていた。 「憲吾さん、パンじゃなくてパンケーキを作ってくれたのね。感動したわ!」 「パン、パン、ケーキ!」  彩芽も美智も笑顔だ。  だが、私は嘘がつけない。 「美智、すまない。本当は羽根を入れ忘れて失敗したんだ。それを母さんがパンケーキにしてくれて」  美智はそれでも微笑んでくれた。 「憲吾さん、謝らないで。あのね……結果じゃなくて気持ちが嬉しいのよ。あなたが率先してホームベーカリーを買ってきて、ドライイーストを買いに走ってくれて、計量もしてくれて……いいじゃない、パンケーキになっても……家族が美味しく笑顔で食べられるのだから」 「美智……ありがとう」 「私は……すまないより、ありがとうが好きよ」 「私もそう思う! 本当にありがとう。よし、皆で焼き立てパンケーキを食べよう!」 **** 「瑞樹っ」 「あっ……そ、宗吾さん」  止まらない、止まらない。  瑞樹が愛おしくて――  唇を重ねれば重ねる程、心を持って行かれる。  薄く開いたキュッとしまった唇を割って口腔内に侵入し、舌を絡めて吸った。  甘い……  これは花の蜜を味わうようなキスだ。 「あ……っ」  瑞樹が鼻にかかるような可愛い声を出してくれる。  高揚する気持ちが抑えられなくなる。 「宗吾さん……も、もう出社しないと……駄目です」 「はぁ、だよな。この続きはいつだ?」    瑞樹が頬を染めて、俺を見上げてくる。 「僕も同じです。同じ気持ちです……ホッとした途端、宗吾さんが欲しくなっています」 「嬉しいよ。気持ちを揃えてくれてありがとうな。夜になったら抱いていいか 「は、はい……夜になったら……僕を抱いて……下さい」 「もちろんだ」  最後に約束のキスを一つ。 ****  お友達に引っぱられるように教室に入ったよ。 「芽生の席、きれいにしておいたよ」 「ありがとう!」  ボクの机がある!  ボクのイスもある!  ボクのロッカーもあるよ!  ちゃんと全部あったよ!  それだけのことが、うれしいよ。  思わず机にスリスリしちゃった。 「ただいま、机さん」  そうしたら、朝の会で、先生がこう言ってくれたよ。 「今日から滝沢芽生くんが戻ってきてくれたので、クラス全員揃ったよ。本当に良かったね。さぁ、みんなで声を揃えて……せーの!」 「メイくん、たいいん、おめでとう! 今日からまたいっしょだよ」  クラスのみんなが声をそろえて、パチパチと手をたたいてくれたよ。 「わ! あ、ありがとう! もう元気だよ。またいっしょにおべんきょうしたり、あそんでね」 「もちろんだよ! さぁこれで元通りだよ」  先生、ありがとう。  ボク、本当は……ちゃんと元にもどれるかしんぱいだったんだ!  でもだいじょぶだったよ!

ともだちにシェアしよう!