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冬から春へ 38

前置き  こんにちは! 志生帆海です。今日からまた通常運転に戻りますね。  だいぶ間が空いてしまったので、少しおさらいを。 『冬から春へ』は、軽井沢の潤のアパートが火事で燃えてしまうショッキングな事件から始まりました。幸い全員無事でしたが、アパートが全焼してしまい、潤家族は家を失い路頭に迷いそうになります。そこにくまさんとお母さん、瑞樹達が駆けつけてくれました。  潤は火事の第一発見者だったので警察や消防での手続きがあり、また仕事もあります。その合間に新しい家を見つける必要があるので、自ら軽井沢に残る選択をしますが、いっくんと菫さんは宗吾さんの家で預かってもらうことにしました。火事を目の当たりにしたいっくんや美樹さんとの思い出の家を失ってしまった菫さんの心情を気遣っての潤らしい優しい決断です。    現在、菫さんはいっくんと東銀座の『テーラー桐生』に、芽生のダウンコートの修理に訪れ、瑞樹も花の生け込みで『Barミモザ』を訪れています。  潤と大沼のお父さんとお母さんは軽井沢のキャンプ場に仮住まい中です。  それでは本編をどうぞ!  また『幸せな存在』のハートフルな世界に浸っていただけたら嬉しいです。 ****  軽井沢  オレはイングリッシュガーデンを飛び出し、焼けてしまったアパートに向かった。  瓦礫の山になったアパートのありのままの姿を、最後にもう一度、この目に焼き付けておこう。  このアパートで菫は、美樹さんと新婚生活を始めた。  駆け落ち結婚だったと聞いている。  二人だけの力で漕ぎ出した新しい生活。  きっと結婚生活は慎ましい暮らしぶりだったろう。  初めてアパートに招かれた時、正直驚いた。  とても小さな子供がいる家には見えなかった。  質素で簡素で寂しい部屋だった。  ここで菫はいっくんを守り、いっくんを育てて来た。  美樹くんとの別れの夜、涙の雨が降った場所でもある。  だから……オレにとって、どこまでも神聖な場所だった。  だが火事で全焼し、美樹さんの思い出は悉く消えてしまった。  本棚の片隅に残っていた付箋の付いた医学書や、引き出しの片隅に残っていた持ち主を失った使いかけのペン。  それらは、ひっそりとオレたちの生活を見守ってくれているようだった。  菫の喪失感は計り知れない。  オレだって、こんなに物寂しい気分になっているのだから。  黒い燃えかすを手で掬うと、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。  美樹さん、完全に……逝ってしまったのですね。  何もかも引き払うかのように、残っていた物も、この世から消してしまうなんて。  耳を澄ましても、オレには美樹さんの声は聞こえない。  だが、きっとこう言っているのだろう。  前に進んでおくれ――  それでも、それでも……片隅にいてくれても良かったのに……  アパートの部屋の様子は、目に焼きついている。  だから寂しい。  膝をついて炭で汚れた黒い手を見つめていると、涙がこみ上げてきた。  真っ黒だ。  暗闇って怖いな。  美樹さんもこの世を離れるのは怖かったろう。  だがきっと今は、心穏やかに雲の上から見守ってくれている。  そう思うようにした。 「ちょっと、あんた……そんな手で目を擦っちゃ駄目だよ」 「えっ……」  しわがれた声に顔を上げると、オレが火事場で助けたばーちゃんが立っていた。 「ばーちゃん! あれから無事だったのか」 「あぁ、あんたが助けてくれたから、この通り、まだこの世にいるよ」 「よかった。あの後、姿が見えなくなって気になっていたんだ」 「それはこっちの台詞だよ。私を助けてくれてありがとう。礼が言いたくて、娘と一緒にずっとあんたを探していたんだよ。職場にも行ってみたが会えなくてもう諦めていたんだけど、ダメ元で、ここに来てみて良かったよ」  そうか、職場に来てくれたのって、ばーちゃんだったのか。  足が悪いのにアパートの2階に住んでいて、いつも気がかりだった。  何度かおんぶして上がり、重たい荷物も持ってあげた。  昔のオレだったら素通りする場面だったが、瑞樹兄さんだったらどうするだろうと置き換えると、自然と行動出来た。 「ばーちゃん、無事で良かったよ。ばーちゃん、住まいはどうするんだ?」 「あぁ、これを機に娘夫婦のところに厄介になるよ」 「おかあさんってば、私たちは前から大歓迎だったのに遠慮して」  隣りに立っていた娘さんが微笑んだ。 「逃げ遅れた母を助けて下さってありがとうございます。日頃から母がお世話になっているのにちゃんとお礼もせず……」 「いえ、お互いさまなので気にしないで下さい。それより無事で良かった」 「火事場のあんたはかっこ良くて、お父ちゃんには悪いけど惚れ惚れしたよ」 「お母さんってば」 「ははっ、光栄です」 「……あんたはいい男だ。菫ちゃんはご主人が亡くなって苦労したが、あんたのような人と出逢えて良かった。あぁ、口が悪くて悪いね。あんたじゃないね。潤は……葉山 潤は男の中の男で100点満点だ!」  手放しで褒められて気恥ずかしいやら嬉しいやら……  こんな時兄さんならどう応じる?  きっとこうだ。  胸を張って顔を上げて  今のオレを見てくれている人に、伝えたい言葉は 「ありがとうございます!」 ****  東銀座の路地裏に、こんな立派な石造りのビルがあるなんて。  一体いつ頃建てられたのかしら?  クラシカルな雰囲気の佇まいに惚れ惚れしちゃう。 「ここが俺の城だ」 「すごいですね」 「さぁ、どうぞ」 「お、お邪魔します」 「おじゃましましゅ」  いっくんと手を繋いでテーラーの中に入ると、シックな赤い絨毯に驚いた。私が生きてきた世界にはないふかふかの踏み心地だわ。 「東京は人が多くて、疲れただろう?」 「大丈夫です。それよりこれを……芽生くんのダウンジャケットなんですけど、ファスナーが壊れてしまって」 「あぁ、これか。なるほど、これは確かに総取っ替えしないと駄目だな」 「出来そうですか」 「任せておけって。そうだ、いっくん、待っている間、ジュースを飲むか」  いっくんはびっくり顔で、首をぶんぶんと振った。 「ん? いらないのか? 喉が渇いただろう」 「あ……えっと、おちゃをのみましゅ。ママ、すいとうは?」  あ、水筒……すっかり忘れていたわ。  あの日いっくんが保育園から持って帰った水筒は、手元にあったのに。 「ごめんね。ママ……うっかりしていて忘れちゃったの」 「だいじょうぶだよ。いっくん、がまんできるよ」 「よーし、地下に、俺の弟のやっているBARがあるんだ。そこでジュースをもらってくるよ。いっくんは何ジュースがいい? 遠慮するなよ」 「いいの? ほんとうにいいの?」  いっくんが私と大河さんを不安そうに見上げている。 「いっくん、お願いしようか」 「うん! いっくんね、とってもしゅきなのがあるの」 「何だ?」 「あのね、すいしゃんのももおちりがしゅきなの」 「えっと、すいしゃん? 水産? それはあまり聞いたことがないか飲料メーカーか」  わわ、いっくんってば、それじゃ宗吾さんみたいにへん……よ。  すいしゃんは月影寺のご住職さまなのに、申し訳ないわ~ 「ああああ、何でもないです。桃のジュースはありますか」 「あるさ、カクテルで使うからな。じゃあちょっと店番をしていてくれ」 「はい」 ****  僕は地下のBARで息を整え、早速生け込みを始めた。  限られた時間内で仕上げるので、ぐっと集中していく。  すると僕の作業を見守っていた二人が、柔らかい雰囲気で話し出した。 「ミモザか……もうそんな季節か」 「兄さん、ミモザは俺たちにとって大切な花だよな」 「この花が繋げてくれたんだ、お前との運命を」 「あぁ、そうだ。あれ? そういえば兄さん、今日はお客さんじゃなかったのか」 「あぁ、飲み物を出してやりたくてな」 「いいよ、何でも作るよ。カクテルでいいのか」 「あ、いや、お客さんはお子さんなんだ」 「へぇ、おちびちゃんか。じゃあジュースだな」  大河さんと蓮くんの会話って雰囲気があるから、ドキドキする。 「それで桃ジュースがいいそうだ。あるか」 「あぁ、ちょうど完熟桃ジュースを仕入れたよ」 「へぇ、いいな。味見させてくれ」  完熟の桃?  熟れた桃と言えば……  僕の中では『すいしゃんのおちり』一択だ。  そう、いっくんのお陰でインプットされてしまったよ。  今は仕事中だぞ、瑞樹。    余計な煩悩は振り払わないと、どうも最近の僕はヘンだ。  息を吐いて、再びミモザの花を見つめた。  暗い照明の中で瞬く花も美しい。     

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