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第3話 窮鼠猫を噛み砕く

 密室と化した倉庫内に溢れかえるフェロモンと跳び箱の中やくしゃくしゃのビニールシートの裏に隠した無臭のオメガ用強制発情剤。これで今まで失敗したことなどないのだ。  生意気にこちらを睨みつけているオメガの美少年もそのうちに頬を赤らめ、形の良い唇から艶めかしくも荒い呼吸を繰り出し、長い睫毛に覆われた切れ長の眼を潤ませて膝をつく。  そうなってからが本当の饗宴……いや狂宴の始まりだ、と集まった青年達は思う。自分達はタガの外れたオメガの痴態を余す処なく録画し、編集し、金に糸目をつけない好事家へと売る。売ったその映像がどう使われようと知ったことではない。通帳口座の残高が増えてゆけばそれで良いのだ。その為にも動画は主演のオメガを従わせるにも必要な物だった。  輪姦されたオメガでも良いと、いつ(さら)われてしまうかわからない。主演がいなければ新作は作れないし、商品がいなくなってしまっては律儀にご意見フォームから商品の買取を持ちかけてくれるお客様に売り飛ばせなくなってしまう。  動画をチラつかせて脅し、新たな無修正ポルノを自分達は愉しみつつ作りあげ、残高を増やし、豪遊する。自分達は確かに悪いことをしているのかもしれないが、とりたてて極悪というわけでもないだろう。自分達だってネットサーフィン中に偶然見つけたサイトの真似をしただけなのだから、これはアルファ性に生まれついた特権の一つだとこの場にいる全員が――ベータ性の男ですらこちら側で良かったと思っていた。  そしてもう一つ。  菅原律は最短記録で行方不明になるだろう、と。  いっそ気品さえ感じる眼差しの強さ、意志の強そうな固く結ばれた唇、禁欲的な黒のネックガード。その全てが屈服させてやりたいと本能に訴えかけてくるのだ。 「退け」 「何? まだ強がってんの? 早く楽になっちゃえば良いのに」 「あぁウンザリする。埃っぽくて空気は悪いし気持ち悪いし」 「はぁ!?」  父親が署長なのだと踏ん反り返っていた赤毛の男が一歩近づく。律は不愉快さを隠そうともせず眉間を寄せた。 「ちょ、待て。こいつなんかおかしいって」  赤毛の男の肩を掴んで止めた金髪は、呼気荒くなるどころか汗一つかいていない律に不自然さを覚えていた。  裏の裏のルートでしか手に入らない薬を使い、その上五人のアルファがフェロモンを垂れ流しにしているというのに、発情の兆候すら見えないのだ。  このオメガは何かがおかしい。 「お前、まさか処女通り越してヒートもまだだったりする?」 「答える義務はない」 「あ、俺、聞いたことあるわ! アレじゃね? オメガのくせにアルファのフェロモン感じ取れない出来損ないがたまにいるって。あー、それでか納得。んじゃいつまで待っても時間のムダだしサッサとやっちまおうぜ。感じ取れないってだけで、コトが始まりゃ身体の方はヒンヒン感じまくるだろ? オメガなんだから」  素っ気ない答えに再び距離を詰めようとした赤毛を真っ直ぐに見つめて、律は小さく舌打ちをした。 「オメガのくせにオメガのくせにってバカの一つ覚えみたいに繰り返すしか脳がないのかな、アルファのくせに。ま、バカだから親の威光に胡座かいてこんな犯罪繰り返すんだろうけど」 「てめ、ざけんな!」 「ふざけてないけど。アンタ達が俺にしたこと、今までにしてきたこと、もちろん報告させてもらう」 「だーかーらー! 俺の親父は署長なの。そうでなくても国家の主要メンバーは全員アルファなわけ。お前みたいなオメガがどれだけ騒ごうとこっちは痛くも痒くもねぇんだって」  勝ち誇ったように指を突きつけ、解んねぇかな? と唾を撒き散らしながら怒鳴る男は醜悪の一言だった。  律はそろそろ頃合いか、と残りの男達の欲情しきった表情を見て冷静に判断を下した。 「アルファじゃなくなったらどうなるんだろうね? 署長のパパは助けてくれる? あんたみたいな犯罪者でも庇ってくれるのかな?」  小馬鹿にしたような律の言葉に男達は違和感を覚えた。  アルファはアルファとして生まれ落ち、ベータはベータとして育ち、オメガはオメガとしての役割――アルファを悦ばせ子を成し、次代のアルファを産み落とす――を果たすもの。  それが男達にとって当たり前の世界で、アルファではなくなるなど仮定するのもバカらしい内容だった。 「はぁ? あ、え……」  律の口元が柔らかく弧を描いた瞬間、男達の視界が耳鳴りと眩暈に揺れた。  一メートル程度しか離れていなかった赤毛は頭を抱えながらしゃがみ込み、次いで金髪の男がゴツい指輪で飾られた手で口元を押さえ(うずくま)った。出入り口を固めていた二人は咄嗟に倉庫から出ようとしたが、もともとの鍵とは別に自分達で巻いたチェーンと南京錠に苦戦している間に汚れた床に膝をついた。  狭い倉庫の中、律を除いて立っているのはベータの男だけだ。頂天に君臨するアルファ達が皆揃って床に蹲っている図に目を白黒させている。 「な、何したんだよ……」 「別に、まだ何も……ただ襲いかかられると俺も手加減できなくなるから、その前に強めの威嚇フェロモン出させてもらっただけ」  事もなげに言う律の足元から苦し気に震える声が弱々しく上がった。 「おかしい、だろ……おま、オメガ……」  威嚇や威圧に関する攻撃フェロモンを自らの意志でコントロールできるのはアルファのみだとされているこの世界で、その単語がオメガの少年の口から出ることは違和感しかなかった。 「あのさぁ、自然界でもそうだろ? 天敵に襲われた時に一時的に毒や嫌な臭いを出すいわゆる“弱者”が存在するだろ? 生物の授業で習ったはずだけど……やっぱバカなのかな、アルファのくせに」 「で、でも、オメガは誘惑フェロモンしか出せないはずだろ? おかしいよ、お前おかしいよ」  所在なさ気に立ち尽くすベータ性の男は慌ただしく視線を動かし、今までに学習してきたはずの第二性に関するあれこれを思い起こしているようだった。 「アルファじゃなくなったら……なんて、そんなことオメガができるわけない……そんなことよほど強いアルファでないとムリだ……定着したアルファ因子の破壊なんて、そんなことオメガじゃムリだろ、おかしいよ」 「まぁ、おかしいのは認めるよ。アンタはベータか。ベータってアルファ因子もオメガ因子も持ち合わせていないよね……じゃあ、壊れるとしたらナニが壊れるんだろう?」  律の言葉の後半は独り言のようで、好奇心をにじませた視線にベータの男は言い知れぬ恐怖を感じた。 「アンタ達が狙ったのが俺の方で良かったよ。烈は名前の通り俺なんかよりよっぽど気性が激しいから」 「くっそ……早く……フェロモン引っ込めろ……おい、筒井、ボケッとしてねぇでさっさとドア開け――」 「ふぅん、筒井さんね。ムリじゃないかなぁ? 筒井さんが一番ナニが壊れるか解らなくて怖くて動けないと思うよ」   しゃがむこともできないくらいにね、と昏く笑う律の笑顔に筒井は背中を流れる冷たい汗を止めることができない。 「あ? つ、つい、なんかベータじゃねぇか。この世で一番換えの利くただのパーツじゃねぇかよ!」 「黙れ、クズ」 「おぇっ……」  赤毛の暴言に対して目を見開くだけの筒井から目を離さずに、律は短い罵りの言葉とともに更に濃い威圧フェロモンを放出した。筒井には全く感じ取ることのできない匂いだったが、赤毛がついに床に嘔吐したことで、漠然とそうなのだろうと察した。  このオメガはおかしい。そして危ない。どうにか逃げなくては、許してもらわなければ、とんでもないことになってしまう……アルファやオメガと違い、確かにフェロモンを嗅ぎ取ることはできないベータの自分にも、本能に訴えてくる恐怖感や危機感は備わっているのだ。どうすれば、許されるのだろう、と筒井は上手く回らない頭でそればかりを考え続けた。 「な、なぁ? 聞いたろ? 俺、コイツらに上手く使われてただけで」 「で?」 「いや、だから、主犯じゃないっていうか、パシリにされてるだけで……機材の設置とか! 命令されてただけだから……」 「いやいや、なかなか見事な連携プレーだったじゃないですか。特にアゴで使われている雰囲気でもなかったし、ちゃんと自分の仕事をしていたじゃないですか? あっ!」 「な、何!?」 「烈が来る! アンタ、下手に動かない方がいいよ? 俺にも怒り狂った烈は止められないから」  筒井の返事も聞かずに、足取り軽やかに床に伸びている男達を長い足で避けながら出入り口へと向かった律は、南京錠の鍵がないことに気づき、黒髪の男の肩を軽く蹴って鍵を出させた。その際にも威圧のフェロモンを使ったのだろう、男は素直に震える手で小さな鍵を恭しく差し出した。 「律!! ケガは? 何もされてない? 本当に? よく見せて」  ドアが開くと同時に飛び込んできた双子の片割れ……瓜二つの唯一の違いは左の目元の小さな泣き黒子のみだった。 「思ってたより早かったね」 「律がアルファに絡まれてるの見たって教えてくれたヤツがいたんだよ。明らかに年上だし、ベータの自分じゃどうにもできなかった、ごめんって」  そう言われてあの場をそそくさと離れたベータ性の子がいたなと思い出した律は、お礼しなきゃね? と烈に笑いかけ、未だ言いつけを守って微動だにしない筒井に対して侮蔑と哀れみを覚えたのだった。  筒井は滑稽なほどに、命令されること・命令を守ることに慣れすぎていた。 「あとは律の匂いがしたからね、すぐに来れたよ……俺としては納得いかない遅さだけど。律がここまでの威圧出すって相当なことを言われたんじゃない? ……カメラ? ああ、なるほど……クズの集まりか」   烈の眉間にシワが刻まれたと同時に律のものと同等レベルの威圧フェロモンが広がった。  烈の威圧はまずは足元の黒髪二人に直撃し、狭い倉庫の奥へ奥へと広がってゆく――既に律のフェロモンで朦朧としている連中は揃って胃の内容物をぶちまけ、苦悶の呻き声を上げた。 「アイツ、立ったまんま気絶してるの? 器用だなぁ」  筒井がベータだと理解した上で揶揄(からか)う烈の目は怒りでキラキラと輝いて見えた。 「立ち位置的に考えて律は追いつめられていたはずだから……赤毛と金髪が主犯のクズ。コイツらは門番兼オコボレ狙いのクズ。あのベータもオコボレ狙いの取り巻きのクズ。そんなクズのくせにアルファだからってだけで俺の律に触れたの? 汚い言葉を聞かせたの? 嫌な思いをさせたの? 同じ空気を吸っていたの? うわ、なんて身の程知らず!」  徐々に早口になってゆく烈は、忌々しそうに目にかかる前髪をザッと掻き上げると、ツカツカと倉庫の中へと入ってゆく。 「ここにはオメガを喰い物にするクズしかいない――それが俺の答えだ」  ずしりと重くなってゆく空気を感じて律はそっと倉庫の鉄製のドアを閉め、ブレザーの内ポケットからスマートフォンを取り出し、素早くコールボタンを押した。

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