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第1話

ゆめをわたるくすり  透明な壁の近くで、不可視の椅子に座って如月は片膝を抱え込んでいる。ここが現実ではないことを彼は知っていた。  一枚仕切りを隔てた向こう側で、幼子が容姿に見合わない苦笑を浮かべた。それでも、奇妙に慣れた表情のように見えた。馴染んでいる笑い方で、その子供は 髪を揺らして振り向く。階段の半ばで。誰かに呼びかける声は如月には聞こえない。子供の唇が動く。何を言っているのか、如月は知っている。  これは夢だ。だから、真実この眼に映っているわけではない。けれど如月は瞬き一つしなかった。できなかった。見る、という意志がこの世界を闇に落 とさない。途切れもしない。  彼の姿を見ることが叶うのはこの世界でしかなかった。悲鳴を上げる心を無視して、如月はただ見つめている。手を伸ばしても意味はない。叫んでも 届かない。そんなことはもう、とっくに判っていた。見つめる先で、子供の眼が見ひらかれる。  この続きを、彼は今も鮮明に覚えている。  ふ、と目を開けた。プラチナブロンドの髪が視界を遮っている。  途切れていた思考が繋がれるような感覚と共に、それが何かを理解した。掠れた声で呟くように呼びかける。 「……シロ」 「やっと起きたか。ずいぶんと寝起きが悪いんだな」  如月が眼を瞬かせると、シロは傲岸に微笑んで身を起こす。視線だけを移せば、彼の薄い背が見えた。ベッドに腰掛けている。どうやら腰をひねってこちらに覆い被さっていたらしい。  如月は薄く目を閉じた。夢の残滓が思考を浸食している。 「それは?」  感情を含まない声で呼びかけられ、如月は目を開いた。ゆっくりと起き上がり、口の端を吊り上げて答える。 「俺のじゃない。――本当に雑食だな」 「いちばん美味しそうなのはお前だ。土産なんていらないから、お前を寄越せ」 「駄目だ」 「ケチめ」  言葉遊びのようなやりとりだ。シロはくすくすと笑う。借り物のシャツを羽織ったままの格好で、足を浮かべては下ろす。ベッドに伝わる振動が気にくわ ないのだろう、眉を顰めた如月が低い声で名を呼ばわるのを聞く。  まったく、この男は強情だ。 「悪夢を見てうなされもしない。死んだように眠るのは癖か?」  返事はない。彼はベッドから降りて立ち上がり、早々に服を脱ぎ捨てて制服へ着替え始めている。  シロは主が離れたことによって空いたベッドを占拠して悠々と寝転がる。少し乱れた程度のシーツを独り占めして両腕を広げた。目に映るのは天井、瞳を 閉じれば思い出せるのは黒髪の男の容貌。血の気の引いた顔で、彼は決して身動きをとらず夢を見ている。喉の奥底に悲鳴を押し込め、決して表への発露を許さ ない。朝、彼の声が掠れているのは、寝起きだからという理由だけではなかった。  せめて涙の一つでも流すか、あるいは悲鳴を上げて飛び起きるでもすればつけ込む隙が出来るのに。 「さあ。誰も自分の寝姿なんて知らないだろう」 「よくもいう。自由意志でおれの侵入を防ぐくせに」 「当然の権利だな」  カフスを留めながら言う姿に目をやり、シロは寝返りを打って横向きになる。ハンガーにかけた上着を手に取る如月の姿は、窓からの差し込む光に 滲んでいた。  その気になれば誰よりも存在感をあらわにするくせに、時折こうして気配さえも危うく霞む。人間らしくない、とシロは胸中で呟いた。  如月は腕を袖に通し、肩越しに振り返ってシロを見た。 「おとなしくしていろ。表には出るな」 「口うるさいな」 「もうひとつ。冷蔵庫の中をぐちゃぐちゃに荒らすのもやめろ」 「断る」  呆れた調子の溜息が落とされる。眼を細めてシロは起きあがった。足下のクッションを取り上げて膝の間に置き、両腕で抱え込む。  代替案なら初めから提示している。 「止めさせたいならお前が差し出せ。おれは腹を空かせている」 「……悪食め」 「そうとも」  己のそれは決して差し出さない男だ。見れば必ず傷つくくせに、喪うことを断じて己に許さない。  制服のボタンを外したまま、如月はシロへ手を差し出した。シロは眼を眇める。 「また拾ってきたのか」 「回収くらいするさ、責は俺にある」  よくいう、と告げる。あざ笑う調子の筈が、多分に苦笑を含んだ響きになった。全く、このシロさまともあろう者が、と口の中で呟きながら、クッションを横に 放って指先を捕まえた。形は整っているが、表面の荒れた手だった。  細い道を通じて、この男は夢を巡る。悪夢の欠片を拾い集め、そしてシロはそれを喰らう。  この男の手を通したそれは、いずれも上質で、甘い。 (哀れな男だ)  悪夢を他に引き寄せながら、集めて身に積もらせる。溜まり込んだ悪夢は、夜ごとシロが喰らっても消えることがない。彼自身の悪夢に手を出さなくて も、シロが腹を満たすだけの量はあるのだ。  夢は夢を招く。これだけの悪夢を呼び寄せる何かを、この男は飼っている。 「貰うぞ」  額の文様が鈍く光るのを、シロは知っている。己はとっくに人間ではない。餌は誰かの悪夢で――  唇が弧を描く。甘い、夢。 (この男に、定めた)  契約を交わした。彼は知っていた。彼の周りの誰もが不安と悪夢に苛まれる。彼自身の咎であることを、自覚していた。哀れな子供。  目を付けられた。見つけられてしまった。 (人間では、ないものに)  元号が変わって早八年。突如として意識を失い、目が覚めた後に自殺をする人間が急増した。遺書が残されることの多いこの事件は、ウイルスや事故とは殆ど関係のない ことから、マスコミの間でこの表現が非常にしばしば用いられるようになった。曰く、――悪夢に捕らわれた、と。  一般人から上級国民に至るまで被害が相次ぎ、一人の皇族の母がやはり自ら命を絶ったことから事態を重く見た日本国は、現在全力を挙げてそのメカニ ズムを探っている。そして、研究者は一つの結論に至った。気絶と思われたそれはレム睡眠状態に等しく、つまり彼らは夢の中で絶望を味わい、未来の展望を 喪って自殺を図るのだ、と。そして彼らはその対抗手段として、悪夢を喰らうものを擬似的に作り出す研究を行っている。古伝に従い、それはバクと呼ばれた。  東京はひとつ、伝説上の生き物と思われていたそれを捕らえることに成功していた。幾つかは捕らえたカプセルの中で姿を消していたが、彼は残って いた――即ちシロである。 「……判らないな。人間と同じ形をしているが、お前は人ではないのだろう?」 「ああ。だが、動物の見る夢に悪夢は存在しない。そして人から無理矢理悪夢を奪う術を、おれたちは持たない」 「その姿は疑似餌のようなものか?」 「ご希望とあれば熊の形を取ってやろうか。鼻は象、目は犀、脚は虎、尾は牛――。全長を考慮する必要はあるがな」 「興味がないな」  シロは彼らの中で、おそらく最も人界に耐性があった。彼がしばしば人界をさまよっていたためだ。彼らは悪夢を餌とするが、集めるのは得意ではな い。夢を媒介に伝わって行くにも限界があるし、いっそ人界に出て人に触れた方が楽に、しかも美味しく食べられる。そのためにシロは夢から抜け出てい た。 (失敗したがな)  研究所に押し込められて見せられた夢は、どれもこれも不味そうなものばかりだった。人間同士のもめ事の果て、解放された場所にいたのはひどく美味しそう な匂いのする少年一人。しかもそれは妙に悪夢に親しい気配がした。これは引き寄せる体質の者だ、と直観した。  さすがに自覚があったらしい。目が覚めている状態でこれだけ悪夢の残滓を引きずっていれば当然だろう。 「契約は悪夢を喰わせることであって、俺のとは限らない。そうだろう?」 「詐欺師の理屈じゃないか」 「夢を渡る。ありがたく使わせて貰ってるよ」  人間のくせに、とシロは胸中で呟いた。夜ごと夢を渡り、自分で引き寄せた悪夢を回収する。そしてそれをシロがたべる。……巧く回すものだ。まっ たく感心する。

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