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3000字BL
来栖田ハイネは殺さなかった。
愛川リルケを殺さなかった。
それがただ一つの後悔。
来栖田ハイネという男がその男に出会ったのは墓地だった。
しとどに雨が降っていた。
ハイネは真新しい白いシャツに黒いネクタイを締め黒いスーツを着て黒い傘を差して茫洋と墓石を眺めていた。
バタバタと傘に当たる雨粒がひどくうるさかった。
革靴が水浸しになっているのが不快だった。
近くの墓石に雨に濡れるままぐったりともたれかかる男を視界の端で認めたとき体が跳ねるほど驚いた。
幽霊かとおもったのだ。
それくらいその男は色を無くしていた。
全身に三度ほど視線を走らせるとわずかに上下している胸にどうやら人間らしいとおもった。
「あの」
ハイネは水音を立てながらゆっくりと男に近付くと声を掛けた。
傘を差し掛けても反応はない。
「あの!」
雨音で聞こえなかったのかともう一度声を張った。
男は緩慢に顔を上げた。
目が合った。
合ってしまった。
ふいにその腕を引いた理由は今でもわからない。
ほうっておくと死ぬんじゃないかとはおもったが、それだけで他人を一人暮らしの家に連れ帰るほどハイネは優しくもなければ寛容でもなくまた無防備でもなかった。
さみしかったからかもしれない。
さみしいとおもっていたところにさみしい目をしてあらわれたからかも。
それかその目がすごく綺麗で澄んで見えたから。
仲間意識? 一目惚れ? あるいは、運命?
だが今なってはそんなこと全てどうでも良いことだ。
ハイネの家は墓地から徒歩二十分ほどの木造平屋建てだった。祖父が残したものらしい。ハイネの周りは昔から『らしい』ばかりだった。確かなものは自分の体くらいだった。
二十分も見知らぬ男の手を引いて歩いたのは自分でも不思議だったが、嫌な気持ちはしなかった。靴の不快さを忘れてしまう程度には男の手がいつまでも冷え切っていることばかり考えていた。早く温めなければと、そればかり考えていた。
三和土の端の腰掛けに男を置いてバスタオルを取りに上がろうとしたら踏み出した足の靴下が水を吐き出して、音と感触の不快感にハイネは顔をしかめた。
靴下を無理に足から引き剥がして浴室へ向かい洗濯機に落とすとビチャリと鈍い音がした。
風呂を追い焚きしてから大きめのバスタオルを二枚取り出し一枚で自分の頭を拭きながら男のもとへと戻ったが男はマネキンか何かのように微動だにしていない。
頭からバスタオルを被せてもなんの動きもみせなかったのでハイネは溜息を吐き出しながら男の頭を乱暴に拭った。
「お前は誰だ」と唐突に男は言った。
「そっ、……来栖田ハイネ」
それはこちらの台詞だと声を上げそうになったのを飲み込みハイネはゆっくりと名乗った。
「くるすだ はいね」
男は繰り返した。
「そう。ハイネでいい。お前の名前は」
「……愛川リルケ」空気に溶けそうな声で男は言った。
「リルケ、上がって」
ハイネはリルケの腕を引っ張った。
リルケはひどく緩慢な動作ながらもハイネに従った。
「服、脱いで、そこの洗濯機に入れて、そんで風呂、入って」
そう言って浴室にリルケを放って自室へ向かい、部屋着に着替えた。
ハイネは別の部屋着と下着を持って洗濯機の前に戻った。
リルケは見たところハイネとそう体格も変わらないだろうからたぶん着替えはこれで間に合うだろうし向こうも文句は言うまい。
ハイネは浴室から目につく所に着替えと新しいバスタオルを置くと自嘲の笑みをこぼした。こんな風に甲斐甲斐しく誰かの世話を焼くだなんて『らしくない』。全く『らしくない』。
洗濯機の中に自分が脱いだ下着を追加して適当に洗剤を入れて回した。
泥と水を吸った重たい服を飲み込んだ安物の洗濯機は轟音と振動とともに働き出した。
途中浴室から「あー」と気の抜ける声がしたのでやっぱりあれは人間なんだなと当たり前のことをおもった。
台所で湯を沸かし適当なマグカップ二つに適当にインスタントコーヒーを淹れ居間のこたつの横に腰を下ろした。一つをこたつの上に置きもう一つを両手で包むとてのひらに染み入るように熱が広がった。存外自分も冷えているらしいとコーヒーをすすった。少し薄かった。
風呂から上がったリルケがこちらを伺うように歩いてきた。
「これ、借りたけど」
と服を指すのでハイネは頷きマグカップを押しやった。
リルケはハイネの隣にあぐらをかくとマグカップを覗き込んだ。
「コーヒー?」
リルケが呟くように言うのでハイネはまた頷いた。
「……お前、お人好しって言われねー?」
呆れたような声を出しながらリルケはマグカップの持ち方に悩んだ様子を見せつつもそれを口に運んだ。
「言われたことないな。人でなしならある」
ハイネが答えるとリルケが目を瞠ってハイネを見たのでハイネも何事かと肩に力を入れた。
「お前、声きれーだなー」
びっくりしたとリルケが心底感嘆したという風に言うので今度はハイネの表情筋が仕事を放棄した。
「ど、どうも? ……それも初めて言われた」
ふーんと呟くリルケはそういえばとりあえず人間の肌色を取り戻しておりそのことにハイネはひどく安堵した。
リルケはぐるりと無遠慮に部屋を見回すと畳に無造作に積まれた本を一冊手に取った。
「こーゆーのってわざわざ買うのか? おもしれーの?」
「俺は好きだけど。あっちの」
ハイネは部屋の隅にあるパソコンの隣を指差した。
「カラーボックスに入ってるの以外だったら、適当に読んでくれて構わない」
「いらね。俺字読めねーし」
手にしていた本を畳に落としながらリルケが言った。
「字が読めない? お前外国人だったのか?」
「ちげーし。日本人だけど、日本語よめねーの」
よくいんだろがとリルケは事もなげに言う。
「ハイネだっけ? お前変わってんな」
「なんで」
「本持ってるし俺を家に連れ込むし風呂に入れるし」
「なんならお夕飯もお出ししますよお客様」
「まじか。え、まじか。あ、金取る?」
「なんでだよ取らないよ乗りかかった船って言葉知らない?」
「しらね」
その夜ハイネはいつもより多く米を炊いた。いつもより多く野菜を炒めたしいつもより多く味噌汁を作った。それは不思議な感覚だった。
その夜身を寄せ合うように横になったのもそのままお互いが相手を探るように体をつなげたのも自然の成り行きだったとおもう。
リルケが何を考えていたのかはわからないが、ハイネはそうだったら良いとおもった。
磁石のN極とS極が引き合うように、太陽が東から西へ動くように、肺が酸素を吸って二酸化炭素を吐き出させるように、そんな風に自然なことだったら良いとおもった。
それから二人は兄弟猫のように身を寄せ合って暮らした。
息を吸うように肌を合わせたが食事を二人分作ることだけはいつまで経ってもハイネは慣れなかった。
結局リルケは三ヶ月ほどハイネのもとにいた。
それ以上滞在するつもりがあったのかはわからない。
非日常は非日常でもって強引に幕をおろされたからだ。
リルケは殺された。
こんな、何もない、家で。
強盗に、殺された。
らしかった。
犯人は、すぐに捕まった。
らしい。
何が盗られたか、誰がやったか。
皆どうでも良いことばかり気にしていた。
リルケはハイネのもとに残らなかった。
血の一滴も、骨の一欠片も、ハイネのもとには残らなかった。
ハイネのいない間にみんなみんな持っていかれてしまった。
涙はでなかった。
ハイネはひとつのことしか考えられなかった。
自分が殺しておけば良かった。
誰かに殺されるくらいならそうしておくべきだった。
この世に確かなものなんてないのに。
それを忘れていたわけではないのに。
来栖田ハイネは殺せなかった。
愛川リルケを殺せなかった。
それがただ一つの後悔。
了
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