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第1話

「カンパーイ!」  ノリの良い掛け声と共に、グラスを打ち鳴らす音が響く。一気にビールを流し込むと、喉を炭酸が爽やかに擽っていった。 「ぷはぁー」  儀式のようにお決まりの息を吐き出して、俺は少しだけネクタイを緩める。隣の席に座っていた梶尾(かじお)が、「次も生で良い?」と声を掛けてきた。 「おぅ。アレ? 梶尾って幹事だったっけ?」 「違うけど。俺も頼むから」 「悪いな」  ニヘラと笑って、俺は梶尾の肩を叩いた。梶尾は薄い唇を少しだけ上げて、それから歩いていた店員に声を掛ける。  今日は課の飲み会だ。五百万円の小さな案件だが、納期通りに製品を納められたという事もあり、皆伸び伸びと飲み会に参加している。最も、遅延している他の案件を抱えているやつもいるが、それはそれで気分転換というやつだ。  俺の方は、最近は仕事は順調。上手くないのはプライベートばかりだ。  二十七にもなって、彼女もいないとなれば親に色々と小言を食らうわけで。休日を共に過ごしていた友人たちも、観念したように次々結婚しているため、誘う相手もいない。ここ最近は、スマホゲームと有料チャンネルで海外ドラマを観るくらいしか趣味がない。 (昔は、キャンプとか良く行ったのになぁ)  子供が生まれた世帯からキャンプに誘われても、虚しいだけだ。俺だけダメなやつに思えてしまう。まあ、友人の子供たちは可愛いが、可愛くないしな。(察してくれ)  俺は二杯目のビールをあおりながら、隣の席で涼しげな顔をしている梶尾を見た。  我が課の出世頭である梶尾裕昭(ひろあき)は、スラリとした身長の青年で、俺の同期入社である。整った顔立ちだが、華やかな印象はない奴で、無口なせいかどちらかと言えば地味に見えた。仕事は出来るやつなので、課では一目置かれているが、浮いた噂は聞かない。 「梶尾はカノジョとかいるの?」  不躾にそう聞いたのは、プライベートが謎だという事もあるが、本当に噂を聞かないからだ。同期の誰と仲が良いとか、そんなことも聞いたことがない。休日とか、何してるんだろうか。  今まで、あまり気にしたこともなかったと、今さら思い付く。俺が仲が良かった同期は、既に結婚しているか、海外でバリバリに働いているか、脱サラして店を構えてる奴だ。  梶尾は少しだけ目を瞬かせて、口端を上げる。その笑みが、妙に魅惑的だった。 「長田(おさだ)は、どっちだと思う?」  質問に質問で返され、俺は腕を組んで唸った。  どうだろう。  あらためて、梶尾をじっと観察する。  アイロンのかけられたシャツ。スーツもセンタープレスが綺麗に掛かっている。高いスーツじないが、手入れは悪くない。腕時計はスマートウォッチ。俺と同じ奴だ。視線を移動させ、飲み屋の座敷の側にある靴箱を見る。確か、俺の上に置いていた。革靴のかかとが大分磨り減っている。 「居ないな」 「どうして?」 「スーツ、ワイシャツ。あともしかして下着も? クリーニングだろ。それが理由」 「わぉ。名探偵?」  両手を上げて、梶尾が歯を見せて笑った。俺も笑って、グラスを打ち付け合う。 「ま、彼女がいたら、パンツくらい洗ってくれるだろ。金掛かるし」  革靴の手入れがイマイチな所を見ると、拘りがあるのではなく、面倒なのだろう。そう指摘してやると、梶尾は唇を曲げた。 「一応、洗濯機は有るんだよ。ただ……。あんまり、好きじゃないんだ」 「まあ、面倒だよな。でも天気の良い日に洗濯すっと、気持ちイイじゃん?」  梶尾は少し考えるように黙りこんで、ずいっと顔を近づけてきた。周囲のざわめきのせいで、声が聞こえにくい。俺も屈むように顔を近づける。 「長田って良い匂いするよね。柔軟剤? 俺もそんな匂いなら、明日の朝、早起きして洗濯機回せそう」 「ん? これは洗剤だよ。柔軟剤嫌いでさ。待ってろ、このメーカーの……」  胸ポケットからスマートフォンを取り出して、通販サイトの画面を開く。ディスカウントされた洗剤が表示された画面を、梶尾が横から覗き込んだ。 「どれ?」 「これ。ドラッグストアとかでも安売りしてるよ」 「なるほど。メモしよう」  梶尾はそう言って、自分のスマートフォンを尻のポケットから取り出して、メモを取る。それを横目で見ながら、俺はスマートフォンをテーブルに置いてビールに手を伸ばした。  空になったグラスを見て、梶尾が手を上げる。 「生中?」 「あー、どうしよ。ウーロンハイで」 「じゃあ、俺も」  梶尾もスマートフォンをテーブルに置き、やって来た店員に注文を告げた。  俺は、同期の梶尾が、まだ独身らしい生活をしていることに安堵し、気持ち良く酒を飲んでいた。  まさか、この飲み会をきっかけに、梶尾の奇妙な行動に気がついてしまうとは、想像もしないまま。  ◆   ◆   ◆  心地よい酩酊感に、ふわふわしたまま部屋のドアを開ける。電気を付けながら鞄をベッドに投げ捨て、ネクタイを外した。  決して広くないワンルームの部屋だが、帰ってくるとホッとする。すぐさまベッドに横になりたかったが、喉が渇いていた。 「ふぁ、シャワー面倒……。明日の朝で良いかな……」  冷蔵庫から水を取り出して、一気に喉に流し込む。冷たい感覚に、少しだけ思考がハッキリしてきた。このまま少し酔いを冷まして、シャワーを浴びて寝よう。そんな気になってくる。 「んー。デイリー消化しておくか」  スマートフォンに手を伸ばし、五千円以上は課金しないと決めているSNSゲームを起動することにする。デイリーミッションだけ消化して、ボーナスアイテムを貰わなければ勿体ない。時刻はまだ十二時を過ぎていない。間に合うはずだ。  画面をタップして、顔認証が正常に起動しない事に眉を寄せた。まま、有ることだ。認証するときはパッと切り替わるが、ちょっとしたタイミングでカメラが指で隠れていたり、位置が悪いとすぐにパスワードを聞いてくる。  「yuzuru0225」。名前と生年月日を組み合わせた、単純なパスワードを入力して画面を開くと、いつもの場所にゲームのアプリがなかった。 「あれ? 変なところ入っちゃったかな」  飲み会の席でいじっていたから、誤操作をしたかも知れない。だが、いくら探してもアプリは見つからず、見慣れた配置が随分変わっていた。 「あー、クソ。アンインストールしちゃったか? 確か、ユーザーIDが解れば、データはサーバーに有るんだよな……」  プレイしていたゲームには、アプリを消した場合や、機種を変更した時に使用するコードがあったはずだ。確か、スクリーンショットを保存していたはずだと、フォトアプリを起動して、画像を探すことにする。  そこに来て、俺は画面に表示された写真に、驚いてスマートフォンを落としそうになった。 「えっ」  見覚えのない画像が、フォルダ内に無数に入っていた。  それも―――。 「お、俺の写真? え、なんで?」  フォルダ内に大量に保存された写真。その殆どに、俺が写っていた。いや、被写体は俺で、他の人間が入り込んでいると言った方が、正しいだろう。  薄気味悪さにゾッとして、酔っていたことなどすっかり頭から消え去ってしまう。怖いもの見たさで指を滑らせ、写真をめくっていく。 (会社、だけじゃない……)  社内で、誰かと喋っている時。昼休みにゲームをやっている時。昼寝している時。  昼飯を外に食べに行った、その店の向かい側から撮られたもの、帰りにスーパーで買い物をしている姿。家に帰って、洗濯物を取り込んでいる所―――。 (え、なんで? どうし―――)  何気なくスマートフォンを操作し、通話履歴を確認。次いで、メールを開いたところで、ようやく俺は、気がついた。 「あっ! このスマホ……」  俺のじゃない。  自分のスマートフォンじゃなかった。その事に、どっと汗が吹き出る。 「そ、そっか、飲み会の席で、入れ替わったのか」  メールの宛先は、梶尾のものだった。買ったままカバーも着けず、同じ機種だったから取り違ったのだ。テーブルに置いたときだろう。梶尾は俺のスマートフォンを持っているに違いない。 「あ、はっ、良かった。俺のかと思って、びびっ……」  無意識に現実を否定しようと、頭が混乱す る。  なんで梶尾のスマートフォンに、変な写真が入ってるんだろうー。  なんかへんだなー。  ウイルスかなー。  数分、そうやって思考停止して。 「イヤイヤイヤ! おかしいだろ! なんで梶尾のスマホに俺の写真(どう見ても隠し撮り)がっ!? あと俺、パスワード普通に開けたよね!?」  怖い。  怖い、怖い、怖い。  頭を抱えて叫びながら、スマートフォン床に投げ捨て距離を取る。  落ち着け、落ち着け、落ち着け。 「……」  深呼吸して、落ち着いてくると、今度は好奇心が沸いてくる。アレだ。ホラーとかで、見なきゃ助かるのに見ちゃうやつ。  床に落ちたスマートフォンを指先で突っつく。馴染みのある薄い板が、得たいの知れないモンスターのようだ。  ゴクリと喉を鳴らして、本当に見間違いじゃないのか、確認してみようと手を伸ばした、その時だった。  ピンポーン……。  突然鳴ったドアチャイムに、ビクッとしてその場で固まる。視線が、ドアと時計を行き来した。 (え? こんな真夜中に?)  ゾクリ。嫌な予感が、背中を駆け抜ける。  ピンポーン……。  もう一度、ドアチャイムが鳴り響いた。  三度目が有るかと、様子を伺っていた俺の目に、ドアノブが回るのが目に入った。  思わず後ずさって、背中をベッドに打ち付ける。 「いっ……」  当然、ドアは開かない。鍵がガチャッと音を立て、扉が開かれる事はなかった。だが、扉の向こうから、ガタガタと扉を揺さぶる者がいる。 「ひっ……」  悲鳴をあげそうになるのを両手で押さえ、俺は玄関扉を凝視した。  ようやく諦めたのか、音が止む。  ホッっと息を吐いて、肩を撫で下ろした俺の耳に、聞き覚えのある声が聞こえた。 「長田? 寝てるの?」  伺うような声に、ぞわっと悪寒が足下から頭まで駆け巡った。心拍数が上がり、バクバクと鳴り響く。 「長田? 居るでしょ? 明かり、まだ点いてるよ?」 「っ……!」  俺は慌てて立ち上り、キッチンを横目に玄関に向かった。このままだと、バールのようなものとか、チェーンソーでこじ開けられる妄想が浮かんでしまう。 (相手は同僚だ! 何もおかしくない! そうだろ!?)  自己暗示をかけながら、チェーンをかけておけば良かったと後悔する。今から掛けるのは流石におかしい。 (いざとなったら、台所に消火器と包丁!)  二階だから、ベランダから飛び降りたって良い。とにかく平静を装おう。  扉を開け、わざと眠そうに欠伸をする。 「ふあ……。なんだ? 梶尾?」 「うたた寝してたの? 悪いな」  玄関を開けたら、いつも通りの梶尾が居た。一度家に帰ったのか、シャツ姿ではなく、グレイのパーカーを羽織っている。セットされていない髪を見るに、風呂も済んで居るのだろう。少なくとも、ハンマーやノコギリは持っていない。手ぶらな事にホッとして、俺は襟足を掻いた。 「玄関先で騒ぐなよ」 「ごめんごめん。あのさ、スマホ俺と取り違ってるみたいで」 「え、マジで?」  よし、今気づいたみたいな演技が出来た。今日の主演男優賞は長田譲だ!  ありがとう、ありがとう!  当たり前のように俺の家を知っているが、突っ込まない。突っ込まないぞ。藪蛇なんて冗談じゃない。深く追求しない、気にしない、何も気が付いていない!  怖さを脳内の妄想で誤魔化しながら、俺は部屋に投げ捨ててあったスマートフォンを掴んだ。  パタン。  背後で、扉が閉まる音がする。  一瞬固まって、俺は青ざめながら振り返った。玄関の三和土の所で、笑みを浮かべながら梶尾が立っている。 「これ、だろ? ほ、ホラ」 「うん」  梶尾の手が、俺の手を包むように触れ、スマートフォンを手に取った。 (俺、余計なアプリ、起動したままだったかな)  写真アプリは終了しているだろうか。メールは閉じただろうか。既読にしてしまっただろうか。  心臓が鳴りすぎて、痛い。 「……中、見た?」 「み、見ねーよ! パスワード掛けてるだろっ?」  窺うような梶尾の表情に、ゾッとして思わず声が裏返る。梶尾は「そう」と素っ気なく言って、俺にポケットから出したスマートフォンを渡した。  自分のスマートフォンが、人肌で変に温まっている事に、気持ち悪さを感じつつ、礼を言って受けとる。 「わ、悪かったな。わざわざ家まで」 「手元にないと、不安だろ? それに、俺の家、近所なんだよ」  そう言って、スッと梶尾が指を指した。誘導されるように、視線を窓に向ける。  不用心に開けたままのカーテンの隙間から、夜の景色が覗いている。窓から見えるのは、一際高い場所にある、高層マンション。一人で住むには広すぎるだろう、子供がいる世帯向けのマンションだ。 「え?」 「高かったんだけどね。場所が良かったから」 「ヘェー……」  目を見開いたまま、それだけ言うのが精一杯だった。  梶尾の指差したマンションの部屋は、俺の部屋が良く見える場所にあった。その意味を、頭の遠い場所で考えて、思考を放棄しかける。 「き、近所とは、知らなかったな……」 「住みやすいからね。この辺りは」 「おうー……」  ヒューっと息を細く吸い込み、自分を落ち着かせる。 (大丈夫。刺激しなければ、大丈夫……)  言い聞かせるように、そう念じながら、深呼吸を繰り返す。  しばらく、沈黙があった。 (な、なんで帰らないんだよ! もう用事は終わっただろ!)  黙ったまま、楽しそうに俺を見上げる梶尾に、ひきつった笑いを浮かべて肩を竦める。 「茶―――でも、飲んでく?」  所謂、「ぶぶ漬けどうですか?」作戦である。要するに、「とっとと帰れや」だ。どうか思いが通じますように。  俺の言葉に、梶尾は目を瞬かせて、それからフワリと笑った。先程までの、嫌な笑みは消えている。その表情を見て、俺は何となく『生存ルート』を引いたのだと確信した。 「いや、もう遅いし、今度にしておくよ。じゃ、おやすみ」 「お、おう。気を付けろよ」 (二度と来んな)  本音を押し隠し、手をヒラリと振る梶尾に、全力で手を振る。さっさと帰れ。マジで。  姿が見えなくなったのを確認して、俺はドアを急いで閉めると、チェーンを掛けた。それから、買い置きの、水が入った段ボールを玄関に積み上げ、開けっぱなしの風呂場の窓を閉め、部屋のカーテンを閉めて、洗濯ばさみでキッチリ閉じた。  明かりすら漏らしたくない。 「お、おおおおおぉぉぉぉ……」  そこまで一気にやって、俺は後からやって来た恐怖に、膝がカクカクと震えて床に崩れた。心臓がバクバク鳴り響き、全力疾走したかのような感覚になる。 (たすっ、たすっ……助かっ……た)  飲みかけの水を一気に飲み干し、受け取ったスマートフォンに目をやった。  飲み会が終わって、俺はコンビニに寄ってビデオ屋にも寄ってきた。良いDVDが無かったから、手ぶらで帰ってきたが、帰宅までにはそれなりに時間がかかったはずだ。  梶尾は、風呂まで済ませていた。その空白の時間が気持ち悪い。 「……」  スッと立ち上り、キッチンに向かう。 「消毒液、消毒液!」  まな板を消毒する消毒液を使って、スマートフォンを磨き上げる。  なんか嫌だ。なんか気持ち悪い。  中身を開くのも怖い。なんでパスワード同じなんだ。なんで俺の名前と生年月日にしてんだよ。 「ううううぉおぉ、明日機種変するぅうう」  画面が割れるんじゃないかってくらい擦りながら、半泣きで叫ぶ。明日は休日。どんなに時間が掛かろうが、一日潰れようが、違約金が発生しようが、絶対に機種変更しよう。  梶尾の俺に対する感情が、ラブなのかヘイトなのか解らない。  百パーセント言えるのは、ヤツがストーカーだってことだ。  他人のスマホなんて、見るもんじゃない。  知らなければ、それで済んでいたかも知れないのに。  俺の方は、99パーセントの恐怖と。  0.2パーセントの好奇心が、モヤモヤと沸き立つ事になった。

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