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寝苦しい夜だった。電気代を浮かせるために極力エアコンを消し、扇風機や夜風に頼っていたのだが、網戸越しに入り込んでくる空気は不快なほどぬるりとしている。更には、寝汗でも掻いたのか背中が湿っており、起き上がって確かめるとシーツも僅かに水気を含んでいるようだった。
浅原信政はのっそりと起き上がると、乾いた喉を潤そうと台所へ向かう。その途中、吹き込んだ風が卓上の書類を捲り上げた。
寝る前まで持ち帰った仕事を片付けていたのだが、遂に終わらなかったことを思い出す。浅原は元来仕事が早い方ではなく、もたつくことが多いせいかよく同僚や上司を苛立たせた。しかし今日、あるいは昨日、もっと言えばこの夏の間ばかりはその要因の一つに異常な暑さのせいだと言い切れる。浅原は暑さに弱く、体が丈夫な方ではない。もっとも、それは言い訳だとしか周りには思われないのだが。
頬をつうと伝い落ちる汗を拭いもせず、水道から出した水をコップに満たして飲み干す。シャワーでも浴びるか、着替えるかしないと、この湿ったシャツでは二度寝もできそうにない。しかしエアコンをつけるという選択肢はなかった。汗を掻いた後に体を余計に冷やすと、風邪を引く可能性がある。夏風邪は浅原にとって決して馬鹿にできない強敵だ。
さてどうするかと僅かに逡巡していた時だった。ふいに、鍵を使ってドアが開く音が壁越しにした。
浅原はアパートの一階の角部屋に住んでいる。よって、隣人と言えば左隣か上の階しかないのだが、明らかに音の出所は左隣だった。ボロ屋というほどではないのだが、ある程度築年数も経っていて、壁も分厚いとは言えない。
何気なく時計を見ると、針は二時二十分を指していた。隣人は三十六歳の浅原より十歳は若そうな男だったと記憶しているが、どこかで飲んで帰ってくるにしろ遅いように思う。もっとも、浅原は飲み会に出ても終電が出るより前には必ず帰るので平均など分かるはずもなかったが。
しんと静まり返った時間帯のせいか、隣の男が歩く音さえはっきりと聞こえてくる。そして、男はある一点に辿り着くと、小声で何かを言った。何を言ったのかはよく聞き取れなかったが、それは誰かに話しかけているように聞こえた。そして、それに対して気怠そうな呻き声のような声が上がる。
そこで、隣人が帰ってきたのではなく、隣人の元に誰かが訪ねてきたという可能性に思い至った。しかしそれならば尚更、夜中の二時というのは非常識ではないのだろうか。そこから導き出される答えはただ一つだと予感していると、それに答えるように隣の部屋からベッドが軋む音がしてきた。続いて、明らかに二人の人間がもつれ合うような気配。
無意識にごくりと生唾を飲む。知らぬ間に壁際に近付き、耳を澄ませていた。
「っぁ、ん、ンン」
壁越しに聞こえた喘ぎ声が、高音ではあるが明らかに女のものとは違っていることに気が付くと、ぞわりと背筋が震えた。そして、断続的に聞こえてくるベッドの軋む音と、二人分の乱れた声を耳にしていると、枯れてしまっていたはずの懐かしいようなあの感覚が下半身に集中してくる。
他人の行為を聞くだけで欲情するほど、自分が欲求不満だったとは思えずに困惑している中で、隣人の行為はクライマックスに向かっていく。その際、低い方の声の主が絶頂を迎えたのか、掠れた声を上げた。
それを聞いた途端だった。止める間もなく、浅原は自身がひくつきながら先走りを漏らしてしまったことを知り、呆然とした。
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