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第1話

ピチピチと鳥のさえずりが聞こえるわけではないが、差し込む朝の光と爽やかな空気に気持ちよく目が覚めた、はずだった。 北条庚(ほうじょうかのえ)は伸びをするために動かした腕が傍らにある自分のものではない体温に触れて一瞬びくっと身を縮めた。起きた気配はないが起きるつもりがないのか。自分のベッドで自分の隣で。安らかに夢を見てくれているのだろうか。いつも人を喰ったように吊り上げられている整った顔の整った唇を見つめて考える。薄い瞼の奥の瞳がどれほど艶やかに揺らめくのか知っている。無意識にか軽くシーツを握り締めている、骨格ばかりが男のものだと知らしめる白くて美しい指が肌を滑る感覚を覚えている。そっと背に回り昇り詰めるにつれて首筋に、そして自分の頭に回されその薄い胸に抱きこまれるときの泣いてしまいそうな安心感はこの人から与えられたもの。 二人で迎えたはじめての朝、思わず頬が緩んでしまってもいはずなのに。むき出しの白い肩が寒いだろうなと、気遣いから伸ばした腕が触れる前に落ちた。目を逸らして低く呟く。 「・・・あなたは僕の、なんなんですか。」 「外聞が悪いからこそこそ隠れてそこそこの付き合いを持っている同性の深ーい関係にあるセフレ」 これすなわち裸の付き合い。 「・・・『上司』のほうがまだましだった・・・。」 雑誌を片手に飄々とのたまった目の前の男に庚はガクリと肩を落として項垂れた。 「今はオフだぞ、一月ぶりの。少しは気を抜け。お前は本当に頭が固いなぁ、北条。」 「ええ、オフだからあなたはそんな少女趣味の可愛らしい雑誌を読みながら、つい零してしまった僕の呟きにデリカシーの欠片もない返事をくれたんですよね。いつもなら私語は慎めと睨んでくるのに。」 勤務中は隙のない居ずまいで鋭い目を周囲に走らせている上司だが、今はそろってシフトをはずれ久しぶりの休日を過ごしていたはずだった。許しが出ても出なくとも仕事以外の話がしたかったのだが。 「ん?お前俺とお喋りがしたかったのか?いいぞ、俺でよかったら話してみろよ、面白いから。」 「いえ、あなたの仕事以外では役立たずな頭で生み出された言葉は僕の繊細なハートに皹を入れてくれるので遠慮します。それと『裸の付き合い』って使い方間違っていますよ、あなたが言うと無駄に生々しい。」 言ってしまってからああしまったと思う。 「・・・傷ものにしておいてなんて冷たい。俺のガラスのハートはブロークンだぞ。オブラートに包んでやったのlにデリカシーがないのはいったいどっちだ! 」 「隠したほうがいやらしいことだってあるんですよ覚えておくといいです。というかそんな話じゃないしむしろ直球過ぎってかあなた妙に余裕があったじゃないですか大人って汚い!心臓に毛が生えているような図太い神経で何非難がましく見てるんですか鵜飼(うかい)主任。」 この人は揚げ足をとって話をまぜっかえすのが大好きなのだ。 「だから今はオフだって、かのたん。」 「・・・もしかして退屈してます?」 「いや、今から外せない最重要任務がある。見落としや失敗は許されない。さあ準備に取り掛からなくてはかのたん。」 「・・・わかりました、うかたん。」 「上司に対する侮辱罪で向こう三ヶ月5パーセント給料カットだ北条。」 「最低ですねこの愉快犯。それであなたは一体なにをしたいんですか?」 部下で遊ぶのはやめてもらいたい。気色悪い名前で呼ばれて不愉快なところをぐっと抑えて付き合ってやったのに。組んでいたすらりと長い脚をゆるりと解いて立ち上がるのを目で追いながら心の中で毒づく。上下とも黒で統一した細身のパンツとシャツは彼の鞭のようにしなやかな痩身を際立たせて実際よりも長身に見せる。身長はそう変わらないのに、あの整いきって人を喰ったような切れ長の目で見つめられると自分が小さく感じられるから面白くない。細くても弱弱しくはない腰に長い腕を添えておざなりに立つ姿は格好良いんだよこんちくしょう!と絶対に口にしたくはない罵声を浴びせたい衝動に駆られるほど様になる。その長い指にファンシーな本様のものを持っていなければ。 「これを作ろうと思ってね。お前はその辺で好きなことをしていていい。俺一人で出来るから。邪魔はするなよ。」 顔の位置まで掲げてトンと指し示して見せたのはどうやらお菓子の特集のようで。あ、なんだ。普通の雑誌か。 「声をかけてくださればお手伝いします。僕も料理くらいできますよ。」 「ここ、ここ。」 長いコンパスで一気に近づき開かれたページをまたトントンと叩いてみせる。普通の雑誌だけど。 「『彼氏が彼女に愛のお返し!手作りのお菓子に二人の距離は一気に~??』・・・これ以上縮めたいんですか。」 「零になればいいと思って。」 「・・・あなたも職務怠慢で減俸ものだと思います。聞いていたのが僕だけでよかったですね。」 「おやおやこれは謙虚なことだな北条。自分のことだとは思わない?」 「思えませんね、これっぽっちも。」 親指と人差し指で僅かもない隙間を作って見せて泣きたくなった。彼氏とか彼女とか、二人で成り立つ関係に期待をかけるには少々この男はくせが強すぎる。 たとえ、今日がオフだからと昨夜二人せーので飛び越えた一線が、彼の着崩されたシャツの隙間から覗く白い肌に存在を主張していたとしても。 「・・・あなたの心には僕以外の人が住んでいる。」 居た堪れなくなって目を逸らしたまま上から二つ目までのボタンを留めてやる。なんでこんなに気分が下降するんだろう。さっきまで気の置けない会話なんて、していたはずなのに。この人の揶揄かうような口調なんて、きっと知っている人は多くてもかけられたことのある人なんてそうはいない。 (ああそうか。絶対に軽口なんて叩かれたことのない人に嫉妬しているから。せめて今朝くらいはそんな気持ちも忘れていたかったのに。) 終始主導権を庚に預けているようで、それを熱が醒めるまで気づかせなかった彼の余裕に慣れを見た。少しの身じろぎで難なく起き上がりこうしてキッチンに立って手料理の一つもしようかと笑う姿に誰か他人の影を見る。しかし昔の、そう形容詞を付けられないことに胸を燻らせているわけでは実はない。庚は、鵜飼學という五歳年上の上司が話しもしないが隠しもしない過去の、もしかしたら現在も続くプライベートに口を挟むつもりはまったくない。薄暗いところでひっそり存在しているそんなものよりも遥かに、眩しくて暖かで清らかな、彼が真摯に求めて止まない人間の姿が胸を刺す。 他愛のない世間話に紛れ込ませて、幾度北条が顔も知らない男への慕情を聞かされたことか 勝てるはずがない。そう思わせるだけの心を彼はよその男に捧げていて入り込む隙間なんて探すだけ虚しい。そう、二人で溶け合った瞬間でさえも。彼の人の欠片を自分に見つけてこの底の見えない瞳をほころばせたのだと思ってしまう。 勝てない。 醜い嫉妬だと囁く冷静な自分を黙らせて潔のよい敗者の従順さを前面に押し出す。本当にどうしてこれほど急に卑屈になっているのかと不思議に思ってしまうほど気弱な今の自分に苦笑する。 (答えは分かっているんだ、きっと。) 「疲れているんだろう。ずっと出張続きだったからな。明日からはまた通常勤務だ、今日はゆっくり休むといい。」 俯いた頭に含みのないテールが降ってくる。追ってぽんと載せられた手にふっと一息吐き出して顔を挙げる。 「最優先事項なんでしょう。どうぞ自慢の腕を振るってください。邪魔なんてしませんから。」 するだけ虚しい。言い訳もしない彼に。 笑えているかどうかなんてまだ載せられたままの白い手がくしゃりと髪をかき混ぜたことですぐわかる。 「半人前扱いしないで下さい。僕だってもう一人前の企業戦士ですよ。」 「咆えるね社畜くん。だったら休息も仕事の一つだベッドへ行きなさい。ここで眠って構わないよ。」 スプリングが違うだろ? ぽんぽんと持ち上げられた腕が離れてその持ち主が笑いながらドアの向こうへ消えるのを見送り、ため息をついた。 やけにきちっと整えられたベッドは、遠慮なく身を投げれば僅かばかり軋んだ音が夢のようにも思える昨夜の記憶を蘇らせる。 「・・・夢だったらこんなに悩んでないかな。そもそも全部おかしいんだ。僕がこうしてここにいるのも、あの人が僕に許してくれたのも。あの人と、彼の関係だって。」 寝返りをうって枕に顔を埋める。清潔なシーツの香りに混ざってどこか甘く漂う彼の香りが胸を刺す。 駆け巡る熱に委ねて夜を越えた身体は、持て余した感情に堂々巡りを繰り返す頭を一時のまどろみへと誘った。

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