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第1話
息を吸って、吐く。
首を締めつける布がどんどんきつくなっていく錯覚。
ああ、ハイネックなんて着なければ良かった。着たくなんてなかったのに。
何度息を吸い込んでも苦しい。
激しい脈拍が頭の中に響いている。
どうか、どうか神様。
誰にもバレませんように。
○
「あれ? 波瑠、珍しいもの着てんね」
朝の挨拶もそこそこに、目ざとい友人に指摘されて体が跳ねた。暴れる心臓を押さえつけ、口角を上げる。
「う……うん。ちょっと寒くて」
「そうかあ? まあ〜そろそろ10月だけど。お前、そんな寒がりだっけ?」
「さ、寒がりになったんだよ!!」
苦しい演技だったけど、どうやら怪しまれずに済んだらしい。
幼稚園の頃からの友人である日暮歩は、椅子の背に肘をついてにやにやしている。良からぬことを考えている時の顔だ。
「……言っとくけど、お前が考えてるような理由じゃないからな」
「ええっ? なになに? 俺なんにも言ってないのに! 波瑠ちゃんは一体どんな想像をしたのかなあ〜??」
「うるさい!」
何も知らない歩の能天気さが救いだ。いつもと変わらない会話をしているだけなのに、呼吸が楽になる。
昨日の夜はもう一生笑えないと思っていた自分が、今こんなくだらないやり取りで笑っているなんて信じられない。人間って案外たくましいんだ。
今朝鏡の前に立った時は違和感にまみれていたこの黒いハイネックのインナーも、学校に来てみれば地味すぎるくらいに溶け込んでいた。
「とうとう波瑠にも春が来たか〜」
「だから違うって」
「おいおい、俺らの間に隠し事は無しだろう?」
答える前に予鈴が鳴る。
歩は「また後で詳しく聞くな」と自分の席に戻っていった。
(隠し事は無し、か……)
歩とは子どもの頃からなんでも2人で共有してきた。おやつは半分ずつ、夏休みの宿題も分担してやった。身長も同じくらいで髪型も同じ、似たような服で双子ごっこをして遊んだりもした。
好きな物も嫌いな物も全部同じだったから、本当に双子じゃないのかと親に何度も尋ねたことを覚えている。
それが変わったのは中学校に入る前、バース性の確定検査が行われた時だ。
「波瑠ー!」
「遅い」
「ごめんって。……よし、覚悟は良いか?」
「どうせ2人ともベータだけどな」
「わかんないぞ? 俺、実はアルファな気ぃするんだよな」
「言ってろ。……いくぞ? せーのっ」
2人ともベータで、笑って、適当に書類貰って、アイスでも食べながら家に帰るものだと思っていた。
アルファだのオメガだのなんて宝くじに当たるようなもので、自分たちみたいな一般人には全く関係ない話だと、思っていたのだ。
「あ、やっぱベータか〜」
「………」
「ざんねーん。まあいっか。波瑠、アイス食って帰ろうぜ」
「………」
「波瑠?」
「………て」
「え?」
「おれ、オメガだって」
白い一枚の紙、神崎波瑠という名前の横には無機質な印字で「Ω」のマークが書かれていた。
その下には二次性徴が出始めた際の心得や通院先、性的被害や差別を受けた時の相談所なんかが細かい文字で並んでいたけれど、それが目に入ったのはかなり後になってからだった。
「嘘だろ……ちょ、見せて!」
歩が紙を奪い取る。ベータと書かれた歩の紙がかさりと床に落ちた。
「オメガってことは、ヒートも……」
自分の声は恐ろしいくらいに震えていた。
小学校3年の時、一度だけ他人のヒートを見たことがある。
性徴が早く出る女子は4年生になる前に確定検査を受けるのだが、たまにそれより先に始まってしまう人も居た。
夏の暑い教室、先生がいない日に図工の自習で絵を描いていたとき。
隣の席の女子が急に立ち上がり、胸を押さえて苦しみだしたのだ。
あつい、あついとうわ言のように呟きながら服を脱ぎ捨てる彼女の足元では、汗と涎が床に染みを作っていた。
「たすけて、あついよぅ……」
身体をくねらせ、浅い息を繰り返す彼女は犬のように足を開いていた。乱れたスカートの中から足を伝う液体が、妙に艶めかしかったことを覚えている。
誰かが隣の教室から先生を呼んできて、彼女はすぐに保健室に運ばれた。
脳裏に焼きついた光景。
呆然とする教室で、「ヒートだ」とオメガの親を持つクラスメイトが呟いた。
その瞬間、知識と実体験が重なり、僕たちは恐らく誰よりも鮮烈に「オメガ」という性を認識した。
オメガとは、人の皮を被った獣である、と。
「波瑠、波瑠!」
「どうしよう歩……ねえどうすればいい!?」
「落ち着け、大丈夫だから」
「おれもあの子みたいになるの? あんな風に、人じゃなくなるってこと!?」
「波瑠!!」
目の前が歪んで、歩の顔が見えなくなった。
そのまま意識を失っていたらしい。目が覚めたら自室のベッドの上だった。
一度取り乱した後のおれは、案外冷静に事実を受け止めることができた。
自分はオメガで、普通の人とは違う。
一生薬を飲み続けなければならないし、体力や能力の伸び代は極端に少ないし、顔も知らない相手と将来番わなければいけないらしい。
理不尽なことに直面するたびに、まあそんな人生もアリかと納得しながら生きてきた。
オメガとはいっても、薬さえきちんと飲んでいれば普通の生活は充分に送れる。
あの獣状態には絶対になりたくなかったおれは、ヒート前の症状を多少大袈裟に伝えて強めの薬を出してもらっていた。そのおかげでこの歳までヒートらしいヒートを感じたことはない。
アルファが近づいたら分かるという鼻も、ほとんど機能しないくらいだった。
環境も、習慣も、歩との友情も変わることなく数年が過ぎた。
相変わらず相手のお菓子は勝手に食い合うし、課題の分担もするし、好きな物も嫌いな物も同じだ。
ただ身長だけは、歩の方がかなり高くなった。それをどうしても性別と分けて考えることができず、おれは髪を茶色に染めた。
「もう双子は無理だな」
なんて冗談めかして言った時、歩は笑って「チビな方が弟な」と軽口を叩いたっけ。
教室の扉が開いて担任がのっそり顔を出し、日直係の気の抜けた号令が1日の始まりを告げる。
昨日おれの身に起きた決定的な変化なんて誰も知らない。
一見いつもと何も変わらない朝だった。
○
「あんのクソ委員長〜!」
とっぷり暮れた帰り道をどすどす歩く。
『ちょっと人手が足りなくて……すぐ済むから手伝ってくれない?』
この「すぐ済む」を信じたおれが馬鹿だった。頼まれごとが一つ終われば次々と舞い込み、気づけば最終下校時刻だ。
薄情な歩は当然先に帰っている。
「絶対に満員だよな……」
来たる帰宅ラッシュを想像し、おれは駅に着く前から憂鬱な気分になっていた。
都内のベッドタウンに住んでいる身として、仕事終わりの会社員と帰宅時間をずらすのは何よりも重要なことなのだ。
ため息を吐きながらホームで電車を待っていると、明らかに人が詰め込まれすぎた車両が滑り込んできた。
これより遅い電車には更に酔っ払いが付属する。諦めて比較的空いている扉から乗り込んだ。
異変を感じたのは数駅後、車内の密度が更に上がった頃だった。
「ハァ……ハァ……」
背後から妙な息遣いがずっと聞こえてくる。
複数人の汗の匂いと制汗剤やら香水やらの甘ったるい匂いが混じり合って、車内の空気は最悪だった。そんな中で首元に他人の息を吹きかけられる不快感は想像を絶する。
臭い中の鼻呼吸は辛いよな、分かるけど気持ち悪いよおっさん。
低身長を恨みながら、少しでも体を離そうともぞもぞ動いた。
「ハァ、ハァ、ハァハァ」
息はだんだん早くなり、一向に離れない。それどころか追いかけてきているような気さえしてきた。
高校生に嫌がらせかよ、最悪。そんなことしてるから降格になるんだよバーカ。さっさとクビになれ! 万年係長! どうせセクハラしてたんだろ!!
頭の中で好き勝手罵倒して意識を逸らす。そうしないとうずくまってしまいそうだった。
「ねえ」
「…………ッ!?」
ぞわり、背筋を鳥肌が駆け抜けた。
ねっとりした息を耳に流し込まれる。
「ボクの〈番〉にならない?」
瞬間、耳元で鐘を鳴らされたように脳が振動した。ぐわんぐわんと全ての音が反響し、視界は靄がかかったように端の方から赤くぼやけた。
震える唇から零れた息は、信じられないことに艶めいた熱を持っていた。
これが、この人がアルファだ。
嫌だ、死んでも嫌だ、嫌なのに。
感情を置いてけぼりにして、オメガの身体は歓喜に打ち震えていた。
「……ぃ、ゃ」
口にしたはずの否定の言葉は、男を誘う喘ぎ声になった。
怖くて、恐ろしくて、なのに屈服したくてたまらない。初めて感じるオメガの本能が全身でアルファを受け入れようとしている。唯一残された「おれ自身」の必死の叫びは自分の耳にすら届いていなかった。
うなじに熱い息がかかる。男の口が開かれているのを感じる。全神経が今か今かとその一点に集中している。
いやだ、いやだいやだいやだ誰か!
誰か助けて! だれか、
「ぁ、ゆむ……」
ガリッ
うなじに歯が立てられた。
ああ、噛まれちゃった、おれ。
瞬間、体の主導権が自分に戻ってきた。開いている扉が目に入り、何も考えず人をかき分けて飛び降りる。
ぷしゅうと間抜けな音を立てて電車はすぐに発車した。
ホームに膝をつき、痺れて熱を持つうなじを押さえると、指でなぞれる程深い歯型がそこにあった。
「う……うぅ……っ」
涙腺が壊れてしまったように後から後から涙が出てくる。
契約完了の証。
知らない男と〈番〉になってしまった。
もう取り返しがつかない。
忘れようとしていたオメガ性への嫌悪が、男への怨嗟と混ざり合ってひしゃげた呻き声となった。
こんな犯罪まがいの行為ひとつで、自分の人生は決まってしまったのだ。
〈番〉の契約はオメガ側から解除することができない。つまりおれは一生、顔も知らないさっきの男に従って生き続けなければならないのだ。結婚なんて生易しいものじゃない、決して離れられない魂の盟約。あいつに犯されて、子どもを産んで、それから……
目の前の世界が崩れていく音がした。もうこのまま次の電車に飛び込んでしまおうと思った。
「あの、大丈夫ですか?」
「ヒッ!」
声をかけてきた駅員がさっきの男に見えた。周りを見回すと、ベンチにも階段にもあの男がいる。影で隠された顔がニヤリと歪んだ気がした。
「あ……あぁ……こないで……」
弾かれたように走り出す。早くここから逃げなければ。出口はどこだ?
走っても走ってもホームから抜け出せない。足がもつれ、バランスを崩した瞬間に、背後から黒い手が伸びてきて、肩を掴む……
「うわあああああ!!!」
「神崎!」
そこはいつもの教室だった。
黒板には数式が書かれ、右肩に置かれていたのは教師の手だ。こちらを盗み見るクラスメイトがクスクス笑っている。
「あー、ゴホン。夢なら家でみてきなさい。今は授業中です」
「……ゆめ、」
恐る恐るうなじに手を伸ばすと、ハイネックの薄布に隠された歯型は、僅かな期待を嘲笑うかのように深々とそこにあった。
夢じゃない。
あれは、昨日確かに起こった現実だ。
「………早退します」
「え?」
鞄をひっつかんで教室を飛び出した。教師が何事か叫んでいたが聞こえない。
昨夜は眠れなかった。きっとこの悪夢を見てしまうと分かっていたから。
もうこれ以上生きていられない。おれは迷わず屋上への階段を駆け上がった。
もっと早く、オメガの判定を受けた時にこうするべきだったのだ。
オメガはアルファとしか結ばれない。
ベータの歩とは、交わらない。
ずっと歩が好きだった。
友達だった、親友だった、恋をしていた、愛してたんだよ、ずっとずっと、歩だけを。
隠し事はしないって約束したけど、これだけは言えなかったんだ。
この想いが叶う未来なんて来ないのは分かっていた。
なのに浅ましい未練が、歩と離れることを望まなかった。
ギリギリまで一緒に居たいと、そう願ってしまったのだ。
屋上の扉が軋みながら開く。
風が涙を吹き飛ばし、開放感が全身を包んだ。
鞄を放り捨て、手すりから身を乗り出した。不思議と怖さは感じない。歩と最後に笑って話せたからかもしれない。
「告白くらい、すれば良かったかな」
呟いた声は風に溶けた。
最後まで未練まみれな自分に気づいて少し笑った。大丈夫、笑顔で死ねる。
ぐ、と身体を傾ける。重力が手を広げて待っている。あとひと蹴りで、そこへ。
「バイバイ歩。大好きでした」
「波瑠ッッ!!!!!」
ぐらりと身体が崩れ、後ろに尻もちをついた。見上げた視界に影がかかり、ぬるい雫がぼたぼたと顔に落ちてくる。
「え……歩?」
「バカ!」
頬を挟まれてガクガク揺さぶられた。しょっぱい涙が口に入る。
「歩、ちょ、ちょっと待って」
「バカ! バカ野郎!」
「謝るから、やめっ……」
歩の体は汗だくで、見たこともないほど青ざめていた。こんな顔を見るのは子供の頃裏山で遭難しかけた時以来だ。
歩は力なく頬を叩いて、肩口に顔を埋めた。震えている。
「なんで、そんなになるまで、俺に言わないんだよ」
「……ごめん」
「俺ら親友じゃなかったのかよ」
「ごめん」
「謝るな!」
歩は語気を強めた。両目から流れ続ける涙が肩を濡らしている。
「ごめん、波瑠。俺のせいだ」
「なに言ってんだよ」
全部自分のせいだ。自分の意気地が足りなかったせい。
歩はおれの言葉を遮って襟元をぐいと引き伸ばした。
「これ」
うなじの布地が捲られ、肌が露わになる。
見られた。
この体がアルファの所有物であるという証。
悲しい、恥ずかしい、悔しい、苦しい。
全身が沸騰し、激情が込み上げる。
「やめろっ……!!」
「俺がやったんだ」
振り上げた腕が行き場をなくし、力なく落ちた。今聞いた言葉が脳で処理できずにぐるぐると回っていた。
「いま何て言った?」
「俺がお前を噛んだんだよ。昨日の電車で」
「…………嘘だ」
「嘘じゃない」
歩の声は真剣そのものだった。
「同じ電車だったのは偶々で、最初は普通に声かけようとした。でもお前、知らないおっさんに抱きつかれてんのに見たこともない顔してて、俺みたいなベータにも一瞬で分かったよ。これは例の儀式だって」
顔が赤くなる。自分は公衆の面前で裸同然のものを披露していたのか。
「なんで助けてくれなかったんだよ」
おれの状況が分かっていたなら、助けを求めていたのも分かったはず。行き場のない恥と恨みを込めて歩を詰った。
「……恋人同士にしか見えなかった」
は、と間抜けな声が出た。
先ほど治まった激情がせり上がり、気づいたら歩を殴っていた。
「違う!!!」
「わかってるよ」
「じゃあどうして!」
馬乗りになって腕や胸を滅茶苦茶に殴る。あの悪夢の瞬間を好きな相手に「恋人同士」と形容されるなんて、屈辱以外の何物でもなかった。
「俺だって!」
歩の大声に手が止まる。
「俺だって、思いたくなんてなかったよ……」
そう絞り出すように続けた歩は、もう泣いていなかった。
「波瑠はオメガだから、いつかは誰かの物になるんだって覚悟していたつもりだった。……でも無理だった。お前と誰かが結ばれるなんて絶対に耐えられないって、あの瞬間痛いほど分かったんだ。気付いたらおっさん突き飛ばして、お前の首を噛んでた。……可笑しいよな、俺が噛んだって何にもならないのに」
歩は自嘲気味に笑った。
うなじの傷が熱い。そこに渦巻いていた不快感だったものが戸惑いながら薄くなる。
「うそ……だろ」
「だから本当だって。その後お前すぐ行っちゃうし、携帯に返事もよこさないし。なんか吹っ切れちゃって、今日全部告白しようと思って。でも流石に恥ずかしくて揶揄ってたらこんなことに……。だから、ごめん。全部俺のせい」
間に合わなかったら俺も死んでたな、と歩はいつもの軽口のように言い放って鼻をすすった。おれは馬乗りのまま、呆然と歩の顔を見ていた。
「本当にお前が噛んだの?」
「そうだよ」
「あの痴漢じゃなくて?」
「ああ」
一発殴っときゃ良かった、と呑気に嘯く歩の頬を平手打ちした。
「いって!」
「バカはお前だ」
「……そうだよ」
「おれ死ぬとこだったんだぞ」
「間に合って良かった」
「本気で怖かった」
「うん」
「一晩中泣いて、眠れなくて、2度と外になんて出たくなかった」
「うん」
「今朝も電車で倒れそうになった。全部お前のせいだ」
「うん、ごめん」
「謝って済むと思ってんのか」
「思ってない、けど」
歩の手がおれの手を包む。涙の跡が残る瞳がおれの目をまっすぐに見た。
「ごめん、波瑠。好きだ」
歩の言葉が、今まで押し込めてきた感情が、おれの心臓を搾り上げる。そこから滴る「好き」が口から溢れ出た。
「好き、歩、好きだ」
「俺も波瑠大好き」
「ずっと好きだった」
「俺だって昔から好きだった」
複雑だと思っていた感情は、声に出してしまえばこんなにも簡単だった。
随分無駄な時間を過ごしてしまったと、2人顔を見合わせて笑いあった。
「もう一生、金輪際、何があっても、絶対にお前と離れないからな」
「何があっても離さねえよ、バカ」
運命の相手、魂の〈番〉、永遠の契約。
おれと歩の間にある糸は、そのどれでも言い表せない。
でも当てはまらないからこそ、何よりも強いのだと今は信じることができる。
運命が敵なら死ぬまで抗ってやる。
歩と一緒なら何だってできる。どこまでだって行ける。
授業の終わりを告げるチャイムが、祝福の鐘のように響き渡った。
終
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