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第1話

ふと顔を上げる。目の先に篠原が居る。目が合う。奴はニコリと人好きのしそうな、俺から見れば悪魔の笑みを浮かべながらコチラに近づいてくる。嫌な予感を感じながらその顔を見上げていると、篠原は首をかしげて、床においていた俺の缶コーヒーを取る。 「喉乾いたあ。」 言いながら俺の隣に座り込んで、俺の意に構わずコーヒーを飲む。 「お前ね…。」 やや緊張した心臓が静かになったことに安堵して、また手元の雑誌に目を落とす。ズシリと肩が重くなる。顔の真横にウエーブがかった褪せた茶色の髪がそよぐ。心臓がまた跳ねあがる。 自分が篠原に抱いている感情が特別なのだと知ったのは最近のことだった。それもある時ある瞬間というわけではない。いつもと変わりない帰り道に、ふと篠原と目が合ったときに、ああ、そうかもしれない、と理解した。自分でも気づかなかったほどの、そしてゆき──かわいい彼女だ、俺にはもったいないくらいの──に向けるのとはまったく別の種類の感情。篠原は俺のこの異常な感情を知らない。多分、知らないだろう、自分でも感心するほどに上手く隠しているのだから。一緒にいる、それだけでいい。だからこの気持ちを告げる気はないし必要でもない。俺は ゆきが好きだ。あの子と付き合いだしてからそんなに月日は経ってなくても、高校に入って初めてできた彼女だ。大切にしたいと思ってる。だから。だから…篠原へのありえない感情など肯定できない。できるはずがない。 「おい、重いからどいけってば」 つっけんどんとは言わずとも、努めて強く言い放つようにする。篠原の気まぐれな態度に対して返していた自分を正確に再現する。ついで篠原の頭が乗かっている右肩をやや乱暴に上下させる。 こうでもしないと、自分が何を言い出すか、何をしてしまうか分からないからだ。天気屋の篠原が時々自分にするスキンシップまがいの行為が、どうしようもなく俺の心臓をバクバクさせる。混乱して、何もかも投げ出して、お前のことが好きなんだと言ってしまいそうになる。どうしようもなく。 「ほら…きいてんの?」 早く離れて欲しくて尚も揺らす肩から、篠原の頭がズルリと滑り落ち、俺の膝の上に留まった。確かな重みが太ももに乗っかっている。温かな篠原の硬い頭に、一瞬心臓が止まる。焦りが微かな熱を伴って背筋を駆けあがった。何やってんだよおまえと言おうとしても喉がギュッと縮まっているように、呼吸さえ危うい。 明かに不自然な沈黙をつくってしまっている、ゆるんだ自分の頭を叱咤する。 何かしなければ、篠原の頭をはたいて、立ちあがって、 そんなことをぐるぐると思っていると、太ももの心地よい痺れが動いた。 目下で篠原の目がくるりと動き、俺をじっと見つめた。 こめかみがキーンと鳴る。 ヤバイ、これはヤバイ、ヤバイヤバイ。 見透かされそうな気持ちに慌てて俺は立ちあがった。ズルッと篠原の頭が滑り落ちる。心臓が破裂しそうにバクバクしている。大量の血液が体中に回り、顔全体が熱くなってくる。遠くで車の警笛が聞こえる。 「…お前さぁ。」 篠原は俺が振り落とすのを予想していたように肘を立てた状態から、ゆっくりとした動作で俺を見上げた。その声色と表情が、一致していないことに気づく。 ここでふさわしい言葉を、ふさわしい行動を。でなければ、俺の不自然さに篠原は何か気づくだろう、そして疑問なくそれを問い詰めるだろう。それは絶対避けなければならない。今までの努力を、ここで終わらせるわけには行かないのだ。 この男から離れなければ。 焦る気持ちを押さえて足元の雑誌を掴んだ。今すぐに走って、この屋上から逃げ出したかった。 なんて情けないのだろう。友人から、一緒に居たいと思う人間から、その思いを悟られないために逃げると言う。そうして上手く隠していないとその些細な願いさえ叶わなくなる。 起こっていることは全て俺の中で、全て俺の一方的な思いで、ゆるく見えて意外と敏い篠原に相反した気持ちを抱きながら、俺は一人で苦悩している。バカみたいだ。やめろ、もう決めたことを蒸し返すなよ。 精神が磨り減って行くような決定事項を無理矢理頭から引き離して、一刻も早く立ち去ろうと踵を返した。篠原にはじゃあな、また明日というつもりで手を振って。それで精一杯。 下界への扉に手をかけようとした時、顔の真横でガンと壁を叩く音がした。俺は驚いて、見ると俺の缶コーヒーが中身をぶちまけてぐしゃりとへこんでいた。篠原が投げたのだ、と思った。振り返ると篠原が直後ろに立っていた。 肩を押されてドン、とドアに叩きつけられる。 「何か、勘違いしてない?」 低く囁く篠原の息が頬に当たる。篠原が近くに居ると言うことに体中がぶわっと熱くなる。額に汗まで浮いてきた。泣きたくなる。 「…はあ?何言ってんだよお前。ていうか何やったんだよ今、ガンってすごい音…」 浮かんだ科白を乾いた喉から押し出すと所々掠れていた。 「さっきから、わけわっかんねーこと、しちゃってさあ。」 「…そりゃお前だろ?」 飛び散ったコーヒーとへしゃげた残骸を見る。掃除するの誰だと思ってんだよ。 「気づいてないふりやめたら?」 篠原の手がゆっくりと伸びて俺の頬に触れた。静電気を帯びたようにバチリと痛みに似た感触が目元を突く。そして自分がこのまま依存してしまうのが恐くて、その手を弾いた。 「はは、黒崎クンたらすげー冷てーの」 「だから、何言って」 「態度変わったっつってんだよ。」 バーカ、篠原の整った顔が無表情に言う。そんなわかりやすい態度で気づかないとでも思ってる?言外にそう言われているような気がして、眉が歪む。 既に。 既に、篠原は気づいていた。 俺の不自然さに。 そしてそれを、何の疑問もなく俺に問い詰めている。 ……、嘘だろ。 文字通り、泣きたくなる。 真正面に向かい合って、篠原に全て隠しとおす、なんて自信は俺にはまったくない。ある程度気合を入れて対峙している自負はあるが、俺だって一人のただの男なのだ。 考えているうちに自然口元が引きつって行く。笑おうとしているはずなのに。 「そんなのお前の勘違いだよ。」 「何が勘違い?」 上背のある篠原が静かに俺を見下ろす。目をそらすぐらい出きるはずなのに、そこにぬいとめられたように動かない。篠原の無表情が、徐々に変化して行く。 「俺に隠し事できるとでも、思ってんの?」 後ろに壁と知っていても尚、後ずらそうとした俺の足に転がる缶が当たる。 俺の鼻先で篠原の顔が笑いの形に変わっていく。見る者を圧倒させるような、確信的な笑み。 その顔に、俺の歪んでいた眉が緩んだ。 もしかしてコイツは、最初から、何もかも知ってたんじゃないのか。 頭の中が全て真っ白になる。篠原は知ってて知らない振りをしていたのではないか。滑稽に振舞う俺を見て、一人笑っていたのではないか。 今まで考えていたことも何もかも、全て真っ白になる。 「お、まえ…」 そう思うと、羞恥より何より先に、カッと拳を握る熱さが込み上げてきた。自分に、そして篠原に、足もとの缶に、やり場のない、惨めなほど卑劣を纏った、怒り。 視界がぐにゃり、と歪んだ。雲が鳥が床の出来たしみが、遠い篠原を中心に吸いこまれて行く。錯覚。その中央で、篠原がひとりクスクス声を立てて笑っていた。酷く楽しそうに、笑った目で上目遣いに俺を見る。クスクスクス。 「なんて顔してんのさ黒咲ぃ」 ザンッと視界がはじけた。ふと目を瞬くと、全てはあるべき場所に留まっていた。篠原だけが移動して、俺を見ていた。濃密だった空気が突然薄れた感覚がガクンと俺を覆う。 「お前ってばほんと単純だよ。なんだよそんな焦っちゃってさ。マジで何か隠し事でもあんじゃない?」 ケッサク!さっきの顔~。ケラケラ笑いながら篠原は屋上のフェンスにもたれかかった。 その言葉を理解したとき、俺は急激に強い脱力感に包まれる。まだ混乱している頭を整理してみる。 「…は…なんなんだよお前…。」 重いため息がこぼれる。篠原はハッタリでものを言っていた…俺の思いとか行動とか、篠原は何も知らなかった。こんなことすると俺が面白い反応をする、よしからかってやろう。 そんな単純な思考でこんな暴挙に出たわけだ。 まったく人を舐めた奴だ、と俺は強い安堵感を抱きながら眉を顰めた。まったく、シャレにならない奴だ、と。 「あれ、どきどきしなかった?んじゃあ今度はもっとたのしーことしてやるな!」 「楽しいのなんてお前だけだろ…」 冗談じゃない。篠原の奴にとって楽しい遊びと感じるものは飽きるまでやり遂げる傾向があることを俺は知っている。本当に冗談ではない。 足元でカラリと缶が転がった。篠原は俺をだましたことでご機嫌な様子で空を見上げている。鳥が一羽、その黒い点に向かって、篠原は片手を上げて撃つ真似をした。なんてねウッソー。逃げれてよかったね。軽くて重たい声がしたが、気のせいだと俺も死なずに飛んで行く鳥を見上げた。

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