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第1話
家の外の大きな物音にチャールズは飛び起きた。
何かが派手に落ちたような、倒れたような、とにかくそんな音がした。暗闇の中、手探りでベッドサイドに置いてあるランプを取った。そして明かりをつけて壁にかけてある時計を見る。
……明らかに近所迷惑な時間だ。
一瞬寝なおそうかと思ったが、騒音の原因にものすごく心当たりがある。放っておいたらご近所で妙な噂がたてられてしまうかもしれない。
しぶしぶ、チャールズは起き上がりベッドから降りた。
現在彼が居を構えているのは、セントラルシティの中心街から大分西へ離れた住宅区にある。夜になれば街灯だけがぼんやり建っているような静かなところだが、中央区でアパートメントの家賃として払うのと同じ金額で一戸建てが借りられるのが魅力だ。成人後は法医学の研究者として生計をたてているチャールズとしては、膨大な資料を収納できるだけの部屋数と、研究に支障のない広さの家が必要だった。
周りが静かだということと部屋数がそろった借家が多いという条件のおかげか、近所には小さい子を持つ家族も少なからずいる。今の時間、子どもならきっと夢の中にいる頃だろう。
すばやく、すみやかに、目標を回収。
頭の中でミッションの内容を繰り返しながらチャールズは玄関のドアを開ける。彼の家は区画の一番端にあって、左隣が夫婦で教師だという家族が住んでいて、右側は細い路地になっている。自分の部屋で聞いた騒音の方向からいって、恐らく目標はこの路地に潜伏しているはずだ。
ランプをかざしながら路地を覗き込む。暗闇の中、ランプの灯りに照らされて四角て蓋のついた大き目のダストボックスが見えた。そしてその向こう、にょっきりと伸びる二本の足。
「……おい」
ため息まじりの声でチャールズは声をかける。反応は、ない。
「ったく」
舌打ちして、チャールズは路地を進んでいく。ダストボックスを横目で見ると、蓋の中央が大きくへこんでいた。騒音の元はこれか。
「おい、起きてくれ」
蓋は明日にでも直させるか、と思いながら騒音の原因に声をかける。ダストボックスにもたれて足を投げ出して、気持ちよさそうに眠っている。頬を赤らめたそのだらしない顔に何だかむかっ腹がたってしまい、チャールズは頭をグーで小突いた。
「んー」
「ジャーン、こら、こんなとこで寝ないで」
数年前から静かなチャールズの家に転がり込んできた同居人、ジャン・バーント。
暗褐色のウェーブヘア、落ちくぼんだ眼窩、高い鷲鼻に下がった口角。陰気そうなパーツをそこかしこに携えた彼はその外見の印象とは裏腹に、なかなか豪快な性格の持ち主だ。今もってこんなところで大の字になって鼻提灯を膨らませているくらいには。
小突かれたジャンは細く目をあけて何度か瞬きをした。明らかに、まだ夢の中にいます、といった表情だ。
「寝るならとりあえず家に入ってくれ」
こんな姿、ご近所さんに見られたらどうする。
チャールズがしゃがみ込み顔を覗き込みながらそう言うと、ジャンはちゃんと目が開いてない状態でいきなり立ち上がった。
「うおっ?!」
その勢いに、危うく頭と頭をぶつけそうになってチャールズはのけぞる。ジャンはそんなチャールズに見向きもしないで、隣にあるダストボックスの蓋を開けた。そして状況がつかめないままチャールズが呆然と見ている前で、ジャンは自らダストボックスの中に入っていこうとしたのだった……。
「最低」
ダストボックスの蓋を玄関のドアと思い込んだジャンを引きずって家に連れて帰り、玄関に放り出す。中にゴミが入っていたのか、ジャンが突っ込んだ方のズボンと靴には変な汁みたいなのがついている。それが異様な臭気を放っていて、チャールズは顔をしかめた。何よりジャン自体が、酒臭い。
放りだされたジャンはまた眠ったようだった。小さないびきが聞こえている。このままほったらかしにしておくか、とも思ったがやはり我慢できそうにない。チャールズはとりあえずジャンの靴を脱がした。靴下まで染みができていて、顔を背けながらそれも脱がしてしまう。そしてとりあえず汚れているズボンを脱がしてしまおうと思って、チャールズはあることに気がついた。
ジャンが穿いているのは、ごく普通のスラックスだ。ベージュ色だから汚れや染みがつくと目立ってしまう。とりあえず脱がせて汚れの部分だけ洗ってしまおうと考えたのだが、朝はあったはずのベルトがないのだ。
嫌な予感がした。
ジャンが酔っ払って道端で寝ているのも、その時になぜか持ち物が行方不明になっているのも、実は初めてのことではない。普段は品行方正で有名なジャンだったが、酒が入ると人が変わってしまうのを、チャールズは知っていた。ジャン自身は酔っている時のことをほとんど覚えていないらしいのだが、こうやって物的な証拠があるのと次の日チャールズにこっぴどく怒られるのとで、とりあえず酒は飲んではいけないとは思っているらしい。付き合いの場でもどうにかこうにかごまかしているらしく、最近はこういうことがなかったのだが、断りきれない状況というのもあるらしい。
しかしなぜベルト。
首をかしげながらチャールズはスラックスのボタンを外した。そしてファスナーを下ろす。別に酔っ払いの着ている服を脱がすことにためらいや恥じらいは感じない。
しかし次の瞬間、チャールズは凍りついた。
「……っ、こらーっ!!!」
そして時間帯のことも近所迷惑のことも忘れ、思わず怒鳴る。ジャンは一度びくっと体をはねさせると、ぼんやりと目をあけてチャールズを見上げてきた。
「へ」
「へ、じゃねえよ。お前なんでパンツはいてないんだっ!!」
胸倉をつかまれ無理矢理起こされたジャンは、目を閉じて頭をかいている。まるで身に覚え有りません、といった風な態度にチャールズはますますキレる。
「まさかお前、脱いで忘れてきたんじゃないだろうなぁ。おまえ、酒は飲むななんて言わないけどせめてみっともないことするのはやめてくれって、俺は何度も言ってるよなぁ?!」
がくがくと体をゆすぶりながら訴えると「きもちわる……」とジャンが小さく呟いた。
「気持悪いじゃねーよ、俺の話を聞け!!」
チャールズがそう怒鳴った時、玄関のドアベルが鳴った。
「……」
その音を聞いてチャールズは瞬時に我に返った。ヤバい。こんな時間に大声で怒鳴ったりしてしまった。酔っ払いを投げ出すとチャールズはあわてて玄関に向かう。ああ、きっとご近所の方が苦情に来たのだろう。恐る恐るドアを開ける。するとそこにはチャールズも見たことがある、ジャンの同僚たちが立っていた。
「……?」
よく見るとこいつらも酔っ払っているみたいだ。一様に陽気な笑顔を浮かべている。チャールズはますます嫌な予感がした。ドアを開けるべきではなかったという後悔が胸をよぎる。
すると、その中の一人が何かを差し出してきた。よく見るとそれはジャンのベルトだった。
「忘れ物をお届けにあがりましたぁっ!」
力いっぱい元気よくそう言われ、チャールズは思わず「はいっ!」と返事を返す。そしてベルトを受け取り、礼を言おうとしたときだった。
「いやー、でもバーント君があそこまで楽しい男だとは知りませんでした」
「え?」
「打ってくれと言われたときはどうしようかと思いましたが」
「……ぶ、ぶって」
「ええ。いきなりズボンとパンツを脱いで、ベルトを差し出してきて」
「……ぶ、ぶってくれ、と」
「はい、打ってくれ、と。尻を出して」
チャールズは思わず気が遠くなりそうになった。そうか、それでパンツをはいていなくてベルトが行方不明だったのか。
「わ、わかった。とりあえずジャンは俺が打っておくから、みんなは気をつけて帰ってくれ」
「はいっ! それではおやすみなさい!!」
動揺のあまりおかしな発言をするチャールズをよそに、同僚たちは来たときと同じように元気よく立ち去っていく。その後姿を見送りながら、ドアにすがるようにしてチャールズは崩れ落ちた。背後ではまた、ジャンののん気ないびきが聞こえている。
また知りたくもない同居人の新たな側面を知ってしまった……。
そして金輪際絶対に酒は飲ますまいと、うつろな目をしながらチャールズは誓ったのだった。
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