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1 - Ⅱ 彼の決意
コリンズグラスに満たされていたジン・フィズは半分程までに減っていた。空気に触れていた氷がじわりと溶けグラスを鳴らす小さな音によって、男の意識は過去の追想から現実のグラスの前へと戻ってくる。淡い照明に照らされたプラチナブロンドは光を内包するかのように輝いていたが、そのライトブルーの瞳は感情を映すことは無く、どこか虚ろなガラス玉のようであった。数年前まではただのガラスが嵌められていたシルバーフレームの眼鏡は、軽い度の入った老眼鏡となり、そのテンプルは細いシルバーの鎖が繋がっていた。グラスの氷を見つめていた男が静かに頭を動かせば、その動きと共にブロンドと鎖が揺れる。グラスの残りを一気に呷った男は、自身の座るカウンター席の向こうに立つ顔馴染みのバーテンへ「いつもの、お願い」と注文を告げた。作り物めいたように美しい男の横顔は、彼が生きた年数を刻んだかのような皺によって辛うじて彼が人間である事を物語っていたが、彼の纏っているタートルネックのセーターとジーンズは黒で統一されまるで喪服のようであった。静かなバーの中、彼の周囲だけが別世界のように空気が停滞し、男にチラリと視線を向ける客は居ても、彼へ声を掛けようという剛の者は居なかった。コリンズグラスが下げられたコースターにバーテンは何も言わずにそっと空のカクテルグラスを乗せる。そして物静かなバーテンは、鋭い鋭角を持つカクテルグラスの中へとシェイカーに満たされた乳白色のアルコールを注いでいく。
「ありがとう」
表面だけの笑みを綺麗に浮かべた男はバーテンへ一言だけそう告げ、バーテンはその言葉に一度だけ頷いて数席離れた所に座る別の客へ呼ばれて彼の前から去っていった。ラムをベースとしたそのカクテルを見つめる男は大事なものに触れるかのようにそっと細い指を華奢なグラスの足に伸ばし、そのグラスに口をつける。強いアルコールを一気に呷った彼は空になったカクテルグラスと紙幣をカウンターへと置いて、黒いロングコートを羽織りそのバーを後にした。
十年以上通い続けるバーは、彼にとって思い出の場所であった。四半世紀前に喪った恋人と一度だけ訪れたそのバーで、彼は一杯のロングカクテルと一杯のショートカクテルを飲む。ロングカクテルはその日の気分で変えて居たが、ショートカクテルは彼が一人でそのバーを訪れるようになってから、一度も変わることはなかった。ラムをベースとした乳白色のカクテルの名は『XYZ』アルファベッドの最後の三文字を冠する最上のカクテルとも言われるそのカクテルが意味する言葉は『永遠にあなたのもの』というものであった。そして、男の心は未だ瓦礫と炎の中で死んだ男に囚われていたのだ。バーの外、寒空の下、男は白い息を吐き出す。澄んだ空気の中、月がぽっかりと浮かぶ漆黒の空を見つめれば小さく光る星がその視界にひとつ、またひとつと映り込む。細いシルバーフレームの眼鏡を外し首から下げたまま彼は空を見詰めながら帰路をゆっくりと進む。その耳には未だ彼の愛した男の声が響くのだ。
「あれが、カシオペア。そして向こうが 北斗七星――こっちでは大荷車 か。とにかくその二つを結んだ所にある二等星が北極星。ポラリスだよ」
夜空を見上げ歩きながら、彼の愛した男は青年であった彼へと星の名を教えていた。空を飛ぶものには興味を持っても星には興味を持っていなかったかつての彼が覚えているのはその二つの星並びと北極星だけであった。それだけを覚えていたのは、ひとえに恋人との思い出を消し去りたくなかった為だ。
「旅人の道標。北半球に居れば北極星は北を指し示してくれる――お前は俺の北極星だよ。もしくは港か」
恋人が口癖のように告げていたその言葉を諳んじるように、彼は夜の闇の中小さくその言葉を呟く。その言葉は彼の他には誰にも届かない。短すぎた蜜月の思い出は、彼の心を軋ませる。恋人の悲劇的な死の後、彼は幾度もその手を血に染めていった。恋人が彼へと告げた最期の願いを、彼は守る事が出来なかったのだ。「もう、あなたの事を北極星だと言う権利はボクにはないのかもしれない」彼は誰もいない夜道で、空に輝く星に向けて震える声で言葉を絞り出す。「それでもボクは、今でも北極星だと思ってるんだ――シュンメ」死んだ恋人の名を呼べば、彼の明るいライトブルーの瞳からはポロリと雫が落ちる。
「逢いたい……あなたに、もう一度逢いたいんだ」
幸いにも男の他に人通りはなく、彼は静かに涙を流しながら祈るようにその言葉を夜空へと告げる。答えのない懇願は、夜の闇だけが聞いていた。恋人の願いを知っていた彼は、あの場所で彼を救わなかったという選択に対して後悔はしていなかった。しかし、彼にとって唯一の人であった恋人を喪う出来事は彼の心の壊したのだ。二十五回目の恋人の命日を目前にし、彼は密かにある決断を下していた。それが倫理に沿わない事であっても、決して赦されない事であっても、彼は彼自身の願いに従いその行為を行う事を決めていた。
その行為が世界を敵に回す事であっても、彼はそれを是とし、喜んで世界を敵に回す事を決めたのだ。
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