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1 - Ⅳ 宵闇の中で

 自身の身体が別のものに変わる感覚を覚えながら、男は座った座席の上で苦しげに眉根を寄せる。一度自分がバラバラにされ、再び構築されるような居心地の悪さを耐えていたのは一体どれ程の時間であったのだろうか。永遠にも一瞬にも感じたその苦痛は、男の身体が床に打ち付けられる感覚と共に終わりを迎えた。ドサリ、と男一人分の身体がコンクリートに落ちる決して小さくはない音がコンクリートに囲まれた空間に響き男は強張る身体をそろりと動かした。そこは、男もよく知る場所で。男が機械に乗った場所と同じであるが少し違うその場所で、彼はそろりと視線を巡らせる。その空間には物干し竿と洗濯機そしていくつかの工具箱が置かれていたが、男が作った壁と男の乗った機械は存在していなかった。年相応の掛け声を口にしながら立ち上がった男は、機械に乗った時に着ていたものと同じ黒いコートに付いた汚れを手で払う。コンクリートに囲まれた空間の中では外の様子を見る事は出来ない。そして、この場所に留まり続ければそのうちこの家の主――居ればの話ではあるが――と対面する事が余儀なくされるだろう。チラリ、と棚に置かれたデジタル時計を確認した男はそこに表示されていた三時という時間に頷く。流石にこの時間であれば、ここの家主も眠っているだろう。もしくは外出していて帰っていないかだ。彼は脳内だけでそう結論を出し、足音を立てないようそろりと足を踏み出した。    勝手知ったる家は、確かに男が住んでいた家と同じものであった。リビングに置かれたダブルベッドが空であることを確認した彼は、勝手知ったる家の中でカレンダーを確認する。そこに書かれていた西暦は彼の目指した地点で間違いはなく、スケジュール欄には二人分のスケジュールが書き込まれていた。そのスケジュールを見つめた彼はこの時間軸の自身がこの場所に居ない事を確認し、愛した男のスケジュールも記憶の中のそれと変わって居ない事に一人頷いた。そしてそのカレンダーが貼られた壁に沿って置かれた棚の上に紺色のベルベッドが張られた小箱を見つけるのだ。そっとその箱を手に取り、静かに開いた男は哀しそうな表情で微笑みを浮かべる。そこに納められていたのは、その箱を開く男の指に輝いているプラチナリングそのものであったのだ。 「ごめんね」  この場所に居ない誰かへと宛てた男の謝罪を受け取る人間はその場所には居なかった。そして男は元々その小箱が置かれて居た場所にそれをそっと戻す。小箱が置かれた棚に背を向けた男の瞳には、微かに哀しみの色が混じっていた。 「――よし、と」  そっと裏口から出た男は、その身に纏う黒い衣服で真夜中の闇に溶け込むようその家を後にする。まずは夜が明けるまで、何をすればいいだろうか。そんな事をぼんやり考える余裕すら出てきていた。黒く長いコートを靡かせながら彼は真夜中の散歩を楽しむ。風に揺らされるプラチナブロンドは月明かりを受け静かに輝き、真夜中に出歩く人形めいた造形をしている男をこの世のものならざる姿のように見せるのだ。男の視界に現れるのは、彼が若い時分に通っていた店。数年前に潰れたその店を少しだけ懐かしそうに横目で見遣り、どこに向かうかも決めているかのようにその足を黙々と進める。アドベントが終わり、煌びやかなマーケットが片付けられた広場の横を通り過ぎ向かった先は鉄の柵に阻まれた道であった。門の近くにある警備員の詰所は深夜にも関わらず煌々と光っていたが、その中に人影は無かった。きっと、もう仕掛けられている。空になっている詰所を見詰めていた男は監視カメラに怪しまれないように足を動かす。まるで、深夜まで呑んでた男が真夜中の散歩をしているだけのように。わざと右へ左へと千鳥足のステップを踏む男に、警備員として潜り込んだテロリストは注意を払うだろうか。いや、払うまい――だって、あの後すぐにボクに見つけられて殺されるような奴らだもの。男は心の中でだけそう呟く。この夜と、次の夜。二つの夜が明けた後、彼らはその計画を実行する。男は自身の記憶を辿る。どうすれば愛する男を救い出せるのかと。警備員の事を告発したとしても、そもそも身元が不確かな男の告発なんて怪しい以外の何者でもない。そうなれば、チャンスは一度だけ。男を当日その場所まで行かせないようにするしかない。研究所の周りを一周し、街中を当てもなく歩き続けていれば、夜の闇は白み始める。最初は茜色に、そして地平線から陽の光が輝きながら顔を見せる。空の色が変わるように、男のプラチナブロンドの輝きも変化していった。人々が通りを行き交いだした頃、男は駅の商店でポケットの中の小銭を使い新聞を買う。中身を読まずに日付だけを確認した男はその新聞を屑籠へと投げ入れた。新聞に書かれた日付は、彼の予想通りのもので。間違いなく彼の恋人であった男はこのままであれば明日死ぬのだという確信と共に男は前を見据えた。そして、彼は一人の男とすれ違う。身長のある黒い髪の男は、彼に気付く事なく彼とすれ違っていった。すれ違った男のダークブルーの瞳を一瞬だけ見つめた彼は、振り返ることもせずスーパーへと向かうのであろう男の背中を見つめる。彼にとって泣き出したいくらいに懐かしいその男の姿は、彼の愛した――そして今でも愛し続けている男のものであった。 「ボクはあなたを」  懺悔のようにそう告げる彼の言葉は、男に届くことなく雑踏に消えていった。

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