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第1話
ぬるま湯のような風が窓から忍び込んでくる。熱帯夜というにふさわしい夏の夜。快適な眠りにはほど遠い夜だった。
隣のベッドからは規則的な呼吸音が響いてくる。千秋はその音をできるだけ意識しないようにしながら、寝返りをうった。
(まあ、そんなの、無理に決まってるけど)
意識しないように、という時点ですでに意識してしまっているのだから。
仰向けから隣に背を向ける形に変えたとしても、元々ベッドの下に引かれた布団から、眠るハルカの姿が見えるはずもない。わずかな抵抗にすらならないだろう。
自嘲とともに吐いた息は、生ぬるい空気に紛れた。
熱い。
暑さよりも熱さを感じさせる、湿度のこもった夏の夜。
まるで、人の温度だ。窓から吹き付ける風すら呼吸を感じさせる。
こんな日に、ハルカの泊まりに来てという誘いに乗ったのは、明らかな失策だった。意識せずに眠れるはずもない。
生ぬるい空気を熱くて感じても仕方がないと思わせる、己の中の衝動を自覚している。こんな感情と、そして劣情を抱え込んだ自分が。
これほどの寝苦しさも全く関係ないかのように、背後のハルカは熟睡している。規則正しい呼吸は乱れる気配もない。千秋の隣で、ひどく無防備に。
そこにあるのは、千秋に対する純粋な好意と信頼だ。
あれほどほしかったものが、この空気の中では例えようもなく痛い。
ようやく人を信じてもいいのだと、笑うようになったハルカ。その盲目的なまでの信頼を、今まさに自分は裏切っている。
念願の志望校に入学して、二年目の秋。
クラス替えがあり新たな年学期を迎えて半年もたたず、千秋はおのれひとりではどうしようもない感情を知った。
どうにかしようとしても手も足も出ない、拙い自分にあきれる気持ちはふくらむばかりだ。そんなまさにどうしようもない感情を抱えこんで、最初の一ヶ月は認めないことに躍起だった。次の一月はなくしてしまおうと必死だった。そしてせめてと、ある程度のコントロールを覚えた三年の初め頃には、この感情を消し去ることを諦めた。
なんて簡単に、人は不自由になれるのだろう。
ため息を吐いて、また寝返りをうった。180度回転させた先には、自覚もなく千秋を縛り付ける当人が眠っている。千秋が眠ることもできずにいるというのに、呼吸は深く、規則正しく繰り返されている。
(ハルカ)
誘われるように体を起こし、片手を伸ばす。
そっとふれた肌は汗ばんでいた。その感触を確かめるように指先を滑らせても、起きる気配は全くなかった。
湿り気を帯びて、目の前に横たわる身体。窓から漏れる月明かりに白く浮かび上がっている。
「――――ハルカ」
今度は声に出して名前を呼んだ。それにも規則正しい呼吸が返されるだけだ。もう一度手を伸ばして、千秋が湿ったその肌に触れても。
「ハルカ」
また、ささやくように名前を呼んだ。その声がわずかにかすれたのは、何が理由なのかは考えたくもなかった。
熱い。
何も、考えられなくなるような、そんな熱さだ。
衝動に流されるまま、ベッドに乗り上げるようにして手を伸ばす。取り返しのつかない何かに。
「ハルカ……」
また、言い訳のように名前を呼んだ。
起きないのが、悪い。
オレの横で寝るのが悪い。お前を好きで仕方なくて眠れないオレの横で、眠るお前が。
パジャマ代わりに着ているTシャツの中に、手を差し入れた。表面に出ている肌より、熱くて汗ばんでいる。
腹を辿っても、身じろぎ一つせずハルカは眠っていた。
(――――見たい)
見たい。お互いの存在に慣れて距離が縮まるにつれて接触する機会も増えた。着替えの時でもなんでも、男同士で遠慮する必要もないだろといわんばかりに開けっぴろげなハルカ。そんな彼の無防備な姿など見慣れているはずだと、こんなの何でもないことだと必死に思いこもうと自分が足掻く、その肢体を。
鎖骨のあたりまでTシャツをまくり上げても、わずかに身じろいだくらいで、起きる気配は欠片もなかった。
薄暗い中、細い体が浮かび上がる。
覆い被さるようにして、脇に手を突く。胸元のわずかに色の違う突起が見えた。途端に沸き上がる衝動に逆らわず口に含む。周囲ごと舐めあげれば、汗の味がした。
「ん……」
わずかに漏れた声に顔を上げる。起きる気配がないことを確認してから、体の下に横たわる体を見つめた。わずかな月明かりの中、唾液に濡れた部分に誘われるように、今度は甘噛みをする。空いた手で辿る肌は汗で湿っていて、セックスを彷彿とさせる。
もし、ハルカを抱くなら。
自覚して以来、自慰の最中に嫌になるほど考えたそれが、今、まさに体の下にあった。
顔を上げ、首元から辿っていた手を、段々を下におろしていく。
どう見ても、こうして直接触れても、男の体だった。そしてそのことを一番に教えてくれる場所。
そこにも、ふれたい。舐められるものなら、舐めて、なかせてやりたい。
ハルカは寝ている。一度こう眠ってしまえば、滅多なことでは起きない。なら。
――――やめろ。
伸ばした手が、ふいに聞こえた声に一瞬止まる。
これ以上は、もう絶対ごまかしがきかない。もうやめろ。こいつの信頼を裏切るな。必死に止めようとするその存在こそ、ハルカの信頼する相川千秋なのだろう。
それは、お前といるのが楽しい、笑いあえるのがうれしいと、ただ純粋に言えた存在の声だった。映画の趣味も食の趣味も、笑ってしまうくらいおんなじで傍にいることが苦にならない、替えのきかない友だち。親友。
元来、千秋は友人の多い男だった。いつも誰かしらが隣にいて誘う相手も誘われる相手にも頓着したことはなかった。
でもこの男だけは。ほかに比べられるような人間を上げられない、この年になってそんな相手に出会うなんて。
そんな純粋に友を思うもうひとりの自分が、蛮行を止めようと躍起になっている。
必死な、声だった。
けれどこの熱さの中、その声はほとんど聞こえなくなってしまった。そうでなくても、もうその声は小さすぎるほどで、それ以外の圧倒的なものに埋め尽くされてしまっている。
ごめんな。
お前がとんでもなく大切にしていて、宝物みたいに思ってくれてる相川千秋なんて、もうこんなにわずかしか残ってないんだ。
「……ハル、カ」
贖罪のように名前を呼んだ。漏れた声を、今度は興奮よりも痛みとためらいがかすれさせた。
止まったまま、至近距離の体を見つめる。無防備に、だけどふれたなら全てを終わらせてしまうかもしれない、そんな存在を。
これがオレのものになるのなら、どんなに幸せだろう。
にじんだ汗が顔を辿り、ハルカの上に一滴落ちた。肌の上のそれは、ハルカのものと混じり、もう境目などわからない。
「ハルカ」
覆い被さり、耳元でささやく。
今だけだから。これで終わりにするから。
頬に伸ばした手がわずかに震えている。何に怯えているのかなど、聞くまでもない。
この、今ふれている存在以上に恐ろしい存在など、ありはしないというのに。
まなざし一つ、たった一言。そんなもので自分を打ちのめすことができる。どうしようもなく恋している相手なんて、そんな存在だ。
――――はる、か
わずか数ミリ。その距離で呼吸とともにささやいた唇を、そっと重ねた。
唇は、想像していたよりやわらかくて、そして呼吸に湿っていた。
ぽたり。
また頬を伝った汗が、ハルカの目尻に落ちる。これだけのことをしても、ハルカは起きる気配もない。千秋の恋心を知るよしもないように。
そのこめかみを伝って水滴が消える。
まるで涙のようだ、と思った。
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