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bubbleclash

また彼が悲しみの欠片を拾ってきた。 彼はいつも通り、どこかぼんやりとした顔をして部屋を横切る。 俺はソファにもたれかかり、それを横目で眺めながらそっと溜息をついた。 俺の同居人は、とても繊細だ。 それなのに、傷つきやすいくせに、いつもさりげなくヒトの痛みを拾ってきてしまう。 それをすべて抱え込んで、自分の傷にしてしまうのに。 彼は、とても不器用なんだと思う。 彼の前にここに住んでいた友人の結城(ゆうき)が、彼を紹介した時、 「すごく難しい奴だけど、いい奴だから」 そう言っていた。 結城は一見そうは見えないけど、心の機微に聡い人間だから、きっと彼は俺の嫌うタイプの人間じゃないんだろうと思った。 「オレは、きっとおまえなら、うまくやっていけるんじゃないかと思う」 そう言いながら、結城はふっと目を伏せて複雑そうな表情を浮かべた。 (なんだろう?) それは、まるで。 まるで、それを、望んでいないような・・・・・? その時は、不思議な気がしたけど。 今なら、結城の気持ちがなんとなくわかるような気がする。 彼はきっと、このどこか不安定な”来栖(くるす)ひなた”のことが、好きだったんだろう。 ひなたが、階段を昇ろうとした時、俺は努めて明るく声をかけた。 「ひなた、お茶飲まない?」 階段の一段目に右足をかけたまま、彼はくるりと振り向き、ぼんやりと俺を見た。 俺の言葉が理解できていないような表情。 頼りなげなその顔に、胸がちくりと疼いた。 「外、ちょっと肌寒かっただろ? 良い茶葉が手に入ったんだ。すぐいれてやるから」 ひなたは軽く首をかしげて、鞄を抱えなおした。 そのとたん、雨の匂いがふわりと漂う。 「・・・・・ありがとう。でも、」 ひなたの言葉を遮るように続ける。 「このところ冷えるだろ、梅雨寒ってやつ。こういう気候だと体調崩す人も多いんだってさ。こういう日は、温かいお茶で温まるのが一番いい」 困ったようにさ迷い始める彼の視線を掴みなおして、俺は駄目押しした。 「ほら、上着濡れてるよ。早く着替えてきな。 お茶、入れておくから」 彼が軽く息をついて、視線を足元に落とすのが分かった。 「・・・・・うん。・・・・・着替えてくるよ」 とんとんと階段を昇る音を聞きながら、今度は俺が大きく息をついた。 らしくない。 何をやってるんだ、俺は。 何をムキになってるんだか。 別に放っておけば良いじゃないか。 (こんなのは、俺らしくない) 彼はただの同居人じゃないか。 俺の生活のペースを侵さない限り、干渉はしない。 相手にも、俺に干渉はさせない。 それが、今までの同居人とのスタンスだったはずだ。 それなのに。 (なんで、彼がこんなに気になるんだろう?) もやもやした気分を抱えながら、俺はキッチンで手早く用意を始めた。 やかんに水を入れてコンロにかけ、ポットとティーカップを暖める。 (最初に会った時から変な感じがしたんだ) 結城の言っていたように、彼は俺の苦手なタイプではなかったけど。 (でも) (そういうことじゃなくて) お湯が沸くのを待ちながら、食器棚にもたれかかり、何とはなしに、キッチンの小窓をぼんやりと眺める。 部屋の暖められた空気と外気の気温差のせいでうっすらと曇ったガラスに、雨の雫がいく筋も伝って落ちて行く。 一瞬でも留まることのないその単調な動きを見ていると、記憶の底に沈んでいきそうな錯覚を覚える。 俺の顔を正面から見ようとしない彼に焦れて、彼の肩に触れた時。 弾かれたように見上げられた瞳から、彼の感情が流れ込んできた。 (・・・・・引きずられる) あんなことは、初めてだった。 心のやわらかい場所に。 するりと隙間から忍び込むように。 いつのまにか、彼がいた。 (このまま天気が回復しないなら、明日の朝は冷え込むだろうな) 昼過ぎから降り出した雨は夜半になっても止むことはなく、さらに勢いを増している。 さらさらと降る音と、ぽつぽつと小窓にあたる音。 無意識にその音を数えながら、機械的に、ティースプーンで茶葉の分量を測る。 (彼は、優しすぎる) (哀しいくらいに) 人一倍傷つきやすいくせに、なんで他人の痛みまで共有するんだ? 悲しみを持ち帰るくらいなら、それを匂わせないでほしい。 自分の心にしまいこんで、俺に気づかせないようにしてほしい。 そうすれば、俺はこんな気持ちにならないのに。 (・・・・・彼には、そんなまねはできないだろうけど) ───なんだか苛立たしい。 不器用な彼も。 それを無視できない自分も。 心を守る術を知らない子供。 生きるために必要不可欠なそれを学びそこなって、 彼は大人になったんだろうか? 俺は乱暴にポットにお湯を注いだ。 ジャンピングを始めた茶葉を眺めながら、俺は落ち着かない気持ちを持て余していた。 ひなたが二階から降りてくる音が聞えた。 彼の足音は、人間の気配をうかがう猫のようにひそやかだ。 キッチンからひょいと顔を出し、ソファに座るように促す。 彼は、青いシャツの上に、カーディガンを羽織っていた。 「すぐ持っていくよ」 「あ・・・・うん。」 ひなたはきょろきょろとリビングを見まわし、俺が座っていた向かいのソファの端っこにちょこん、と座った。 落ちつかなげに、そわそわと身じろぎする様子を盗み見て、肩をすくめる。 (借りてきた猫みたいだ) ここに来てからもう一ヶ月たつのに、彼はなかなか慣れようとしない。 「どうぞ」 「ありがとう」 ひなたはそう言って、受け取ったティーカップを覗きこんだ。 「良い香りだね」 「ダージリンだよ」 「そう」 カップに口をつけ、ひとくち飲む。 彼がほんわりと顔をほころばせるのを、俺はじっと見ていた。 「おいしい」 「そう、よかった。今日、新しくできた、紅茶の専門店に行ってみたんだよ」 ひなたの言葉と、それに答える自分の言葉が、心の表面を滑りながら流れて行く。 口が勝手に動いてどうでもいい言葉を紡ぎ出していくのを、なんだか別世界の出来事のように感じた。 正面に座る彼は気づかないんだろうか? 俺はそっとひなたから零れ落ちたものを拾い上げてみる。 これは、君の欠片? それとも、他の誰かの、欠片? きらきらと鈍く光るそれは、切っ先で俺の手を切り裂く。 溜息をついて、俺は紅茶をひとくち飲んだ。 じわりと芳醇な香りが広がったが、その心地良ささえもどこか上滑りになる。 それ以上飲む気がしなくなって、カップをテーブルに置こうと身を乗り出すと、ひなたと目が合った。 彼は慌てたように視線を逸らす。 「・・・・・どうしたの?」 「べ、別に・・・・・」 彼はぱちぱちと瞬きを繰り返し、落ちつかぬ様子でもじもじした。 息を吸い込み、吐き出し、同じ事をさらに何度も繰り返し、結局もう一回ティーカップを口に運んだ。 おかしいくらい動揺した様子を見せるひなたをぼうっと眺めていると、彼は更に何かに助けを求めるようにきょときょとと辺りを見まわす。 そして、さ迷わせたその視線がテーブルの上で止まった。 そこにはさっきまで俺が読んでいた医学書が、伏せたままになっていた。 「あ、加賀見(かがみ)くん、勉強してたの?」 「うん。レポート提出があるからね」 「・・・・・俺、邪魔した?」 「そんなことないよ。それに、誘ったのは俺のほうだ」 「でも・・・・・」 「ひなた」 少し強い口調で言うと、彼はびくんと肩を震わせた。 そのとたんに、持っていたカップの中身がぽちゃんと音を立てた。 「俺は、君とお茶が飲みたかったんだよ。目が疲れたから、ちょうど少し休もうと思っていたところだったし」 「・・・・・そうなんだ。よかった」 はにかみながら、うれしそうに微笑んだひなたを見て、さっき感じた苛立ちが戻ってくる。 (どうしたんだ、俺は) 温かいお茶と、この場に流れる穏やかな空気のせいで構えていた気持ちが緩んだのか、ひなたは珍しく自分から話題を振ってきた。 「加賀見くんは、お茶をいれるのがうまいね」 (なんで、俺は・・・・・) 「・・・・・そんなことないよ」 なんだろう? なんでだろう? 彼といると自分の感情がよく分からなくなる。 優しくしたいと思ったのに。 彼の繊細な脆い心を守ってあげたい。 人の悲しみを無視することのできない優しさを抱きしめてあげたい。 その気持ちは、本当なのに。 次の瞬間には、なぜか、とても残酷な気持ちになる。 彼が傷つくのが、見てみたい。 彼が必死になって守っている心の壁を壊してやりたい。 「こんなの、誰がいれても一緒だよ」 知らず、突き放した口調になった。 吐き捨てられたような、その冷たい響きに自分でも心臓がひやりとする。 ひなたは、一瞬眼を見開き、すぐに視線を膝に落とした。 やわらかだった表情は強張り、ほころびかけていた唇はきゅっと引き結ばれた。 手に持ったティーカップがわずかに震えている。 それを見て、なんだか奇妙な気分になった。 あまりにも想像通りの反応だったから。 言葉の刃は、なんて簡単に君を傷つけられるんだろう? 彼の感情はおそらく負の方向に向かいやすいんだろう。 外界からの刺激も、彼の内部からの刺激も、すべてが彼に向かう鋭い刃となる。 たとえそれが彼の考えるようなものでなかったとしても。 彼は自分で作った心の迷宮に囚われて、複雑な回廊をさまよい続けている。 (なんで、君は・・・・・) その時、ふと、ひなたのうつ伏せられた睫毛が意外に長いのに気づいた。 そして、彼を傷つける言葉を吐き出しながら、俺は自分がとても冷静なことに改めて気づかされた。 何かに促されるように、嗤いがこみ上げる。 「・・・・・だから、ひなたでも上手にいれられるよ?」 声色を最大限に優しくして、子供にそうするように話しかけると、彼はちらりと上目使いに俺を見上げ、また膝に目を落とし、そして最後に、ゆらゆら揺れる視線を俺の足元に落ち着かせた。 「・・・・・・・そ、そう、なの?」 「君に誉められた俺が言うんだから間違いないよ」 わざとおどけた口調で言うと、強張った体から力が抜け、彼にまとわりついていた緊張した空気が、みるみるうちに溶けて行くのが見えた。 瞬きが何度か繰り返され、おどおどと、うつむいた顔がゆっくりと上げられる。 その潤んだ瞳の中に、怯えるような、すがるような色を見つけて。 心の隅のほうで何かが跳ねた。 「今度、いれ方を教えてあげるよ」 にっこりと笑ってみせると、彼はつられたように口元をほころばせた。 気恥ずかしげに頬を染めるその顔は、親から誉められた子供のようで。 俺の放った刃が、薄い膜でゆっくりと包まれていく。 繊細で透き通るような、キレイな膜。 眩しくて、俺は目を細めてそれを見つめる。 (そうか)(俺は) 俺は。 彼が、俺の手で癒されるのを見たいんだ。 俺が、彼の傷を癒したいんだ。 でも、それは、誰か別の人間がつけた傷じゃダメなんだ。 俺が彼につけた傷を、俺の手で治して、彼の打ちひしがれた体を優しく抱きしめてあげたいんだ。 彼が痛みに涙を流して、俺に縋りついてくるのが見たいんだ。 そうしたら、きっと俺は、誰よりも優しく、誰よりも深く、彼のことを・・・・・ (我ながら、歪んでるな) 思わず苦笑すると、ひなたがカップを両手で持ったまま、不思議そうに俺を見た。 彼を取り巻く微妙な揺らぎが、ふわりと柔らかな軌跡を描いた。 心の壁で人を拒絶しながら、誰よりも人の心の痛みに同調してしまう。 君は、自分で思ってるより、全然無防備だよ? 目を眇めて、目の前に座る華奢な体を眺める。 (だって) (君の心を捕らえる方法を、俺は知っている) (ねえ、ひなた) 君を壊してみたいな。 君が、他人の悲しみなんか、二度と拾いたい気を起こさないくらい。 そんなものに、かかずらっていられないくらい。 そうしたら、君は、どうするだろう? 「加賀見くん、どうかした?」 「・・・・・なんでもない」 (ねえ) (そうしたら) (俺のことしか、考えなくなる?) 君はその時、どんな顔をするだろう いつのまにか、雨の音が止んでいた。 「ひなた。 お茶をもう一杯いれようか?」

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