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第1話

 三泊四日のゼミ合宿から帰ってきた俺を待っていたのは、パラダイスだった。 「瀬戸、お帰り」  家にたどり着き扉を開けた途端、涙目で玄関に走ってきた槙に、ぎゅーっと抱きつかれたのだ。  その勢いはまさにタックルというにふさわしく、あれ俺って実は戦地にでも行ってた帰還兵だっけ?と思いながら、倒れ込みかけた二人分の体重を必死で支えた。  が、右足に渾身の力を込めながら俺は幸せをかみしめていた。  こんな出迎えの前には多少の困難など、すごくどうでもいい。例え無闇にいい角度で入った衝撃に呼吸困難一歩手前であろうとも。 「た、だい…ま……。ま、き」  ごふ、と咳き込みかけたのをなんとか飲み込んで応えたというのに、聞いてるのか聞いてないのか、その間もぎゅーぎゅー抱きつく目の前のおとこの力は強く、ああこれ全力なんだろーなと思える強さだ。きっと痣になってることだろう。  これが他の誰かなら脊髄反射で力の限りを尽くしてはぎ取って、どういうつもりだなんの狼藉だそこに直れと詰め寄ったかもしれないが、相手は槙だ。もういくらでも痕付けろよさあさあさあ遠慮せずに!!くらいの心境だ。呼吸困難にだって愛を感じる。あー可愛いなちくしょう。  足下にぐしゃりと危険な音を立てて落ちた卵入り買い物袋だの、まだ靴も脱いでなくて玄関に立ってるだの、そんなことは全部後回しで、とりあえず数日ぶりの槙の体を抱きしめ返す。  何せ、数日留守にしてたっていうのに、明日からまた親からの厳命により数日実家に戻ることになっている。来ないと学費停止だと恐ろしいお達し付きだ。  まあ、大学入学以来、ものの見事に一度も家に帰らなかったんだから、これくらい当たり前なのかもしれないが。  まあ世間の常識はさておき、明日っからまた槙と離れる生活が数日続くのだ。俺は素直に槙を補充することにした。 (あーこの匂い久しぶりもう同じシャンプーなのになんで匂いかいだだけでヤりたくなるんだろーなーつかやべどうしようスゲー可愛いっていうかこの槙を置いてオレ一人明日から実家?ありえねえーとんでもなくありえねえけどでも帰らなかったら母さん激怒だろうしそうなるとこの同棲生活って言い張りたい同居生活も一巻の終わりだから絶対行かなくちゃなんだけどだがしかし……ってあれ?) 「槙、ちょっとやせた?」  その問いに、びくりと腕の中の体が反応する。 「え、そうかな…? わからない」  これは確実に痩せたな。  俺は出会いから今までで、総力を持って槙の行動パターンを把握し尽くしたのだ。間違いない。 「……飯、どうしてた」 「た、食べてたよちゃんと」 「三食、ちゃんと、レトルトですまさずに、栄養も偏らせずに。食べた?」  わざとらしく区切り強調すると、槙は沈黙を選んだらしかった。ぎゅーっと抱きついていた腕が、縮こまるように自分を守り出す。 「……食べてなかったんだな?」  びく、とまた体が反応する。それにため息をつくと、また体が縮こまった。これは散々な食生活だったに違いない。 「ちゃんと食べろって言ってただろ。ったく、今から作るから、食べろよ?」  それにぱあっと顔を輝かせて、こくこくと槙が頷く。  高校の頃ならいいつけを聞かなかった槙に、怒鳴ってしまっていたに違いない。だけど、俺もいい加減、大人になった。それに何より、この事態は俺に責任があるのだ。流石に槙ばかりを責められない。  高校三年。進路を決める季節は、否応なくやってきた。 『槙、オレと一緒に住まない?』  そう言った俺に、槙は頷いた。その段階で恋人と呼べる関係だった俺たちは、こうして自分たちとしては同棲、対外的には同居生活に入った。  そもそも告白したのも俺だった。そして同居を提案したのも俺。槙は頷いていただけだ。  その頃の俺は、槙に対して少し臆病になっていて、ある種信用していなかった。今にして思えば進路が別れる前の、受験生のナーバスな心境がどうとかだったのだろうが、当時の俺としては必死に悩むほどの大問題だったのだ。  そして俺はありとあらゆる手を使って、槙が俺から逃げられないようにしたのだ。  まず、食事は徹底的に俺が作った。別に上手くもなかった料理が今や十分すぎる腕前になるほど作り続け、いまや三食の栄養バランスも彩りももちろん味も完璧だ。  次に、寝るときもそれ以外も、家にいるときは常に二人でいるようにした。一応誰かが訪ねてきたとき用にベッドは別に買ったが、眠るのは一つのベッドにしたし、それ以外もできるだけ槙と接触しているようにして、その状況に慣れさせた。  一緒に風呂に入らないときでも、俺が槙の髪を拭いてドライヤーで乾かす。爪だっておまえは不器用なところがあるし見てて冷や冷やするんだとかなんとか言いくるめて俺が切っていた。  離れている時間もメールで何しているかを槙に送らせるようにして、別の進路を選んでいても、おおよその行動を把握するようにした。 (我ながらすげえよ……)  三年目の今にして思うと、またすごいことをしたもんだと思うが、当時の俺は必死だったのだ。全てを把握して、そして管理していたかった。滅茶苦茶だ。  だけどそんな俺の余裕のなさに、槙はたいして文句もいわずに従った。  始めの頃は、戸惑って自分で何かをしようとして俺に止められて、何かを言おうとして俺をじっと見つめて、それから何も言わなくなった。  多分、今となっては想像でしかないけれど、槙は俺の焦燥と不安に気づいていたのだろう。そして、それに根気強くつきあった。そういうことなのだ。  おそらく、高校時代の共通の友人の面々に知られたなら、呆れられたり説教されたりたしなめられたり、下手すれば怒鳴りつけられそうな俺の行動は、こうして許容されていた。  山あり谷ありでいろんなものを乗り越えた今となっては、笑い話にもならないが、その弊害というか美味しいオマケが残った。  俺に散々翻弄された槙だ。  すっかり二年以上もそういう生活を続けた結果、俺がいないと落ち着かないという状態になってしまったのだ。  そして、そんな状態で俺のゼミ旅行が入った。おかげで、冒頭の熱烈な歓迎になるのだ。今だって、スーパーでざっと買ってきた食料品を詰めている背後でじっと様子を見守っている。ちなみに卵は半分死んだ。 「槙、座って待ってていいよ」 「んー……」 そう言っても、うろうろ背後で待っている。その落ち着きのなさは、どう考えても俺のせいで、ちくりと内心が痛んだりもする。だけど。 (あーやっぱり可愛い……)  恋人にこんなに求められて嬉しくないはずがないわけで。 「槙、槙」  ちょいちょい、と人差し指で呼ぶと素直に近づいてくる。こういうプライドのなさがやっぱりものすごく可愛い。俺以外には怒れと思うが。 「どした? 瀬戸…」  無防備に近寄った槙の後頭部を押さえ込んで、三日ぶりのキスをする。問いかけのために開いていた唇の隙間から、入れられる限り舌を突っ込んで、槙が立てなくなるまでなめ回した。 「……っ、あ……」  多分俺の名前を呼ぼうとしたのだろうが、散々口の弱い部分を弄られたせいで上手く口も回らないらしかった。そのままへたり込んだ槙に、もう一度軽くキスして、「飯、あとでいー?」と耳元で聞いた。  可哀想に、少し痩せた槙。だけど一回くらいなら――――  潤んだ目で槙が頷きかけたときだった。  ピンポーン。  空気も読まずに、玄関チャイムが鳴った。 「………客?」 「あっ」  ほとんど朦朧としていた槙が、それで我に返ったように叫んだ。 「遊びに来てくれるって、約束してたんだ! ほら、高校時代のみんな!」  ――――なんだって?  ぶっちゃけもう滅茶苦茶ヤる気だった今のこの状況で?  帰れ。もういいから。  そう返したくなった俺の内心に気づいたかのように、またチャイムが鳴った。今度はすげー連打だ。ほんとに心覗いてねーだろーな。クソ。  諦めて立ち上がろうとして、俺の服の裾を、槙がぎゅっと握っているのに気がついた。 「……槙?」 「あのね、あとで続き、しよ?」  そして俺の機嫌は百八十度回転した。  ものすごいいい笑顔で「いらっしゃい!」と出迎えた俺を、懐かしい面々が玄関で見て思いきり後ずさっていたが、それこそどうでもいい。  この後にはパラダイスが待っているのだ。そんな些末事に関わってられっかよ。

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