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第1話

 6時間目の古文。  壊れた雨樋から滑り落ちていく水の量はそこそこあって、校庭は全体でひとつの水たまりになっていた。 「あー、傘持ってなかった! 相合い傘したかったのに!」 唐突に声を上げたのは、青木くんだった。前髪をおでこの上で噴水のように束ねていて、話すたびにぴょこぴょこ揺れる。  授業の流れとは関係なく思ったことを口にして、彼はもちろん先生にたしなめられたが、気にせず喋り続けた。 「大失敗! 今日から梅雨入りしたとみられてるんでしょー? 俺、今日がいいんだ。でも、傘なんかなくても雨の中は歩けるよね。……先生、授業続けて。邪魔してごめんね」 何か青木くんなりの理論で納得できたらしい。シャーペンと蛍光ペンを両手に一本ずつ持って、古文の授業へ戻っていった。  僕のほうがすっかり気が散って、製図用のシャーペンを手の中で回しながら、雨を眺めた。銀色の残像を残して垂直落下していく数えきれない水の粒。 「雨、好きなの? 雨が降ると、いつも見てるよね」 いつの間にか帰りのSHRまで終わっていて、スクバを背負った青木くんが、僕に向かって話し掛けていた。 「席が窓際だからかな」 「そう? でもキミ、晴れた日はあんまり外を見ないよね。雨の日はずっと見てる。気になるのは光の反射? 景色全部が雨に濡れる情景? 空の色? 匂い? 彩度や明度の変化? 音? 雨があたる物体? 空から落ちてくるときの姿? シャワーは浴びるとママに褒められるのに、雨を浴びると怒られる理不尽さ?」  質問を畳みかけながら、僕のスクバにどんどん荷物を詰めて手渡してくる。さらに僕の手首を掴んで歩き始めた。 「雨を見に行こう」  ウチの高校は一足制だから、靴を履き替えることもなくそのまま校舎の外へ出て、水浸しの校庭を斜めにまっすぐ横切った。  大粒の雨がぼたぼたと降っていて、髪を掻き分け地肌に水が直撃する。頭皮から額へ落ちてくる水を手のひらで拭いながら、青木くんに引っ張られて歩いた。  橙の木の向こうに見える音楽科の校舎からは、いろんな楽器の音が聴こえている。 「美術科は目に見えるものを扱うけど、音楽科は目に見えない音を相手に葛藤してて、同じ芸術高校でも真逆なのが面白いなーって思うよね」 「音楽科のことまで考えたことなかった」 手を引かれながら音楽科の校舎を見た。今日みたいに湿度が高い日は、楽器のメンテナンスに苦労するのかな、という程度の知識しかない。 「俺、従兄がピアニストなんだ。本番で弾くときって、楽譜とは別に情景が頭に広がって、それを表すように弾くんだって。音は目に見えてないけど、視覚的要素もあるって不思議だよね」 「美術でも、カンディンスキーだっけ。音楽を絵に描く人がいるよね」 緑の葉を打つ雨の音に負けない声で言うと、青木くんは僕を振り返った。 「そうだね! 俺もカンディンスキーみたいに、従兄の音楽を描いてみようかな。この間、リサイタルに行ったけど、夜空、金色、草原、珊瑚色の朝焼け、祈る人、いろんな景色が見えた。……あ、みえてるんだね。網膜に光が入る光学的? 医学的? 科学的? な意味じゃないけど、音楽ってみえてる。不思議ー!!! 目に見えない音を通して視覚が伝達されるって、超面白い! 楽しいね、こういうこと考えるの! 俺、すごく好き!」 大股で歩きながらスキップするので、手首を掴まれている僕まで振動が伝わって、スクバが肩から滑り落ちるのを、何度も肩にかけ直した。  青木くんは正門を出て、駅とは反対の方向に歩く。大きな公園の中へ入って行って、蓮の葉が広がる池を覗き込む。  雨水は蓮の葉に触れた瞬間、銀色の粒になり、表面張力の塊になって転がる。丸くなろうとする力が働くのに、風が吹いて葉が傾くと、水玉は細長く引き伸ばされて、蓮の葉から流れ落ちる瞬間にただの水に戻って小さな滝になる。  青木くんは口を開いた。 「蓮の葉の水の嫌い方って徹底してる。絶対馴染みません、100パーですって感じがしない? そのくせ、根っこは泥の中にあって、水分を必要としててさ、でも咲かせる花は泥なんか知りませんって顔してるよね。セックスなんか知らない清純派ですって顔をしながら、実はヤリまくってるビッチ感……は、言いすぎ?」  肩をすくめて青木くんはまた雨の中を歩き出し、すぐに一瞬だけ足を止めて池の上にせり出した赤い鳥居を指差す。 「あ、池の上にある神社って、弁天様を祀ってることが多いんだって! 理由は知らないけどー!」 また歩き出して、博物館の前に出た。意匠を凝らしたコンクリート製の古い建物は、雨空と同化してどちらも灰色になっていた。 「こういう絵、描いてみたいな。白と黒の絵の具だけと思いきや、青も黄色も使うような。あの辺の錆びついたところは赤も使うね」 スマホを取り出して何枚も写真を撮って、僕を見た。 「写真、撮らなくていいの?」 そう言われたら撮らなくてはいけない気がして、スマホを取り出したけど、僕の前には手首を掴んで立つ青木くんがいて、見守るようにこっちを見ていたので、撮影した構図は彼とは違うものになった。  また歩いて、彼は突然お寺の境内へ足を踏み入れた。 「きれいでしょー? これを見て、絶対にキミを連れて来なくちゃって思ったんだ」 本堂へ続く敷石の左右に、真っ白な紫陽花が咲いていた。咲き始めは黄緑色で、だんだんに白くなってくるやつ。  青木くんは少し奥のほうまで歩いて、一株の紫陽花の前で唐突にしゃがみ、僕の手首も引っ張って一緒にしゃがませた。  そこで初めて僕の手首を解放し、その代わりにひとかたまりの紫陽花の花を両手で示す。 「見て、ハート型! 好きな人に花束をプレゼントしながら告白したらロマンチックだなって思ったんだけど、この子は地面から生えてて動かせなくて、花束にできなかったからさ、反対にキミをここまで連れて来ちゃった!」 「はあ」  たしかにその紫陽花だけは丸の一部が内側に凹んで、ハート型になっていた。白いハート型の紫陽花。 「プレゼントはできないんだけど、その代わりに一緒に見て、ハート型だねって思って!」 「う、うん。ハート型だね」 「でしょでしょー! 『梅雨入りしたとみられる』なんて曖昧で、毎年ちょっとその表現に引っ掛かりを感じる不思議な日に、こんな真っ白で可愛いハート型の紫陽花を見たら、忘れないよね。これから毎年『梅雨入りしたとみられる』って気象庁の人が言うたびに、俺のことを思い出してね!」 曖昧に頷いていたら、青木くんは急に真剣な顔をして、僕に正面から向き合った。 「好きです、付き合ってください」 僕は即答した。 「無理です、ごめんなさい。彼女がいます」 青木くんはぐおおおお、と呻いて頭を抱えたけれど、僕は彼女以外の人と付き合う予定はない。  膝を抱え、ハート型の白い紫陽花をじっとり見つめている青木くんに声を掛けた。 「でも、告白してくれてありがとう。紫陽花の花も嬉しかった」 「うん……」 すっかりしょげてしまった青木くんの手首を、今度は僕が掴んで駅に向かって歩いた。 ***  僕はあの紫陽花の影響というのでもないけれど、美大を卒業してフラワーアレンジメントの世界に入った。一本一本、花の表情を見て、声にならない対話を繰り返しながら、いろんな場所で花をいけている。  あのとき、青木くんと僕の間に恋愛関係は生じなかったけれど、今でも『梅雨入りしたとみられる』というニュースを聞くたびに、あの日の白いハート型の紫陽花と、告白してくれた青木くんを思い出す。僕の記憶に残したいという青木くんの目論見は当たっていたんだろう。 『超キュートな恋人ができた! 今度こそ運命の人!』  青木くんからの写真つきのメッセージに顔がほころぶ。隣で一緒に作業している僕の奥さんに見せたら、僕と同じように顔をほころばせた。  僕は、白くてこんもりした紫陽花の枝先を花鋏で鋭くバチンと切って、水を染み込ませたオアシスにしっかりと差し込んだ。  今度こそ、青木くんの運命の人が、青木くんのところにしっかり根ざしてくれますように。

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